06







「は、はっ……」

荒い自分の息が、埃っぽい小さな物置部屋に吸い込まれて消えていく。
ここに来てから二ヶ月以上が経ち、徐々に体が悲鳴を上げるようになっていた。

息切れから始まり、目のかすみ、倦怠感。最近では幻覚を見る。
少しは食べ物を腹に入れるものの、ほとんど食事をしないからか、最近は固形物が食べられなくなっていた。水は飲むが、結局、それ以外の食べ物を全て断つより手がなかった。
空腹から夜も眠れず、羽織もない部屋は、いくら隙間風が無くても安眠を得るには厳しい環境に違い無かった。眠れない事で更に体力が急激に落ちた。目の下の隈はもはや骸骨のくぼみのようで、骨に皮が乗っただけの貧相だった体が、さらに細くなった。
最近では立ち上がるのも億劫で、母屋の方へ行くにも息切れして、途中で何度も休憩を入れなくてはならない程だった。
以前、こんのすけには母屋へと近づくなと言われてはいたが、しかし離れに引きこもっていても刀剣に殺される機会は来ないのだからしょうがない。頼りない足で母屋を訪れることは止めなかった。こんのすけには見つかると毎回どやされるが、気にしない。
どうやって殺してもらうか、無い頭で考えた所で大した作戦なんて考えつかないだろうことは分かっているけれど、しかしこれは本格的に何か作戦を考えなくては、殺される前に本当に死んでしまう。そう思った。

けれど、今日目が覚めた時に感じた違和感。
これは、まずい。
既に体を起こすことすら出来ず、結局冷たい床の上で横になって自分の荒い息を聞いていた。

体が火のように熱かった。
それなのに、酷い寒気がする。
目眩がして、世界がぐるぐると回っていた。

死んでしまうのだろうか。
ここで死んでしまっては、何も得られない。
犬死は御免だ。
ほとんど本能でそう考えるけれども、体を起こそうにもどっちが上で下なのかが分からず、体がどこにあって、どちらの方に体を起こせばいいのだったか、そういえば体を起こすとはどうするのだったか。そんな事を延々と考えて、結局起き上がることさえ出来ずに、ぐるぐると思考だけが同じ所を空回りしている。
そしてそのほとんど機能していない頭で、何か口に入れなくては、と思う。
無理にでも何か口に入れて、そうして殺されるまで生きなくては。
もはや執念だけで意識を保っていた。

なんとか、少しでも明るい方に手を伸ばす。伸ばした腕に力を入れて曲げて、その方向へ体を少し移動させる。ズル、ズル、と体を襖の方へと引き釣りながら、それでもなかなか襖に辿り着かない。
なんとか頑張って進んだつもりでも、よく見れば先程と腕1本分の長さくらいしか進んでいない。
もうほとんど体に力が入らなかった。
そうだ、せめて水を飲もう。
そう思ったのに、井戸まで行く体力なんてあるはずもなくて、相当時間をかけてふすまを開けて、けれど結局上半身を廊下に出した所で力尽きた。
外の少しは明るい光と、ひんやりとした空気で、少しだけ意識がクリアになる。
ほんの少し、先程よりもはっきりした思考で考えるのは、ああ、本当にどうしようもないな、ということ。
所詮は貧民街のガキひとり、何も出来ないのか。
そう、心の中で呟いた。

ーーー自分も兄のように。

金を得るために体中の臓器を売って死んでいった兄のように、何か家族のために出来ることを、と。
そう思って、そう志して家を出て来たけれども。
結局自分なんかに出来たことは何一つとして無く、迎えるのは犬死という結果だけ。
これなら臓器を売った方がまだ遥かに利口な選択だったと、今更になって証明されてしまって。

