11
初めて審神者の少年と刀剣がほんの少し、心を通わせた日の午後。一期一振は母屋にいる刀剣と話しをしてくる、と言ってこんのすけと弟二人を伴って母屋へと帰って行った。一期一振とこんのすけが揃って母屋へと姿を消すのは良く見る光景だったが、なるほど、やはり彼らは事あるごとに他の刀剣と何か話し合っているらしい。
聞けば、どうやら昨日任務に行った三つ編みの刀剣と、その間離れに待機していた布の刀剣は、審神者に協力的な刀剣であると言う。彼らはずっと母屋にいることもあり、また、他の重症の刀剣に比べれば小回りも効く。そのため、よく一期一振などと情報共有などを行っているらしい。
手入れは明日行うということにして、そのための計画を練るということだった。
次の日の朝餉後、
は母屋の手入れ部屋へと足を運んだ。
が母屋へと行く際には渡り廊下ではなく庭を通った。母屋と離れを繋ぐ渡り廊下は屋敷の外れにあって、手入れ部屋へ行くには母屋の回廊を歩いて行くため、様々な部屋の前を通ることになる。それを避けるため、庭から直接手入れ部屋へと来たのだ。
どうやら昨日の内に打ち合わせて、三つ編みの刀剣や布の刀剣には出来るだけ人払いしてもらうように依頼したらしい。そのためもあってか、母屋までの道のりでは、一期一振、薬研、厚、それに鶴丸国永が周りを警戒しながら母屋へと進んだが、他の刀剣と鉢合わせることもなかった。
は今までは無防備に母屋へと近づいていたし、そもそもそこまで手厚くされるのも慣れていなくてなんだか落ち着かなかったが、一期一振などは“これくらいは当然です”という態度だったので、とりあえずやりたいようにさせておいた。
手入れ部屋の前には三つ編みの刀剣が待っていて、手入れ部屋の周りも人払いは済んでいるようだった。母屋の他の刀剣の所には布の刀剣が待機しているらしい。
「改めて、和泉守だ。よろしくな」
どうやら
が少しは協力的になったのを聞いたのか、和泉守は
を見ると腰をかがめて目線を合わせ改めて名を名乗り、颯爽と笑った。
それから和泉守は一期一振と一言二言言葉を交わすと、見張りをすると言って、部屋には入らずに扉の前に陣取った。
が手入れ部屋へと入ると、埃をかぶった部屋が目の前に広がった。一期一振や一緒に来た刀剣達も、久方ぶりの手入れ部屋へと足を踏み入る。
母屋にあるこの手入れ部屋は、他の部屋の汚れようと比べれば綺麗な方で、主だった汚れが埃だけなのは、むしろここがほとんど使われていなかったことを暗に示している。
がこの本丸に来る前に政府の施設で聞いた話では、刀剣は傷を受けたまま治療もされずに放置されているということだったから、さもありなん、といった所か。
土間の一番奥には祭壇があって、その前に人一人が休めそうな台や、椅子などが置かれている。その脇には何に使うのだか、薪や金属か何かのような資材が積み重ねられていてる。土間には隣接して、襖で仕切れる畳敷きの和室がいくつか並んでいて、それらまとめて手入れ部屋と称するようだった。
「ここが……手入れ、部屋?」
が入り口で手入れ部屋の中を見回して呟くと、こんのすけがぴょんと前へと跳び出した。
「はい、そうでございます」
「……手入れは、ここじゃないと出来ないの?」
「緊急時には、札だけ持ち出して別の場所ですることも可能でございます。ですが、手入れ部屋は設備が整っておりますし、神棚もあって効率が良いので、基本的にはこちらで行います」
「ふぅん…」
「審神者様、どうぞこちらに」
こんのすけに先導されて、
や刀剣達は祭壇近くへと歩みを進める。
枯れ果てた榊や薄汚れた飾りなどの横に、何やら難解な文字の書かれた札のようなものが乱雑に積み重なっていた。
「この御札を使って、刀剣男士様の本体である刀の修復を行います」
「……へぇ」
ふ、と
が札に息を吹きかけると、札の上に積もっていた埃がぶわりと舞った。が、
はそれを気に留めるでもなく、一番上の札を一枚手に取った。
「……どうやって使うの」
この札を使って手入れをすると言われても、全くピンとこない。札でなぜ刀が治せるのか。
は札を裏返してみたりしていたが、特にヒントは見つからなかった。
「この札に霊力を込めますと、この札が審神者様の霊力を中継ぎして、必要な資材を使いながら刀剣本体の修復をするように出来ております」
「………?」
さっぱり意味が分からない。
早速
は、やっぱり自分には無理なのでは、と心の中で思った。
霊力を、込める?
