天下の風来坊 <前>












「あ、ちゃん、ちょっとこれ新さんに届けてくれないかい?」
「任せて、女将さん」

はめ組の女将さんから差し出された物を受け取ると、つい今しがため組の暖簾をくぐって外へ出た侍を追った。
まだ10になったばかりのには、暖簾はくぐるというよりも、暖簾の下をただ歩くだけではあったけれども。
この侍、“新さん”こと、徳田新之助のことである。
貧乏旗本の三男坊で、よく江戸の町をのらりくらりと出歩いてはめ組にタダ飯を食べに来る、有り体に言えば“め組の居候”、ということになっている。
そんな新之助でも刀の腕はたつし、皆にとても親切でついでにお節介焼きでもあるので、江戸の町民にはとても慕われている。
も新之助が大好きな江戸町民の一人だった。
今日も今日とてめ組に居座ってただ飯を食らっていた新之助は、つい先程用事があると言ってめ組をお暇した所だったが、帰る際に何か忘れ物をして行ったらしい。
それにいち早く気がついた女将さんがに声を掛けたというわけだった。
が暖簾をくぐると、まだそう遠くない位置に新之助が歩いているのが見えた。

「あ、新――」

が声をかけようとした所で、物陰から素早い身のこなしで女の人が出て来るのが見えて、は口をつぐむ。

「(わ、知り合いかな?)」

新之助は全く驚く様子もなく、物陰から出てきた女に目をやる。
咄嗟の事で閉じた口をが再度開こうとすると、それと同時に聞こえてきた女の声には再び硬直した。

「上様」
「して、どうだった」
「はい、あのお涼という女、天海屋の手先の者でございました」
「うむ、やはりな」
「今夜、手下どもを集めて密会が持たれる模様でございます」
「よし。張り付いて何か情報を引き出せ」
「は」

短い問答で、女は軽く一礼するとさっと脇道に消えた。
は驚きのあまり、手の中の物も忘れて新之助の背中を見つめた。

「(新さん、なんか怒ってたのかな。声がとても怖かった)」

後ろ姿しか見えていないから、表情は分からなかったけれど。
いつも優しく笑いかけてくれる新さんが、なんだか堅い声音で問答をするのを聞いて、は少しおっかなくなった。

それに――

「(……ウエサマ?……きっと何かの聞き間違い…だよね…。)あ、新さん待って!」

さっさと歩み去ろうとする新之助に、は手の中にあるものを思い出して慌てて声をあげた。
声に気がついた新之助が振り向く。

か。どうした」

そう言って、いつものように口角を上げて、朗らかに笑う。

―――よかった、いつもの新さんだ!

「あ、えと!これ!さっきめ組の女将さんが、新さんにって」
「ああ、すまんな。忘れていた」

新さんは渡された物を袖の中に仕舞うと、代わりに財布を取り出して小銭を数え始めた。

「礼だ、これで何か甘いものでも食べるといい」

そう言ってに小銭を渡そうとする。

「え、いいよ!私なんかより新さんがなんか美味しいもの食べればいいのに」
「子どもが遠慮をするな」
「もう子どもじゃないもん!桶だって一人で持っていけるようになったんだから!」

口を尖らせてしまったに、すまんすまん、と新之助は面白そうに笑う。
は町人で桶屋をしている夫妻の一人娘で、め組は昔から懇意にしてくれるお得意さんだ。
そんな関係で、よくが母親と桶を卸しにめ組に来る時に新之助に会うこともあり、は小さい頃から彼には良くしてもらっていた。
小さい頃から知っている事もあってか、どうにも新之助も、を甘やかしたいと思っている節があった。

「じゃあ、この後一緒に団子でも食べに行こう。それならいいだろう」
「お団子!……え、えと、どうしよう……いいの?」

団子と聞いた瞬間に目を輝かせたに、新之助の笑みも深くなる。

「ああ、もちろんだとも」
「ちょ、ちょっと待ってて!おっかさんに聞いてくる!」

はそう言うと、新之助の返事も聞かずに踵を返してめ組に駆け込んで行った。

――おっかさん、新さんが、団子!団子!食べに連れてってくれるって!
――まあまあ

そんな会話が聞こえてくる。それに新之助が一人で笑っていると、少ししてが母と共にめ組から出てきた。

「いつもすみません、徳田様。本当にいいんですか?」
「ああ、構わない。なんなら母君も一緒にいかがですか」
「いいえ、滅相もありません。どうぞ、をお願いします」
「分かりました。では、行こうか、
「うん!」