ーーー殺してもらえると思った。

彼らも人間を殺したがっていると聞いていたから、殺してもらいたい人間が行けば、利害も一致してちょうど良いに違いなかった。そのはずだった。
それで金だって手に入るんだから、一石二鳥だ。きっとすぐ殺してもらえるだろうと思っていた。
それなのに結果はこの通り。
殺してもらうことも満足に出来ないなんて、とは溜息をつきたい気分だった。
そんなに簡単な話じゃ無かった。やっぱり自分には、何も出来ないのか。

意識も遠のきかけた所で、冷たい廊下に横たわるの耳に何かの足音が入り込んでくる。
軽い足音。
これは、いつも狐が来る時の足音だ。
その予想は正しく、そう時間をかけずにこんのすけの姿がぼやけで歪んだ視界に入る。

「審神者様、お手紙が………審神者様?!」

床に横たわっているの様子がおかしい事に気がついたこんのすけは、驚いた声を上げて走り寄って来た。その拍子にパサリと手紙が床に落ちる。

「どうされたのですか、審神者様!」
「…………、あ…た……、……く……て……」

酷く掠れた声が、熱い呼気とともに吐き出された。は、は、と短い息がの体調を物語っているようだった。
こんのすけはその肉球で審神者の額に手をついて、驚いてから2・3歩後ずさった。

「酷い熱です……!お待ちください、今、誰か呼んで参ります!」

そう言って来た道を全速力で駆け戻っていく狐の後ろ姿を見て、内心失笑が漏れる。誰を呼んで来ると言うのだろう。
審神者が死にかけていると知って、笑い飛ばして喜ぶ者こそいるだろうが、助けに駆け寄って来る誰かがあるはずもない。
は自嘲をこぼしたつもりだったが、口の端がぴくりと引きつっただけだった。

こんのすけが走って行った廊下の先を見つめていたの目の端で、かさりと何かが音を立てる。見れば、たった今こんのすけが落としていった手紙があった。
白い封筒。
景色が霞んで文字が読み取れず、手の甲で何度か目をこすって、やっと文字を読めるくらいになる。そこに書かれた字が、には少しばかり見慣れたもので、驚きでわずかに目を見開いた。
小学生が読める範囲の漢字しか読めないが読める、数少ない文字。そこにあったのは間違えるはずもない、家族の名前だった。
腕を使って体を少し移動させて、手を伸ばしてなんとか手紙を手繰り寄せる。
やはり、何度見ても、そこにあるのは家族の名前だった。

嫌な予感がした。

はふらつく頭を無視して、震えて上手く動かない手で封を切った。封筒と同じく、中の便箋も乱雑に少し破れてしまったが、本文はなんとか読むことは出来る。
不自然に白い便箋に書かれた、よれた文字。
白い便箋なんて、どこから手に入れたのだろう、とか。
白い便箋に広がる斑のような汚れはなんだろう、とか。
そんな事は今は頭に無くて、ただただそこにある文字を、何度も何度も眼をこすってひたすらに追う。
中に書かれていた文章は難しくて、全ては理解出来なかった。
それでも理解出来たその大筋の内容に、先程とは違う体の震えを自覚する。便箋を持っていられなくて、不格好に破れた封筒と便箋が、乾いた音をたてて廊下に落ちた。まるで象の大群が頭の中で運動会でもしているような耳鳴りがして、酷く頭が痛い。

「どう、して………」

読み取った内容に、頭が真っ白になった。
パタリ、と熱い頬の上をいつの間にか何かが滑り落ちていった。
ぱたり、ぱたり、とそれは廊下と便箋に落ちていく。便箋に落ちたそれは、既にあった斑模様と同じ模様を形作った。

「………そんな……」

今読んだ内容が、信じられなかった。
落ちた便箋を拾って、何度も何度も文字を読み返す。けれどその文章が変わることは終ぞ無かった。信じたくない事実が、そこには無感動に並んでいた。
悪い冗談だと笑い飛ばしたかった。
でも、これが、どうしようもない事実なんだろうと、目の前に突きつけられていた。
目の前が真っ暗になった。
けれど次にはは、無い力を振り絞って立ち上がる。
ふらり、とバランスを失って片膝を付く。

