05
そろそろいい加減殺してくれないかな、とはここ最近毎日のように
が朝起きて一番に思うことだ。
寒さはまだ続いている。
そして、
はまだどうしてか、生をこの世に繋いでいた。
あの白い刀と会ったのは、もう、半月ほど前のことだったか。
いつまでこんな日々が続くのか。
こんのすけが持ってきた果物を、腐る直前で申し訳程度に少しかじる。そうしないと、もう冗談抜きで餓死してもおかしくなかった。
でも、そうして何か口に入れるのは思いの外つらかった。
食べることは、本来なら嫌いじゃない。むしろ貧民街では、いつも何か食べ物を買うために奔走して日銭を稼いでいたのだから、働かなくても、金を払わなくても食べられるものがあるなら喜んで食べるはずだ。本来なら。
けれど一度食べてしまうと、その次に必ず襲ってくる言いようもない空腹感が、たまらなく辛かった。
ずっと物を食べなければ、空腹感にも慣れてしまう。慣れてしまえば、空腹感も気にもならないから楽なのだ。
なのに、一度でも腹に何か入れてしまうと、次にはじくじくと身を這い上るように空腹感が襲ってきて、それが思いの外堪える。
どうせすぐに死ぬのだし、何も口に入れたくない。
でも、食べなければ餓死してしまう。そろそろ流石に、水だけで過ごすのは限界だった。このままではそれこそ本当に犬死になってしまう。
それだけは出来ない。
出来ないから、だから、渋々何かを口に入れる。それをもう、何度繰り返しただろうか。
そういえば、こんのすけからは、部屋が綺麗になったから夜はそこで布団を使って眠れと言われたが、それもしていなかった。
霊力が本丸に循環し始めたことで、屋敷守の精霊達が力を少しずつ取り戻して、真っ先に審神者部屋を整備してもらったのだとこんのすけは随分と嬉しげに言っていた。見れば確かに、離れで唯一まだまともだった豪奢で何かの匂いのしていた部屋は、何もない綺麗な和室になっていた。
がたがたと音がしていたような気はしたが、これのためだったらしい。
だからといって、大きな部屋をどう使えば良いかも分からなかったし、それを
が使う気も無かった。そんなに綺麗でまともな部屋は、
には不釣り合いに見えてしょうがなかった。
そもそもこの部屋や屋敷は、本来の審神者が使うべく用意されたもの。こんのすけはぐちぐちと毎日ここをお使いくださいと言ってくるが、
が使うのは憚られて、いつもすげなく断っていた。
暖を取るものは無いが、小さな物置部屋の方がいくらも安心してくつろいで眠れた。
そうした日々が続く中、この日もまた、
はよろよろとした頼りない足取りで庭を進んでいた。
だいぶ薄くなって来た靄のおかげでそこそこ先の方まで問題なく見渡せるようになって、
の目には少し遠くにある母屋がしっかりと映っていた。
だと言うのに、ここ最近はなぜか何もしていなくても視界が不自然にぼやけてしまうことが多く、今も再びぼんやりと白く濁り始めた視界に
はごしごしと目をこする。
以前腕に出来ていた傷は少しずつ治り始めていたが、その上から新しい傷がいくつも付いていて、結局ここ最近、
の四肢から包帯が無くなったことはない。
眼の前に見えてきた母屋からは、声は聞こえないし、刀剣の姿も見えなかった。
けれど、刀剣が
を殺しに離れに来てくれないのだから、
が赴くより他ない。とりあえず刀剣の居そうな場所へ行ってみなければと方向転換した所で、何も無い所で躓いて、
は前のめりに地面に転げた。
ざり、と袴の下で膝がこすれたような感覚に、眉を潜めた。
自分で傷を増やしてたんじゃ、全く世話ない。
地面に付いた手にも擦り傷が出来ていて、でもそれを見下ろす視界が時折白く霞む。
はまた手の甲で目をこすった。
栄養失調か、体力が尽きようとしているのか。