もう昔からの事で母も慣れたものだ、手を繋いで歩いて行くと新之助を、母は微笑ましく見送った。











10になるは、父と母を手伝って桶を作ったり、少量であればお得意先まで一人で桶を卸すようにもなっていた。
今日も近くの長屋に住むお得意様の所まで、小さな桶を2つ届けた、その帰りの事だった。
夕方には帰る予定だったものを、得意先のおばあちゃんと楽しく話していたら、帰る頃にはすっかり陽が落ちてしまっていた。慌てて帰路についたのがつい先ごろ。
両親が心配するからと、急ぎ足に加えて、人通りの少ない道を横断しようとした。


それがいけなかったのか。


「――!」
「――っ!」
「――、――!」
「――!」

怒鳴り声が聞えた。
やくざ者のような声が、通りに木霊する。
声の方を見れば、うすぼんやりと人の姿が遠くに見える。
複数の浪人風の男達と、それに囲まれた、血まみれの倒れた男の姿。

「!!」

は驚いて引き返して走り出したが、どうやらその声はのいる方に向かって来ていた。
が大通りまで出た所で、ついに追いつかれたらしい。

「なんだこのガキ!」

首根っこをつかまれて、ぐえ、とカエルが潰れたような声が出る。

「見られたか!」
「何!?」
「仕方ねぇ、こいつも斬って捨てろ!」

追いついて来た数人が、ギラギラ光る目でを見る。手には刀を持っている。

「―い、嫌だ!離せよ…!離せったら……!誰か、誰かぁ!」

バタバタと暴れていたせいで、降りてきた一太刀目は狙いを外しての腕を掠めるに留まった。
尻もちをついたそのままに、手から逃れて走りだそうとすると、目の前に別の浪人が踊り出る。

「逃さぬぞ!」
「……!」

キラリ、と鋭い刀が閃いた。

腕をかすっただけでもこんなに痛いのに、心の臓を貫かれたらそれはどんなにか痛いだろうか。
恐怖から縮み上がったは、その凄まじい速さで降りてくる刀をただ眺めている事しか出来なかった。



―――バシッ



「…!何者だ!」

何か、が、刀を振り上げていた浪人の腕に当たった。よく見れば、それは扇だった。

すぐに、立て続けに剣戟音が響く。
刀と刀の間に火花が散っていた。

「大丈夫か、!」

が事の展開に付いて行けずに目を白黒させていると、目の前によく見知った人の姿が現れた。
問われた事に、は声を出すことも出来ずに壊れた機械のようにガクガクと首を縦に振った。
そうする内にも、見知った侍、徳田新之助は浪人達相手に大立ち回りを演じて見せ、みるみる内に相手をのしていった。「引け!」その声を合図にして、複数の浪人はあっという間に姿を消した。

「大丈夫か、
「……し、新さん……、ふ、あーーん!」

極度の緊張が解けた途端、は大声を上げて泣きだした。

「大丈夫だ、。もう怖くない」

はそのまま新之助に連れられて、め組までよろよろと歩いていった。











「その浪人達がその男を斬ったのだな」
「……うん、多分。私が行った時には、もう……その、倒れた男の人の周りに浪人が……立ってて」

め組に来てから、は傷の手当をしてもらい、やっと少し落ち着いた所で新之助から事情を聞かれていた。
先ほどの現場には既に南町奉行所の面々が詰めかけていて、辺りは騒然となっているらしい。
は見た事を、嘘偽りなく新之助に語って聞かせた。

「それで、は引き返したんだな」
「うん。だけど浪人も私の方に走って来て、見つかっちゃって……。それで、かたな……刀が、降りてきて……」

カタカタとの握りしめた手が小刻みに震える。

「暴れたんだけど……きっと、腕の……腕の、次は……心の臓を突かれるんだって、思った……」

目から涙が再び溢れて来て、もういい、と新之助はを抱きとめた。

「辛いことを思い出させて悪かった。今日の事はもう、忘れるんだ」
「……うん」

温かい腕の中で、は涙をごしごしとこすった。
帰りはめ組の面々に連れられて、は暗い顔をしたまま家に帰って行った。









2015/06/06

暴れん坊将軍大好きです。