こんな日常 3
おかえりなさい、と言いかけた
の言葉は、兄の姿が目に入った所で飲み込まれた。
自分と同じ髪色をした、けれども
より短い髪の中に見えたのは、見慣れない白い包帯だった。
「お…お兄!どうしたの、その怪我…!?」
は手に持ったお玉を半ば放り投げるように鍋に落とし、兄に駆け寄った。
今しがた狭い玄関で靴を脱いだばかりの兄は、
の慌てようにほんの少しだけ目を見開いて、それから、ああ、と声を発した。
「大したことないです。今日の練習試合でちょっと接触があって」
「ど、どうしよう…!そっ、そうだ母さんに連絡っ…!」
「
」
慌てて居間の電話に駆け寄ろうとする
の腕を、黒子が制する。
「大丈夫。病院にも寄って検査して、異常がないって言われましたから。母さんに連絡する程じゃありません」
「ほ、ホントに…?」
「ええ、ホントです」
黒子はいつもの淡白な表情を浮かべていたが、内心、包帯を巻いたまま帰宅すると、少なからず妹が過剰に心配するだろう事を忘れていたことに、失敗したと眉を潜めた。
「そ、そっか…。大丈夫…、大丈夫…だよね?」
「ええ、大丈夫です。包帯もすぐ取れます」
「そっか、よかった…」
そう呟く
は、少しもそう思っていないような不安げな表情で、黒子を見上げた。
黒子は
の頭をぽん、と軽く叩いて、今度こそ自分の部屋に向かった。
夕飯は食べて帰ると聞いてあったから、
は二人分の食事の内、一人分を食卓の自分の席に並べ、もうひとり分を母親の席に並べてサランラップをかけた。
兄は帰ってきて早々に風呂に入っている。
普段の練習でもそうだが、試合などがあった日は特に、黒子は疲れ果てて食事すら摂らずに居間で眠ってしまうことがよくある。
今日も練習試合だったと言う話だから、例に違わず、きっとすぐにベットに入って眠ってしまうだろう。
「いただきます」
手を合わせながらボソリと呟いて、食事に口を付ける。
一人でご飯を食べるのも、もう慣れた。
母子家庭の黒子家は、母の帰りがいつも遅い。忙しい母に変わって、家事洗濯をするのはもっぱら
の役目になっていた。
兄が小学生の時は、それでも兄と一緒に洗濯物を畳んだり、母が作りおいてくれた夕飯を一緒に食べたりしたものだ。
それが兄が中学に入ってからは、兄はバスケに多くの時間を割かれ、帰りに仲間と夕飯を食べて来ることも増えて、
は一人で食事を摂ることが増えていった。
その頃から、
は自分で夕飯を作り始め、最初こそ良い出来のものは中々出来ないしいつも作れるほどバリエーションもなかったが、今では母の夕飯まで作るくらいには手馴れてきた。
今日もいつもと変わらない。変わらない、ハズだった。
いつものように、自分一人で湯気の立つご飯へと向きあった。
一口、二口、食事を口に含む。
三口目で、ぽろ、と涙が頬を伝ってシチューに落ちた。
「(あれ…)」
はスプーンの手を止めた。
口の中に入った物を咀嚼し嚥下すると、自然と嗚咽が漏れた。
「(大丈夫って…言ってた…。大丈夫だよ…)」
ぐす、と情けない声に
はまた泣きたくなった。
兄の頭に巻かれた包帯の色が、目から離れなかった。
大丈夫と言っていたけれど、包帯をしているからには怪我をしたのは間違いないのだ。病院で検査してもらう必要が有るほどには、問題があった。
それがどういった類の怪我なのか
には包帯を見ただけでは分からないが、兄のその姿に酷い不安を覚えた。
「(大丈夫…居なくなったり、しない…)」
自分で思い浮かべた考えに、更に涙が溢れた。
「(居なくなったり…しない、よね?大丈夫だよね…?)」
考えれば考える程不安になった。
そうだ、あの時だって。
母に同じ質問をした。
白い壁、父が吸い込まれていった、赤いランプの付いた部屋の前。
簡易の長椅子に座って、背を丸める母に聞いた。
お父さんは大丈夫なの、と。
母は大丈夫だって言った。
お父さんは居なくなったりしないって。
でも、
の父親は帰って来なかった。
いつの間にか
の身体は震えていた。
指先は冷えきって、手に持つスプーンが皿に小刻みにぶつかってカチャカチャと音を立てている。