そもそも霊力なんて持っているかも分からないし、そのような目に見えないものを実感したことすらないのに、それをどうやって札に込めるというのだろう。
が首をかしげる横で、こんのすけは祭壇前にある台の上に跳び乗った。
「おそらく実践してみるのが手っ取り早いかと。試しにどなたかの手入れを行ってみてはいかがでしょうか」
「試しにって……実験台みたいに……。なんか、練習みたいなの、出来ないの」
「練習、でございますか」
そう言って台の上のこんのすけがふるりとしっぽを振った時、後ろに控えていた一期一振が前へと進み出た。
「では、私で試してみたらよろしい」
そう言って、一期一振は腰に指していた刀を鞘ごと引き抜いて、
に差し出した。
「いち兄!」
たまらず、後ろに居た厚が声を上げる。
も振り返って、何言ってんの、というような顔で一期一振を見上げた。
また随分と思い切ったことを言うものだ。
散々“審神者”に痛めつけられていながら、手入れなんてしたこともないような子供に本体を預けるなんて、正気の沙汰とは思えない。厚が制止するのも最もだ。
「……やめた方がいいんじゃない。僕、やった事ないし。…………失敗、するかもしれない」
「学びに失敗は付きものです。それを恐れていては何も出来ないでしょう」
「そうかもしれないけど。……その………、壊したら……大変、だし」
失敗して、それで学びを得るのはそうだろう。
理屈は分かるが、しかし今からやろうとしていることは、刀剣の本体に手を加えることである。もし失敗してしまえば、何が起こるか分からない。
が俯いてボソボソと言うと、一期一振は、ふ、と少し笑った。
「大丈夫、仮にもこれで数百の年月を生きた付喪の宿る刀剣です。そう簡単には壊れません」
「……、……ほんとに?」
「ええ」
一期一振が頷くと、
はそれでも釈然としない様子だった。
一体刀剣というのがどれほどの強度なのか、どうすれば壊れてしまうのか、
には全く見当がつかない。けれど、前任が刀剣を何本も折っていたというくらいなのだから、人間が壊そうと思えば壊せてしまうものなのだろう。意図しなくても、扱いを間違えば壊してしまうかもしれない。
そう思うものの、確かに練習出来そうな別の何かは望めそうにないし、誰かで最初に試す必要はありそうだ。一期一振は、さあ、と言ってずいと刀を差し出してくるし、
は少しの間躊躇して、けれどとりあえず一期一振の本体をそっと受け取った。
静かにそれを見下ろす
の表情は相も変わらず何も感情を浮かべないが、しかし思案するようなそれに、一期一振は更に口を開く。
「とはいえ、私もあまり軽い傷ではありません。むしろ、あなたが体を壊してしまわないかが心配です」
「……僕?」
「前任は手入れをするのを酷く嫌っておりました。手入れでは審神者本人に多少なりとも負担がかかるためらしいのです」
「………そうなの?」
一期一振の言葉を聞いた
は、こんのすけの方を振り返る。
はい、とこんのすけは頷いた。
「個人差あるようですが、手入れには審神者様の霊力を使います。霊力とは、人の体を流れるもの。それを使いすぎると、疲弊することもあると伺っております」
「…ふぅん。まぁ、僕がどうかなるのは、別に……。……でも、あんた、ほんとにいいの?」
「ええ、構いません」
「……後悔、しない?」
「しませんとも」
「…………」
は一期一振の顔を見上げて、その顔が本気で言っているのを見てから、分かった、と短く言った。
どのみち必ず通る道なのだ。ここで躊躇っていては先へ進めない。本刃が良いというのだから、試してみるよりほかないだろう。
札を一旦置いて、台の上に本体を置く。
「お前、少しでも変な真似をしてみろ。ただじゃおかないからな」
厚が眼光鋭く睨みながらそう言ってくるのも無理ないだろう。一期一振に諌められてはいたが、むしろ
も厚の気持ちはよく分かる。自分の大切な人の命を全くのズブの素人に任せるのだから、たまったものではないだろう。
しかし
はそれには軽く肩を諌めるに留めて、祭壇前の台に向き合った。