「くそっ……」

それでも、は諦めなかった。壁を支えにして、母屋に向けて少しずつ歩き出す。
何度も蹴躓いて転びながら、けれどその度に起き上がって、必死に足を前に進めた。
もう、頭の霞や、体の節々の痛みや、体のあらゆる不調ですらどうでもよかった。ただただ、眼の前の母屋に向かって、は木偶のようになってしまった自身の体を前へ前へと動かし続けた。

いつもは庭から母屋へ向かう所、今日は渡り廊下を通って母屋へ入った。この渡り廊下は、ここに来た初日に使って以来、使うのは2度目だった。母屋に入ってから少しした頃、こちらへ向かってくる複数の人影が見えた。
背の高い刀と、中くらいのが2振り、こんのすけに先導されながらこちらへ向かって歩いて来ている。を認めて彼らは驚きに目を見開いて一瞬足を止めたが、様子がおかしい事に気がついたのか、先程よりも足を早めてこちらへ近づいてくる。
背の高い刀は初日に見た刀のようだった。空色の髪で、長い刀を持った衣装の派手な刀剣だ。
その彼より前に立ってこちらへ向かってくるのは、見たことの無い白衣を着た小柄な刀。小柄とは言っても他の刀剣に比べればの話で、よりは幾分も背が高いようだ。

けれど、好都合だ、と思った。

大きい奴だと、相手にすらしてもらえない。
小さい奴なら、あるいは、と。

「おい、あんたーー」

白衣の刀が近づいて来てに声を掛けようとした、刹那。

「……こ、のっ…!」

は先頭のこんのすけの横をすり抜けて、白衣の刀に組み付いた。
もとより、敵意の無かった白衣の刀は驚いた顔をした。その隙を見逃さず、は白衣の刀剣の腰に刺さった短い刀を引き抜いた。引き抜いた反動で少し後ろに仰け反ってバランスを崩すがすぐに立て直し、そのまま白衣の刀剣男士の胴体へ向けて短い刀を突き出す。

「何をなさいます、審神者様っ……!」

こんのすけが驚いたように横で喚いて、審神者の袴の裾を咥えて引き留めようとしていたが、はびくともしなかった。
白衣の刀から少し後ろを小走りに付いて来ていた二振りが、目を見開いているのが視界に入る。
いい様だ、とは思った。
そのままよく見ていろ。

「死ねっ……!」

まっすぐと白衣の刀剣の胴体へと向かっていた刀は、けれど寸でのところで間に割って入った別の小柄な刀剣男士によって、当然のように阻止された。
キン、と刀を弾かれての手から短い刀が飛んでいく。反動では後ろへと弾かれて背中から地面に打ち付けられる。そこに、刀を弾いた刀剣男士が更に馬乗りになった。

「……っ」
「てめぇっ…!!」

その体を押しつぶすように刀剣男士がのしかかる。体の動きを封じられた。の肩が刀剣男士の左手で強く押し付けられ、後頭部をしたたかに床にぶつける。かは、と喉が不自然に鳴った。
馬乗りになっている刀剣が右手に持っているのは、おそらく彼の本体だろう短い刀。
当然の反撃だった。
戦場で戦う彼らが、戦場に出るどころか人を斬ったこともないようなに負けるはずがなかった。
鋭く、綺麗な輝きを持った刀が、首を掻き切ろうと一直線に目掛けて降りてくる。
穂先が陽の光に反射して、きらりと鈍く煌めいた。

は安堵した。

これでいい。
これで、やっと。
やっとーーー

待ちに待った瞬間が、訪れようとしていた。随分と前に死に別れた兄の笑顔が見えたような気がした。

けれど、目掛けて振り下ろされた短い刀を持つ手が、誰かの腕によって封じられた。

「やめなさい、厚…!!」
「いち兄……!なんで止めるんだよっ!こいつ、こいつは薬研を、殺そうとしたんだぞ!」
「お前が手を汚すべきではない」
「でもーー!」
「なんで、止めるんですか」

