天下の風来坊 <後>












「いつもありがとな、嬢ちゃん!」
「毎度!」

笑顔を顔に貼り付けたまま、パタンと戸を閉める。
2・3歩歩いてから、は細く長く息を吐き出した。
心配する母に大丈夫だと豪語して客先まで桶を届けに来ていた。暗い顔をしてはお客様も母も心配するからといつも以上に笑顔でいるようにと気をつけてはいるが、緊張が解けると、やはりふいをついて溜息が出てくる。

あの事件から3日程が経っていたが、まだはあの時の事を思い出しては時折震え上がる。
侍に刀を向けられたのは初めてだった。
それはそうだ、そんな経験は普通に生きていたら早々することがない。
人に本気で睨まれ、刀を突きつけられるというのが、ここまで衝撃的な事だとは思いもよらなかった。
いや、想像したことすら無かったのに。

は両頬を手で軽く叩いて、気を入れ直した。

「(しっかりしなきゃ!)」

がこんなでは、せっかくのお客様だって逃げてしまう。
そう思って歩き始めた時だった。

「おい、いたぜ」
「ああ」

長屋から大通りに向かって歩いていると、後ろから声が聞えた。
何とはなしに振り向いて見ると、つい数日前に見た浪人が3人、立っていた。
は一瞬凍りついた。
どうして、と思う。
どうしてまた、自分と鉢合わせするのだろうか。これは果たして偶然だろうか。
浪人たちはこちらを見て、下卑た笑みを浮かべている。
冷や汗がの背を伝った。
浪人達の一人が一歩こちらに歩き出したのを機に、は脱兎のごとく走りだした。
先程のやりとりを聞く限り、どうにも嫌な予感がしてならなかった。
案の定、浪人達はを追いかけて走りだした。

「待て餓鬼!」
「待て!」

待てと言われて待つもんか、とは全速力で大通りに向かって走った。
まだ陽は高い所にあるし、大通りに出ればなんとかなるはずだ。
けれど大通りまであと一歩というところで、は再び襟首をぐいと掴まれた。

「…っ離せ!もう、なんなんだよ!」
「静かにしねぇか!」

後ろから羽交い締めにされ、叫ぼうと思っていた口を封じられては身動きがままならないどころか助けも呼べなくなった。

「(ころされる…!)」

は恐怖に震えた目で浪人達を見上げた。
けれど浪人達は今回はに刃を向けることなく、を拘束したまま運び始めた。腕を縛られ目隠しをされ、用意していたらしい籠に押し込められてどこかへと運ばれていった。
はどうやら拐かされたらしかった。
もがくにはもがいてみたものの大の大人に勝てるはずもなく、やがてどこかのお屋敷の蔵へと無造作に放り込まれた。
手と足は縛られたままで、無様に地に転げる。

「大人しくしていろ!」

バタン、と蔵の重たい戸が閉まる音がする。
目隠しは外されたものの不自由な手足で、は大きな声で叫んでみたり扉に体当たりしてみたりしたが、ついには力尽きて泣きだした。

「誰か…助けてぇ……。おっかさん…おとっつぁん………新さーん…!」

えんえんと泣く内に陽は暮れ、その内疲れて眠ってしまった。
が次に目を醒ましたのは、微かに冷たい風が頬を撫でたからだった。さっきまでは閉まっていたはずの蔵の扉が一瞬開いて、またすぐに閉まったらしかった。

目を開けて薄ぼんやりとした視界の中に見えたのは、黒い装束を身にまとった男だった。
見慣れない服装だ。
足軽や大工や町火消や、の知るどの町人のそれとも違う、変わった服装だった。
足音もさせずに入って来たその男に怖くなっては悲鳴を上げそうになった。

「しっ!静かに。ちゃんだね?助けに来たよ」

けれど男から紡がれた優しい声音とその内容に、は目を見開いた。

「…助けに?来てくれたの?」
「ああ」

そう言ってその男の人はほんの少し口角を上げて、を安心させるように笑って頷いた。
男はの手足の拘束を解いて、頭にぽんと手を置いた。

「よくがんばった」
「…うん。……あんた誰なの?何であたしを助けに来てくれたの?」

優しくされて再び涙が滲んできたが、それを誤魔化すようには矢継ぎ早に男に質問を投げかけた。

「俺は新さんの仲間だ。さあ、まだ安心するには早いぞ。ここから出よう」
「あ、うん…!」

名前は教えてくれなかったが、男は安心させるようにもう一度控え目に笑うと、の手を取ってゆっくりと歩き出した。
男は蔵の扉を少しだけ開けて外の様子を伺い、誰も居ない事を確認してさっと蔵から抜けだした。
不思議と、男の歩く足音は聞こえない。男に倣って足音を立てないようにとも努力したが、ざりざりと一人分の小さな足音が通路に響いた。