「では、まず鞘から刀身を引き出してください」
厚の睨みつける視線と、それ以外の刀剣の視線を浴びながら、こんのすけの指示通りに作業を始める。言われた通りに、両手で恐る恐る刀を抜く。太刀は長くて、腕を両方にいっぱいいっぱいに開いて、ようやく刀身が全て姿を現した。
今まで刀身を見たことが無かったので知らなかったが、ヒビこそないものの、所々小さな刃こぼれがあって、刀身にも傷が付いているようだった。これが本当に札などで治るのか、とより一層疑問に思った。
それからこんのすけの言うことに従って、刀身を台の上に横たえ、傷の無い鞘は祭壇横の刀掛けに置く。
祭壇前、台の横には人が座れるような椅子がいくつか並んだスペースもあって、一期一振はその内の一つに座って軍服のような厚手の上着を脱いだ。やはりこちらも、厚地の上着で気が付かなかったが、下の白いシャツは所々裂けて血が滲んでいる。
は神棚から札を全て取ってきて三方の上に置き、それを台の上に置く。
「では、札に手をかざして、霊力を注ぎ込んでください」
「……、…どうやって?」
それが一番問題だった。
霊力を注ぐ、とは具体的にどうするのか。
「そうですね……体の中に流れる“気”を、手に集めて、そこから札に伝えるイメージです」
「………?」
とりあえず札に手をかざして、体を流れる“気”とやらを手に集めるイメージを作る。それを手の平から、札に向けて放出するような。
しばらくは何も起こらなかったが、数分した頃、札が光り始めた。そうしてふわり、と札が数枚が浮いたかと思うと、素早い動きで宙を舞って、刀剣本体の傷ついた部分にぴたり、と張り付いた。
「!」
「その調子です、審神者様!」
が目をぱちくりさせていると、こんのすけが嬉しそうに尻尾を振った。
どうやら、これで合っているらしい。
札が全て刀剣に張り付いたのを確認して、今度は刀剣に直接手をかざして霊力を注ぐ。札は未だほの明るく光っていて、これが霊力を継いで札が刀剣を修復している証拠だ、とこんのすけは言った。
「……これって、いつまでこうしてるの?」
しばらく、おそらく半刻ほどその状態が続いていたが、いつになったら終わるのだろうかと、
は首を傾げた。
「修復が終わりますと、札は自動的に剥がれ落ちます。慣れてくれば、感覚的に修復にどのくらい時間がかかるのかが分かるそうでございます」
「ふぅん」
そんな感覚はちっとも分からなかったが、慣れが必要なのだろう。そんなものだろうと思うことにした。
「辛くはありませんか?」
途中、台の横の椅子に腰掛ける一期一振が、
の方を見て問いかけてきた。
一期一振にある傷も、本体同様に修復されているのか、仄かに光っている。
「別に。普通」
「…そうですか。それは何より」
そのまま2時間ほど経っただろうか。
札が徐々に光を失い、やがて、ひらりと台の上に剥がれ落ちた。見れば、札に書かれていた文字が消えている。
札の中から出てきた一期一振の本体は、傷一つない、綺麗な状態に戻っていた。
「……出来た、のかな」
かざしていた手をのかして、刀身をまじまじと眺めてみる。とりあえず、壊れてはいなさそうだ。
一期一振を振り返ると、そこには傷の痕も残さず綺麗な体になった一期一振が立っていた。どういう仕組か、先程脱いだ制服やシャツも綺麗になっている。
「……壊れてない?」
の言いように、一期一振はまた、ふふ、と笑った。
「大丈夫ですよ。すっかり元通りにして頂きました。久方ぶりに体が羽のように軽く感じます」
「……そ」
「貴方は素晴らしい能力をお持ちだ。初めての手入れで、ここまで完璧に修復なさるとは」
「……」
お世辞なんて言ってどうするつもりだろう、と、つい、
は一期一振を見上げる。
どうにも、手放しで褒められるのは慣れなくて、何か裏があるのでは、なんて思ってしまったけれど。
とにかく壊れなくてよかった、と
は心の中で一息ついた。
自身の体の不調も特にはないようだし、これならいけそうだ。
「貴方はどこか不調などはありませんか。少し、汗をかいてらっしゃいます」