スプーンを置いて、指先をもう片方の手で握りしめた。氷のように冷たい指先。
「(怖い。怖い、よ…)」
涙は止まるどころか、増々溢れてくる。
恐怖の前に抗う術もなく、
はただ身を縮めて蹲り、その恐怖が行き過ぎるのを待つしか無かった。
「
?」
自分以外の声に、は、と我に帰る。
黒子が驚いたように目を見開いて、リビングの入り口に立っていた。
「どうしました」
髪を拭いていたタオルを肩にかけなおして、黒子が心配そうに食卓へ近づいてくる。
「な、なんでもな…い…」
は慌てて顔を背け、涙を拭った。
身体はまだ震えていたが、努めて明るい声を出した。
「何でも、ないよ」
「
。言ってくれないと、分かりません」
ぽん、黒子の手が
の頭の上に乗る。
風呂あがりの温かい兄の手。それだけの事に、
の涙腺はまた緩む。
短い沈黙の後、顔を俯かせたまま、
は恐る恐る口を開いた。
「…。だって…」
「うん」
「だって、お兄が包帯してるのに、大丈夫って言うから…」
これじゃあ何を言っているか分かるわけない、
は頭の中でそう言いながらも、上手く説明出来る自信が無かった。
ただ、怖かった。
兄が居なくなってしまうのではないかと思って。父のように。
「病院、行ったんでしょ…」
「行きました」
「検査、しなきゃいけない怪我…だったんでしょ…」
「ええ、まあ。でも怪我は大したことはありませんでした。検査は念のために、です」
「…そう」
そう言って、
は口をつぐむ。
がこういう風になるのは、初めてではなかった。
は、身内の怪我や病気に酷く敏感だった。
母がただの風邪で寝込んだ時も、その隣で看病をしながら一晩中泣いていたことがあった。
幼い頃に父を失ったショックから、母と兄の病気や怪我に関しては、特に恐れているようだった。
「
」
黒子は
の横の席に座りながら、殊更優しい声音で
の名前を呼んだ。
「今日は、海常高校との練習試合でした。試合中に相手チームの選手とちょっと接触があって、額を切りました。それで、軽い脳震盪で倒れてしまったんです」
「…!」
は、俯けていた顔を思い切り上げた。
水色の綺麗な瞳は、充血した目の中で不安気に揺れていた。
けれど、下手に隠すよりも、全て言ってしまった方が、きっと
にとってもいいだろうと黒子は思ったのだ。
「でも、帰りにうちの監督と病院に行って検査を受けて、問題ないと言われました」
「ほ、ホント…?」
「ええ。軽い脳震盪だけど、脳や身体に特に異常はないと」
「――」
「なんなら、うちの監督に電話して聞いてみますか?」
「…、…お兄の言うことがホントなら、いい…」
「そうですか」
ふわり、と黒子は笑んだ。
その笑顔を見て、
は自分の弱気な考えがとんでもなく的はずれな事に思えてきて、自分の心配していいた事が実は取るに足らない小さな事のように思えて来て、涙が残る顔で、それでもつられて笑った。
「監督は良い人だったもん。信じるよ」
監督は信じて、黒子は信じられないというのが少し癪だったが、その事は言わないでおいた。
ただ、軽い意趣返しはさせてもらうけれど。
「いい人ですよ。逆エビ固めされましたけど」
「は!?逆エビ固め?何それ、何でそんなことになるの?」
「いえ、団体行動を乱した罰とかなんとかで…」
「…監督さん、結構怖い人なんだね…」
「ええ、まあ時には」
気がついたら、
の身体の震えも止まっていた。
他愛無い話をしながら、疲れて眠いだろう兄が、夕飯に付き合って机に付いていてくれることが嬉しくて、
は思いの外饒舌になった。
兄は麦茶しか飲まなかったけど、
が食べ終わるまで側に居てくれた。
食器を片付ける頃には、さっきの不安が嘘のように、鼻歌でも歌えそうな気分だった。
高校に入って新しい環境で部活に慣れるのに忙しそうだった兄と、久しぶりにたくさん話しが出来たことが嬉しかった。
お互いに掛け合った“おやすみなさい”は、いつもとは違う、温かい響きだったな、と
は思った。
2012/11/28
黒子の家族設定は捏造ですので信用されませんように…。