大きな屋敷は、どうやら武家屋敷のようだった。
それもかなり大きい事から、どこかの下っ端侍の屋敷などでは無いはずだ。もっと偉いお侍のお屋敷だろう、とでも想像が付いた。
屋敷の門へたどり着くまでに、庭を横切ったり離れの裏を通ったりした。
そうしていくつかの庭を通り過ぎ、また別の庭が見えてきた時、聞き覚えのある声がした。

「―――」
「――、―――!」

先程目の前の男が言った事を証明するかのように、それは新之助の声であるようだった。
けれど、いつもとは随分と様子が違う。
屋敷の庭に面した柵に手を掛けた目の前の男が、ピタリと足を止めた。
急に立ち止まった男に危うく突っ込みそうになる所を慌てて体を急停止させて、も男が見つめている先を見た。
柵の間からかろうじて見える見慣れた背中。

そこには、新之助が居た。

新之助が向き合っているのは、どこかのお殿様のような、綺羅びやかな羽織を着た老齢のお侍だった。
その横には商人風の男が立っている。

「愚か者が。余の顔を見忘れたか」

新之助が言ったとは思えない程の堅い声で、新之助は老齢の侍に言い放った。
しばし考えるように目を細めた老齢の侍は、何かに思い至ったのか、驚いたように目を大きく見開いた。

「――う、上様!上様じゃ!」
「上様!?」

侍と商人は、先程のふんぞり返った様子とは打って変わって、恐縮しきった様子で廊下の階段を慌てて駆け下り、庭の砂利の上に叩頭した。

叩頭、したのだ。
新之助に向かって。

「上様…?」

は、信じられない言葉を聞いたように、鸚鵡返しに言葉にしていた。

上様。

以前にも同じ事があった。
そう、知らない女の人が、新之助の事をそう呼んでいた。

「上様って……将軍様?新さん…が……?」

その問に答えてくれるものは居ない。
が呆然と突っ立っていると、いつの間にか目の前の屋敷の庭では斬り合いが始まっていた。
屋敷の中からこれでもかというほど侍や浪人が飛び出してきて、刀と刀がぶつかりあう嫌な音と、侍達の怒号が庭に響く。

ちゃん、ここに居るんだ。絶対動くんじゃないぞ。いいな!」

を助けた男はそう言って柵を開けて庭へ飛び出すと、次々とその手にした刀で侍達を斬っていった。
その内、以前見かけた女の人も加わって、庭は斬るや斬られるやの合戦場になっていた。
最初は侍がこちらに来るかもしれないとも身を縮めて小さくなっていたが、相当な手練である新之助と二人の助っ人で敵の侍達は手一杯の様子で、がいる事に気が付きもしていないようだった。

「成敗!」

最終的には新之助のその掛け声に従って、助っ人二人が老齢の侍と商人を斬り捨て、勝負は存外にあっけなく決したようだった。
あれだけの侍達が居たにも関わらず、今動いているのは新之助と助っ人二人、そしてだけとなっていた。

「……し…、新さん……」

人がたくさん倒れていてとても怖かったが、けれどそれよりも、は居ても立ってもいられなくなって柵をくぐって新之助の前まで駆け出した。
いつもならそのままの勢いで飛びつく所だが、けれどいつもと違う新之助を前にするとそれは出来なかった。手前で急停止すると、今しがた刀を収めたばかりの怖い顔をした新之助を見上げた。

「新さん…!」
……」

そこでようやっとの事に気がついた新之助が、驚いた風にの名を呼んだ。

「新さんは……上様なの?将軍様…なの?」

新之助は、それから困ったように笑った。

「…、…隠していて悪かったな、許せ」
「……!」

肯定された衝撃に、は頭の中が真っ白になった。

新さんが将軍様?
そんな!

の中には驚きと、それに大きな悲しみが渦巻いた。

新さんは、気安く話しかけていいような人じゃ無かったんだ。
遠い遠ーい、雲の上の人だったんだ。
怖いお侍達の、その頂点に立つ人。
本当は町人と慣れ合うような人じゃない。

けれどに大きな衝撃を与えたのは、その事実よりも何よりも―――

もうお団子を一緒に食べに行ったり出来ない。
縁日に手をつないで歩くことも、花火を一緒に見ることも、もう出来ない。

もう新之助と一緒に楽しい時間を過ごす事は出来ないんだと、その事実がに大きな衝撃を与えていた。

目にじわりと涙がにじむ。
は数歩後退った。
そして、自然とその場に膝をついて、頭を下げた。

「う、上様とは知らず…その……たくさん失礼な事を言ったりしたりして、えっと…ごめんなさい……」

震えそうになる喉を叱咤しながら、はなんとか声を絞り出した。
雲の上のお人なら、町人にそんな事をされればお許しにならないかもしれない。
無礼討ちだと言って殺されても、文句は言えない。
それだけの事をはしたと思っていた。
どうしても怖くて顔を上げられなかった。あの怖い堅い声が今にでも降ってくるのではないかと、はぎゅっと目を瞑った。耐え切れなくなったように、雫が一粒、の目から零れ落ちて地面を濡らした。