確かに、頬を幾筋かの汗が伝って落ちていた。
けれどこれくらい大したことはない。上着の袖で無造作に汗を拭った。
「……へいき」
それを聞くと、一期一振は満足そうに頷いた。
「次は、誰?」
が一期一振に問うと、一期一振が何か言う前に厚が口を開いた。
「いち兄」
「……ああ、そうだね」
一期一振が服装を整えるのを待ってから、側に控えていた厚は、深刻そうに、俯いたまま口を開いた。
手入れの最初こそ
を睨みつけていた厚だったが、一期一振が治っていく内に次第に安堵の色を顔に浮かべるようになっていた。けれど今は、何かにじっと耐えるように、俯いて声を絞り出していた。
一期一振もそれを分かっていたのだろう、落ち着いた声で頷いて見せた。
「まずは貴方の身辺を警護する刀剣から先にお願い出来ますか。貴方の御身が第一です。ですが、それが終わったら……」
一期一振は少し躊躇う素振りを見せて、厚を見下ろす。けれど再度決心したように、審神者の方を向いて口を開いた。
「少しずつで良いのです。……我が弟達を、助けてはくださいませんか」
「……弟、たち?」
「………はい。私には弟が多くあります。この二人以外の弟達は、深い手傷を負ったまま放置されておりました。ほとんど仮死状態の者も少なくありません。ですから」
「うん、いいよ」
「……、え」
「いいよ。それが審神者の仕事、なんでしょ」
「……そうですが」
あまりにあっさりと言う
に、返って一期一振の方が戸惑ってしまった。
前任の審神者は、手入れを酷く嫌がっていた。だから、“審神者は手入れを嫌がるもの”という概念がどうしても拭えなくて。それが、遭遇率が高く替えの効きやすい、短刀の手入れとなれば、特に。
けれど、審神者の少年はあっさりと頷いてしまった。
「よいのですか」
「うん。僕は審神者の仕事、するだけ」
そう、平然と言ってのける。
無表情の顔が、何を今さら、と言わんばかりに一期一振の方を見上げていた。
それに一期一振は、深く頭を下げた。
「………ありがとうございます」
そう言って、厚と薬研も兄に倣うように頭を下げる。
どうやら彼らの弟や兄弟が手入れされるというのは、余程のことらしい。どのくらい傷を放置されていたのかは知らないが、
が来てから既に四半期は過ぎている。少なくともそれだけ長い間、癒えない重い傷を抱えていたのだ。
やっと治ると知ったことの安堵が大きいらしかった。
「……ちゃんと治せてから言った方が、いいんじゃない。あんたはまぐれで治せただけかもしれない」
そう言ってみるが、一期はどこにそんな自信があるのか、いいえ貴方なら必ず治してみせるでしょう、と言った。
希望的観測だなぁ、なんて
は他人事のようにそれを聞いていた。
けれど、“弟を治してあげたい”という一期一振のその気持ちを、無下には出来なくて。
「その人達、連れて来ておいて。…それとも、僕が行った方がいいのかな」
「いえ、連れて参ります。まずは、鶴丸殿と和泉守殿、厚をお願い出来ますでしょうか」
「…わかった。………、そっちの白衣のはいいの」
は一期一振の言葉に頷いてから、ここにいる刀剣の中で指し示されなかった白衣の短刀にちらと視線をやった。彼は怪我をしていないのだろうか。
「俺っちか?俺っちは怪我はねぇんだ。けど、ありがとよ」
「………ん」
は小さく頷いた。
一期一振は手入れ部屋の入り口付近に座っていた鶴丸に声を掛けて、鶴丸が
の元へと足を進めるのを確認すると、部屋を出た所で今度は和泉守に声をかけた。
「和泉守殿。山姥切殿はいらっしゃるでしょうか」
山姥切は今は他の刀剣の所に居て様子を見てくれているはずだが、今日出来るなら手入れを受けて欲しい所だ。
「あー……いや、あいつは多分まだ手入れは受けないだろう。一応声は掛けてみるが、多分今日は来ないと思うぜ」
「分かりました」
それだけ確認すると一期一振は部屋を出て姿を消したので、負傷した弟達を迎えに行ったのだろう。
鶴丸は
の前まで進み出ると、無言で腰から鞘ごと刀を引き抜いて、
に差し出した。
は一度鶴丸の目を見上げて、それから、そっと刀を両手で受け取った。
