こんな日常 2





しまった、とはカバンの内ポケットを見て落胆した。
いつもの定位置にあるはずのものがない。鍵っ子であるには必須の、家の鍵が。
昨日キーホルダーを替えようと鍵をカバンから出したのをすっかり忘れていた。きっとそのまま、鍵は自宅の机の上だ。

「どうしよ…」

母に電話して、鍵を届けてもらうか。
いや、忙しい母に鍵くらいのことで手間をかけさせるべきじゃない。
では、どこかで兄が帰るのを待っているか。
遊べるお金はなくても、図書館や本屋で兄が帰るまで時間を潰すことは出来る。
が、問題はが携帯を持っていないということだった。
携帯は高校から、と言われてさすがにも今すぐ欲しいとねだったが、家計の話を持ち出されると諦めざるを得なかった。
ただでさえ片親で、は母親の苦労を一番近くで見てきた。
毎日、遅い時間に疲れ果てて帰ってくるのを知っている。そうまでして二人の子どもを養っているのに、その上贅沢なお願いは出来なかった。
携帯の無いには、兄がいつ家に帰って来るのか知る術はない。夕飯を作るのはの仕事だ。兄が家に帰ってもがいないとなると、兄の夕飯がないし、第一何も言いおいていない日に家にいないと、兄が心配するだろう。
家の前で待てばもちろんすぐに兄が帰って来た事は分かるが、アパートの廊下で待ちぼうけというのも虚しくて気が引ける。
どうするか逡巡して、結局、学校から出て家とは逆の方向へと足を向けた。








私立誠凛高校

その門前までなんとか辿り付いたのはよかったが、しかし中々あと1歩が踏み出せなかった。
高校生が出てくる校門を逆に進む勇気も無かったし、考えてみればバスケ部の練習している体育館の位置も知らない。
かと言って、鍵を忘れたという正当な口実で、兄のバスケの練習風景を見られるかもしれない折角の数少ないチャンスなのだ、ここで引き返すのは勿体無さすぎる。
誰か知っている人が居れば一緒に行くことも出来たかもしれないが、生憎とに誠凛高校の知り合いはいない。

尻込みする気持ちと、前に進みたい気持ちがせめぎ合って、頭の中で必死に考えていた。
どうすればいいだろう。どうすれば、兄の居る体育館まで辿り着けるだろう。

「あれ、黒子っちの妹さん?」

突然、後ろから声を掛けられては驚いて飛び跳ねた。
ドキドキと鳴る心臓をなだめながら、なんとか驚きを悟られないように声のした方を恐る恐る振り返る。
そこには、振り仰がないと顔が見えない程の長身の男が立っていた。
150cm弱のの身長はこれでも中学1年生では平均並のはずだが、立っていた男はよりも遥か高い所に頭があった。
長身の大男、手足も長く、金髪にピアスと来れば、咄嗟に変なのに絡まれたのかもしれないと身構えた。

「あれ、覚えてないっスか?黒子っちと同中の、黄瀬っス。まあ会ったのは数回だったもんなぁ」

会ったのが数回だったのにも関わらず黄瀬がを覚えていたのは、単純にの容姿が黒子によく似ているからだ。
双子という訳でもないのに、黒子とはよく“似ている”と言われる事が多い。
髪型こそ違えど、その目元や顔の雰囲気がよく似ているのだとか。

「どうしたんスか、こんな所で」

聞かれた所で、はようやく、この人が兄とは違う制服を着ている事に気がついた。
黒子と同じ中学だったということは、帝光中の人だろう。確かに、バスケ雑誌で見た事があるような気はしたが、正直あまり覚えていなかった。
けれど、向こうが覚えていると言うなら話は早い。

「あ、あなたは、何をしてるんですか?誠凛高校の人…じゃ、無いですよね?」

質問に質問で返したのに黄瀬は嫌な顔ひとつせず、ああ、とにこやかに笑う。

「俺はちょっと、黒子っちに挨拶でもと思ってね」
「お兄の所に行くんですか!?」

勢い余って聞いてしまって、黄瀬が目を丸くしているのには我に返った。
スミマセン、と小さく呟く。

「て事は、君も黒子っちに用事?」
「…はい。家の鍵を忘れて、それで…」
「あーなるほど。中学生が高校に入るのは、ちょっと勇気がいるっスもんね。一緒に行く?」
「お、お願いします!」

いいっスよ、と黄瀬は人好きのする笑みを浮かべ、堂々と校門をくぐって体育館へ向けて歩き出した。
置いていかれないようにその後を付いて歩く。流石に長身の上に長い足だと、は小走りで黄瀬の後を付いて行く。途中でそれに気がついた黄瀬が歩幅を緩めてはくれたものの、は周りの様子が変であることに内心冷や汗をかいた。

中学生が歩いているだけでただでさえ浮くものを、他校の高校生が一緒だと一入なのだろう。
そう思いはしたが、どうやら周りの反応を見るにそれだけでは無さそうだった。

――見て、あの人かっこよくない?
――背も高い!
――て、もしかしてあの人!
――モデルの!