けれど次に聞えたのは、はは、という新之助の明るい笑い声だった。

、さあ立ちなさい」

なぜか困ったように、けれどおかしいものを抑えるように新之助は笑いながら、の腕を取って立ち上がらせた。
新之助には、必死な様子で謝罪を口にするこの真っ直ぐな子どもが、愛らしくていじらしくてしょうがなかったのだ。

「子供がそんな事を気にするな」
「こ…子供じゃないもん…」

つい、いつものように言い返してから、あ、とは慌てて両手で口を塞いだ。
それを見て更に新之助が笑みを深くした。

「そうそう、その調子だ。、俺は徳田新之助。それでいいだろう?」
「よ、よくないよ…!だって上様なんでしょ?上様って言ったらえーっと、将軍様で、将軍様って言ったら、えーっと……、………あれ?……と、とにかくすっごいすっごい偉い人なんでしょ、そもそも町に降りて来てもいいの?」
「俺がいいと言うんだから、いいんだ」
「いいんだ!?」

当然だろう、といったふうに新之助はしたり顔で頷いた。

「確かにそれのが新さんっぽいけど、いやでも新さんは上様で…!」

は考えながら自分がどうすべきか、頭の中は混乱していた。
わたわたするを見ながら、御庭番二人も温かい笑みを浮かべ、新之助もうんうんと頷いている。

「じゃあ、こういうのはどうだ?」
「?」
「俺の正体は二人だけの秘密だ。たまには団子を奢ってやるから、は俺の正体を秘密にしてくれ。どうだ?」
「そ…それは、願ったりかなったりだけど…。え、それは命令…でしょうか」

取ってつけたような敬語が可愛らしかったが、新之助はゆるりと首を降った。

「これはめ組の居候で、の友人である徳田新之助からのお願いだ」

にやりと笑って、新之助は片目を瞑って見せた。
こういう茶目っ気がある所が憎めないというか何と言うか。
はしばし頭の中でどうするか考えたが、考えるのも馬鹿らしくなってやめた。深く考える必要はないと気がついたのだ。

「――うん、分かった。ホントにいいんだね?」
「もちろんだとも」
「良かったぁ!」
「そうか。良かったか」
「うん、ホントに良かった。新さんあのね、助けに来てくれてありがとう」
「元はと言えば、俺をおびき出すためにが攫われたんだ。それに元々この勘定方には用があったしな。むしろ巻き込んでしまって謝るのは俺の方なんだがな」

浪人達の辻斬の現場に居合わせたと、それを救った新之助は、裏で糸を引いていた勘定方から目を付けられていた。実はの知らない所で、新之助は度々彼らの悪巧みを妨害していたこともあって、狙われていたのである。
腕も立つ新之助は一筋縄では行かないと踏んだ勘定方は、を囮にして新之助をおびき出したのだ。
それが上様であるとも知らずに。

「え、そうなんだ」
「怖い思いをさせたな。すまなかった」
「いいよ!助けに来てくれたもん!」

怖い思いをしたけれど、でもなんだかよく分からないけど悪いやつは成敗されたみたいだし、一件落着したみたいだし、結局は無傷で助かったのでは良かったと思っている。
むしろ新さんの秘密を知ることが出来て、棚からぼたもちだとすら思うくらいだ。

「お兄さんもありがとうございました」

膝を付いている、を蔵から助けだした男にもは礼を言って頭を下げた。
男もどういたしまして、と和らいだ声で返してくれる。
そういえば新之助の仲間だと言っていたのを思い出して、は新之助の方を振り返った。

「このお兄さん達は新さんのお友達なの?」

そう新之助に尋ねる。

「ははっ、そうさ。頼もしいだろう?」

茶化して新之助が笑い、そうなんだぁとが納得しそうになった所で、男が少し慌てたふうに上様、と口を開いた。

さん、私は上様にお仕えする者。恐れ多くも友人などでは」

どうやら相当真面目な人のようで、上様の友人と言われてかなり恐縮しきっていた。

「へ?新さんの家来さんなの?」
「はい。才三と申します。こちらは茜」
「茜です」

才三さんの横に同じく膝を付いている女性が、言われて軽く頭を下げた。

「そっかぁ。いい人達が一緒に付いててくれて新さん良かったね!」
「そうだな」

新之助は嬉しそうに朗らかに笑っていた。
才三、茜もまれに見る主のご機嫌顔に、この愛らしい少女を守っていこうと心に誓ったのだった。










2015/06/12

書くのすごい楽しかったです。