先程の一期が座っていた位置に鶴丸が座るのを確認して、先程と同じ手順で手入れを進めていく。
鶴丸の刀身も刃こぼれや小さな傷がたくさん入っていて、手入れは一期一振よりも時間がかかった。怪我の程度は一期一振も鶴丸もいい勝負のように見えたと思ったが、一期一振曰く、鶴丸の方が練度が高いので時間がかかったのだろうとのことだった。
練度のことはよく分からないが、そういうものなのだと思うことにした。
手入れが終わると、鶴丸は怪我一つない、綺麗な状態になっていた。今まで服の裾から覗いていた痣なども見当たらない。
本体を返そうと見上げると、そこには陰りのない綺麗な金色の瞳。
やっぱりこの人はこっちの方が合ってるな、と少年は思った。
刀を渡すと、鶴丸は、ぽん、と少年の頭に手を置いた。ぽん、ぽん、と頭を軽く叩いて、それからまた手入れ部屋の入口付近に戻って行った。足を引きずっていない鶴丸は、随分と軽やかな歩き方をする人だった。
けれど、手入れで元通りになったように見えたけれども、やはり、彼は言葉を話さなかった。
遅めの昼休憩を挟んでからは、続けて和泉守と厚の手入れをした。こちらは思うほど傷が深くなく、また刀身が短いこともあって、一期一振の半分以下の時間で終わった。
「へぇ、立派なもんじゃねぇか」
そう言って綺麗になった刀を受け取った和泉守は、一旦鞘から刀身を半分ほど引き抜いて見分した後、満足したように元に戻してから
に言った。
「……どうも」
が特に感慨もなくそう言うと、和泉守はニッと口角を上げて、
「ありがとうな!」
と清々しく笑って、
の頭をがしがしと掻き回した。
相変わらず豪胆な動きをする人だ、と
は鳥の巣になった頭を手櫛で直しながら和泉守を見上げた。傷も無くなって、綺麗になっている。
「…っと、それより凄い汗だが大丈夫か?また休憩した方がいいんじゃねぇか、一期」
最初は
に向けての言葉だったが、最後は確認するように一期一振を振り向いて言った。確かに、審神者は長距離走でも走って来たのかと思う程には汗をかいていて、けれど
は気に留めた風もなくそれを無造作に袖で拭っている。
弟たちを続きの間に寝かせた後は審神者の様子を見守っていた一期も、和泉守の言葉に頷いた。
「今日はこれまでに致しましょう。続きはまた明日以降、ということで」
「別に、へいき。……先に、あんたの弟、手入れするよ」
「ーーーですが」
「……僕の仕事、だから。へいき」
確かに、汗こそかいているものの、顔色は特に変わった様子は無いようだった。息が上がっているというわけでもないし、一期一振はどうするか迷って、けれど呻いている弟たちの声を聞き、結局大人しく頭を下げた。
「………、……分かりました。お願い致します」
そう言って、一期一振は1振りの刀を台まで運んできた。
「(………ひどいな)」
一期一振が“助けてほしい”と言った刀剣を目の前にして、
は思った。
台に横たえられたのは、息をしているのが不思議な程に損傷した体だった。微かに息はしているようだが、それは酷く浅く、時折呻いて弱々しく身を捩る。骨が見えている所もあるし、ほとんど壊死している箇所もある。
筆舌に尽くしがたいとはこういうことだろう。
は、別に用意された台の上に、鞘から抜いた本体をそっと横たえた。
ほんの少しの衝撃でも、短刀に入ったヒビからパキンと折れてしまいそうだ。
手入れ中、刀身は札に隠れてよく見えはしないが、その代わりに横たわっている刀剣男士の表情が和らいでいく事で、どうにか手入れが出来ているようだと確認しながら、霊力を流し込んでいった。
手入れが終わった短刀は、先程とは見違える程に綺麗になっていた。壊死していた足も、骨が見えていた腕も綺麗に治っていて、手入れってすごいな、とどこか他人事のように思う。それを自分がしたのだとは、俄には信じられない。
ずっと後ろの方で見守っていた厚が、札が剥がれ落ちたのを確認してから駆け寄ってきて、横たわっている刀剣を覗き込む。
「前田っ……!」
目に涙を溜めた厚が、ぎゅ、と前田を抱きしめる。