聞こえてきた声にこっそりと黄瀬を見上げた。
確かに整った顔は、世間一般で言う“かっこいい”部類なのかもしれない、とどこか他人ごとのように考えた。整った顔だ、とは思うけれど、かっこいいとは思わなかったからだ。
かっこいいというのは、の中では兄のような人の事を言うのだ。
ひたむきに何かに頑張って頑張って、前を向いている人。そういう人の事を、はかっこいいと思う。
しかし、がかっこいいと思わないにしても、これだけ周りにはやし立てられる所を見ると、頼る人選を間違ってしまったのではないかという気になってきた。

「えーっと、名前なんだっけ」

頭の中で押し問答していたためか、反応が一瞬遅れる。
一拍置いて言われた事を理解した。

「あ、…です」
ちゃんか。何年生?」
「中1…です」
「そっかぁ。じゃあ黒子っちと3歳離れてるんだ。家こっから近いんスか?」

黄瀬は周りのざわめきなど気に留めた風もなく、当たり障りのない質問を投げかけてくる。
無言の空間に気を使ったのか、それとも周りの喧騒から気を逸らすためかは分からないが、他愛のない話に幾分の気が楽になったのは事実だった。

「いえ、逆方向です」
「じゃあ学校が近い?」
「学校も全然別の場所です」
「じゃあホントに鍵の為だけに誠凛に来たんだ」
「はい。あ、でも…」

言い淀むに、黄瀬は急かすことなく、少し好奇心を含んだ目でを見下ろす。
黒子に雰囲気の似ている妹は、世間慣れしていないのか見知らぬ土地に戸惑っているのか、コロコロと表情が変わる。黒子に似たその顔で、戸惑ったり喜んだりを素直に表現するのが、中々に興味深い。まるでいつもと違う黒子を見ているようで、黄瀬には何だか新鮮で面白かった。

「お兄の練習してるとこ、見られるかなーと…思って…」

ぼそぼそと言うに、黄瀬はまた目を丸くして、それから少し笑った。

「なるほど。黒子っちかっこいいっスもんね」
「わ、分かる!?」

黄瀬が驚いた表情を作ったことに、はまた、は、と我に返って恥ずかしそうに俯いた。

「あ、いや、えっと…」
「分かる分かる、黒子っちかっこいいよね。じゃあ鍵借りるついでに黒子っちの練習、見られるといいっスね」
「…、…うん!」

結構いい人かもしれない、とは心の中で呟いた。









「ここかな」
「みたいですね」

思ったより分かりやすい場所ある体育館は、すぐに見つかった。
黄瀬がステージ側の入り口からこっそり顔を覗かせる。それに続いてもちょこんと顔を出す。
どうやらコート半分を使ってミニゲームをやっているようだった。

「あ、お兄だ」

相変わらずの影の薄さだが、さすがに慣れたものである。はすぐさま兄を見つけた。
そのまま黄瀬はステージに腰掛けて観戦を決め込むつもりのようだった。
もその隣に座ろうか逡巡したが、いかんせん、そのステージはには随分高すぎた。ステージに座るのを諦めてコートを振り向こうとした所で、わらわらと入ってくる人の群れがある。なんだろうと目で追っていると、その女子高生の群れは一目散に黄瀬の元へ向かっていた。
耳を立てなくても、サインください、だの、どうして誠凛にいるのか、だのと声が聞こえてくる。
どうやら先程聞こえた『モデル』という言葉は聞き間違えではなかったようだ。
黄瀬と距離を置こうと思って離れると、人の波に押しやられて結局また入り口の所まで押し戻された。
は諦めて入り口から顔だけだして、かろうじて人の合間から見える兄の勇姿を眺めることにした。








「冗談苦手なのは変わってません。本気です」

火神と黄瀬との対決が終わった後、黄瀬に向かってそう言い切った兄に、は呆気に取られた。
中学時代、黒子はレギュラーとして試合に出ていたし、チームメイトともうまくやっていたように見えた。
確かに、全中が終わった後は母ととで優勝した事に大喜びだったのに、兄だけはどこか寂しそうに物静かだった。急に部を辞めたとも言っていたし、もしかしたら何か思う所があるのかと思っていたけれど、だけど、昔のチームメイトを倒す、そんな事になっていたなんて。

黄瀬が嫌味を言い終わってくるりと背を向けた時、あ、と今思い出したように声を上げて、体育館を見回した。
体育館に入ってきた時は一緒に居たのに、ファンの群れのせいではぐれてしまったの事を思い出したのだ。