二人の間に割って入った酷く掠れた声に、の上に乗っていた小さい刀ーーー厚藤四郎も、一期一振も、口を閉ざした。

「殺せばいいでしょう……殺すべきだ。こいつの言ったとおりだ、僕は、刀を……殺そうとした。だから、あんたも、止めないで……くださいよ」

掠れて上擦った声が、途切れ途切れに刀剣の耳に入る。
一期一振はその様子を見て、困惑したように眉根を寄せた。

審神者が母屋へと来るより前、こんのすけが慌てた様子で一期一振の元へ来て言うには、審神者に酷い熱があり手が必要だ、と言う。それに応えるべくか迷って、けれど兎に角一刻を争うとこんのすけが急かすので、迷いながらも離れへと向かってみれば、こうして出くわした急展開に一期一振は頭を抱えたい気分だった。
高熱を出しているはずの審神者の少年は、けれど真っ青な顔をしていた。何より驚いたのは、一期一振の記憶にあるよりも遥かに痩せ細っていて、骸骨が動いているかのようだったことだ。まるで別人のようだった。
一体どんな生活をすればこんなになってしまうというのか。
以前よりこんのすけが母屋の穏健派の刀剣を訪れる度、「あまり審神者にも時間が残されていない」と言っていたのは知っていた。それがどういう意味か、今目の前の審神者を見てひしひしと伝わってくる。
まるで骸骨のようだ、そう思ったその顔で、頼りない細く掠れた声が言う。

「もう、ほんと……止めないでくれよ。こっちだって………限界、なんだ………」

殺してくれ、と。
骸骨のようなこの本丸の“審神者”は、頼りない掠れた声で言った。
一期一振は増々眉をしかめた。

「それがあんた達の望み、なん、だろ……っ」

この本丸へ来た時も、そして多くの刀剣と話す時も、無表情で、淡々と言葉を紡ぐ少年。
およそ人の抱くような感情を見せてこなかった少年は、けれど、今は仮面を外したように、その眉間に深く皺を寄せ、まるで泣きそうに顔を歪めていた。
それほどまでに“死”を望むのか、と。
一期一振は思わずにはおれなかった。

「審神者……あなたは、どうしてそんなに………」
「殺せ……、……僕を、殺してよ…っ……!」

ぐ、とは自分に向けられたままのむき出しの刃を握った。
それをそのまま自分の首に近づけようと力を込めるのを、厚の腕を握った一期一振は上に引くことで阻止した。
動かない刃を手が滑ったことで綺麗にの手の内が斬れる。ぱたり、ぱたりとの手の平から落ちた血が、既に血や土埃で汚れた審神者装束の白を更に汚した。

「僕、を……殺し、て………」

はく、と口が動いて、こつん、との後ろ頭が廊下に落ちる。それからは動かなくなった。
刃を握っていたの手から力が抜けて、ことん、とその両手が床の上に落ちる。
慌てて一期一振は厚を立たせてから下がらせて、の口元に耳を寄せた。

息は、している。

とりあえずはそのことに安堵した。どうやら、気を失ったらしかった。
は、は、との短い息が辺りに虚しく響く。
これだけ酷い熱を出して、歩くのも相当辛かったに違いないのに。無理を押してまで、今、彼はここで死のうとした。いや、殺してもらおう(、、、、、、、)とした。

それがどういうことなのか。

一期一振には、そしてこんのすけやこの場にいる誰にも、それは全く見当がつかなかった。
ただ、こんのすけが“時間がない”と言った意味を、一期一振はもっと深く考えるべきだったのかもしれない、と思い直す。それはきっと、彼の根幹を揺るがす事態が起ころうとしていたからなのかもしれない、と。

残された呆然とした三振りとこんのすけは、ただ、の荒い息に眉を潜めることしか出来なかった。










2018/05/25

僕を、殺して 06