普段は審神者の
を睨んで威嚇してくるばかりの刀剣だが、それはやはり兄弟を大事と思ってのことなのだな、とその光景を見ながらなんとはなしに思った。
「厚、にい、さん……?」
前田と呼ばれた手入れしたばかりの短刀が、目を開けたらしかった。まだ声は掠れているが、先程の無残な姿からは想像出来ない程しっかりと目を開けて、厚を見据えていた。
「前田、気がついたかい」
「良かったなぁ、前田」
一期一振や薬研も近づいてきて、それぞれ声をかける。
みな一様に、嬉しそうだ。
それを見てなんとなく、心にズシン、と重いものがのしかかったような気がしたのを、
は無視した。
重ねてしまう、どうしても。
でも、それをすることに意味はない。意味はないのだ。
そう、頭で分かっては、いるけれど。
「……次、連れてきて」
そう言うと、今気がついたというように、前田が
の方を向いて、それからがばっと身構えた。
「人間……っ?!」
そう言って、一期や他の兄弟をかばうように身を固くした。
「前田、違うんだ」
「しかし、いち兄、彼は…?!」
「………審神者だよ」
「では!」
「彼は、お前を助けてくださったんだ」
「……?」
前田は困惑した様子で、一期一振と
の間で視線を行ったり来たりさせた。
でも、と一期一振や薬研の方を見ながら当惑している様子だったが、とにかく、と今度は薬研が口を開いた。
「前田、説明する」
薬研がそう言いくるめて、まだ
の方を警戒する前田を台から下ろした。
「……これ」
は短刀を鞘に収めて、前田の方に差し出した。もう片方の手で顎に伝う汗を拭う。どうしてか、汗が止まらなかった。
前田は地面に立つと、
よりも少し背が高い。その少し高い位置から、疑心と、恐怖と、不安がないまぜになった鋭い瞳が、本体を差し出してくる
を見返す。
なかなか受け取ろうとしない前田の代わりに薬研が短刀を受け取って、2人と厚は3人で続きの間に入って行った。
それから立て続けに2振の短刀を手入れし、それが終わる頃には夜の帳はすっかりと落ちていた。
まだ行けると言う
を、傷の無くなった鶴丸国永が制して、その日はそれまでということになった。既に夜の9時を回ろうとしていた。
「ありがとうございました」
手入れ部屋を出ようとした所で、改めて一期一振が頭を下げるので、
はなんと言うか迷って、けれど「うん」と一つ頷くに留めた。
感謝されるというのが慣れなくてどうすればいいのかも分からなかったし、これが自分の仕事だと言うのなら、感謝されるのも違う気がした。これは、自分のためにやっていることだから。
「少し遅くなりましたが、すぐ食事を用意致します」
和泉守はそのまま母屋の中に帰っていったが、一期一振と鶴丸国永は、共に連れ立って離れへと向かっている。他の兄弟に付いているからか、珍しく一期一振の横には厚と薬研が居なかった。
「…いい。今日はもういらない」
「しかし、」
「いらない。……もう、寝るから」
手入れ部屋から離れへと向かう最中、一期一振とそんな会話をした。
頬からは未だに結構な量の汗が滴っていて、既にぐっしょりと濡れた袖でそれを拭う。
別にお腹も空いていなかったし、なんだか嫌に眠かった。きっと霊力とやらを使ったので、疲れたのだろう。こんのすけも、手入れをすると疲弊することがあると言っていたし。だから、それくらいにしか思っていなかったけれど。
離れの縁側の前で草履を脱いで、片足を縁側に踏み出した時だった。
「……?」
ぐにゃり、と世界が歪んだ。
踏み出したはずの足が、地面を踏み損ねたかと思ったが、それにしては体の他の部分の感覚も無いし、視界も急激に狭くなっていく。
「審神者?!」
後ろから一期一振の声が聞こえるが、それも水の中に入ってしまったかのように、どこか遠くに聞こえる。ぼーん、と水の中で何かを打ったような不可思議な音が頭に響く。
体がどうなったのか分からない状態で、真っ暗になる前に体が鶴丸の真っ白な着物に抱えられるのは分かったが、それを最後に、プツン、と意識は途切れた。
2018/08/24