「そういえば…」
「どうかしましたか」

黒子が不思議そうに尋ねる。

「えっと…あ、居た居た。ちゃん、こっちおいでよ」

黄瀬がそう言うと、ステージ側の入り口付近でこちらを覗きこんでいた水色の頭がぴくんと飛び跳ねた。
それから、おそるおそる、と言った風に姿を見せる。

「中学生?」

監督以下一同が首を傾げる中、黒子だけが驚いたように声を上げた。

…」

黄瀬のファンの目や、黒子のチームメイトの目に晒されながら、は明らかに緊張に肩を強ばらせて、いそいそと小走りで黒子のいる集団に寄っていった。
けれどチームの輪にいる兄の側へ行く勇気も無く、兄にたどり着く前に足が止まる。
側まで寄ってこないを訝って黒子が側へ歩いて行くと、はほっとしたように表情を緩めた。

、どうして誠凛に?」
「えっと、その、家の鍵…忘れて…。それで」

悪いことをした訳でもないのに、ぼそぼそと弁解するように言った。
どう見ても自分は場違いだった。兄も少し困っているようだし、は確認も取らずに来てしまったことを少し後悔した。最も、には確認の手段は無かったのだが。

「黒子、その子は?」

訝るチームメイトを代表するように、日向が口を開く。
それにびくりと怯えたように一歩下がって、は俯いた。

「僕の妹です」
「「「妹!?」」」

途端にチームがざわっと色めき立つ。
後ろでは「言われてみればそっくりじゃねぇか」とか「小さい黒子だ!」とか騒いでいる声が聞こえる。

「すみません、監督。妹が家の鍵を忘れたみたいで。ちょっと部室に行ってもいいですか。すぐ済みます」
「いいわよ。ついでに休憩にしましょう」
「ありがとうございます。、入り口の所で待っててください」

そう言うが早いか、部員が各々休憩に入ろうとする中で、黒子はに背を向けて走りだした。

「お兄、あ、あの…」

本当はちょっとお兄の練習風景を見ていきたい、けれど申し訳無さそうに足早に体育館を出ていこうとする兄を呼び止められずに、はちょっと泣きそうになった。
こんなことならアパートの家の前で待ってた方がずっと良かったかもしれない、そう思った時だった。

「黒子っち!」
「…何ですか、黄瀬くん」

事の成り行きを見守っていた黄瀬が、黒子を呼び止めたのだ。
黄瀬の声に、黒子は足を止めて少し迷惑そうに振り返る。またさっきの話の続きでもされると思ったのだろう。
けれど黄瀬の口から出てきたのは、全く別のことだった。

ちゃん、誠凛までわざわざ来たのは、鍵のせいももちろんだけど、黒子っちの練習してるとこ見たかったかららしいっスよ」
「黄瀬…さん…!」

には黄瀬が神様か何かに見えた。
黒子が驚いたように立ち止まり、黄瀬とを交互に見る。キラキラとした顔で黒子を見つめるに、黒子は困ったように眉尻を下げた。
そこに、いいわよ、とあっけらかんとしたリコの声が届いた。

「別に見学するくらい、私は構わないけど。他校のスパイって心配もないだろうし」

それを聞いたは今度こそ期待を込めて黒子を見つめる。
黒子は複雑そうな顔でを見たあと、引き返しての所まで戻ると、視線を合わせるように膝に手を付いて背を屈めた。

「大人しく見ていられますか?それに、監督に迷惑掛けないこと。約束出来ますか?」
「うん、約束する。だからお願い、お兄!いいでしょ?」
「…仕方ない。いいですよ」
「やったぁ!」

監督の許しも出たことだし、と言って、結局は簡単に折れた。

「練習終わったら、一緒に帰りましょう」
「うん!」

は今までのおどおどはどこへやら、万歳をしそうな勢いで大きく頷いた。
それを見た部員が「表情が豊かな黒子だ」「面白いもん見れたな」と口々に言っているのには気がついていない。

ちゃん、だっけ?バスケが好きなの?」
「は、はい!」

喜ぶに、リコはにっこり笑って話しかける。
は少し緊張していたが、喜びの名残で顔はまだ少し緩んでいた。

「そ。じゃあこっちにいらっしゃい。特等席で見せてあげる」
「あ、ありがとうございます!」

嬉々としてリコの元へ歩くを見ながら、仕方がないな、と黒子はふわりと笑った。

「ただーし!黄瀬くんはもう帰りなさい!練習をタダで見せてあげるほどウチは安くないわ!」
「えー。いいじゃないっスか」

と一緒にしれっと見学の姿勢を取っていた黄瀬は、少し口を尖らせて抗議した。
が、すぐに肩をすくめて、まいっか、と出口に向かって歩き出す。

「練習試合、楽しみにしてるっス」
「あ、あの!黄瀬…さん…!」
「ん?」
「あ、ありがとう…ございました…」
「いいっていいって」

振り向かずにひらひらと手を振って、黄瀬は体育館から出ていった。



練習が終わった帰り道、がこれ以上なく上機嫌だったのは言うまでもない。








2012/11/07