嫌だとは思いながらも、やはり何か食べなければ。狐が持ってきた芋か何かが確か部屋に転がっているはずだ。芽が出始めていたが、それを取れば食べられるだろう。
一度戻ろうかと思った所で、ざり、と微かに足音がした。狐の足音ではない。
「お前、こんな所で何してる」
声が降って来た。訝しむような声だ。
の霞んだ視界に、黒い靴のようなものが映り込む。
のっそりと顔を上へ上げると、高い位置に刀剣の顔。見たことの無い顔だ。髪が長くて、向かって右側に小さな三つ編みが見えた。赤い着物に、水色の羽織。怪我をしたのかいくらか薄汚れて血が滲んでいたが、以前ふとした時に見かけたことのある重症で動けない刀剣に比べれば幾分もマシな様子だった。彼一振のようだ。
顔は訝しげだが、敵意を持っているというよりも、ここで何をしているのかと単純に疑問に思っているような様子だった。
「……別に」
の口からは掠れた声が漏れる。
最近は水を飲んでも、声の掠れが治ることが少なくなってきた。
「食い物でも探してるのか」
刀剣の言葉に、まるで貧民街でのような言われようだ、と
は内心笑った。
けれどこれなら、貧民街の方がまだ遥かに生きやすかった。何度そう思っただろうか。
「…違う」
この刀も、穏健派なのか。
がこんな所でぼけっとしているのに、刀を抜くことも、手を上げることもない。このような刀剣が意外に多くて、
は辟易した。
穏健派の刀にいくら何を言った所で殺してもらえないことは、このひと月程で嫌という程分かっていた。
は何かを言う気にもなれず、立ち上がってこの場を去ろうとした。
のに、膝が笑って立てない。
立とうとして、けれど失敗して無様に尻もちをついて、
は溜息をついた。
これはもうちょっと真面目に栄養をつけなれけば、気がついたら骸骨になっていそうだ、と内心失笑をこぼす。
少し休んでから戻ろう。
そう思っていると、刀剣が近づいてきた。
「立てないのか」
「…………」
だったら何だというのだろう。
はわずかに苛立ちを覚えながら、うまく回らない頭で考える。
なぜ、そんな事を聞くのだろう。意図が分からなかった。それを聞いてどうしようと言うのだろう。
が訝って見上げると、上から刀剣の手が降りてきた。こちらに差し出されている。
「………?」
「立てないんだろう。こんな所を気の荒い奴らに見られたら何をされるか……。送ってく」
そんな事を言う。
この刀は穏健派で、しかも世話焼きでもあるらしい。
今までも他の刀剣に痛めつけられている時に、穏健派の刀剣に助けられたことがある。多くの穏健派の刀剣は、審神者を殺そうという気はないようだったが、同時に、助けようという気もないようだった。
仲間の刀剣を止めて“無駄な体力を使うな”、“お前が手を汚す必要はない”、と愉しはするが、それだけで、さっさと仲間を引き連れて母屋へと帰って行く。そういう刀剣がほとんどだった。
けれど目の前の三つ編みの刀剣は、手を差し伸べることまでした。
一体どれだけ穏健派というのは善人なのだろう、と思わずにはおれなかった。
それが
にとっては、酷く煩わしい。
「………放っておいて、ください」
手を取るつもりなんてなかった。
うつむいて
がぶっきらぼうに言うと、上から大きな溜息が落ちてきた。
「ったく。めんどくさいのが来やがったよな、本当に」
心底呆れたように、吐き捨てる。
そう、それでいい。
そういう言葉を投げかけられた方が、幾分も落ち着いた。
殺してくれるつもりもないなら、そのまま立ち去ればいいのに。
は霞む視界に映る黒い靴を見て思った。
けれどその刀剣はその場で屈んで、
の目を覗き込むようにした。
は、申しわけ程度にその青い澄んだ瞳を見上げる。
「飯、食ってんのか」
「…………」
「細っせえ腕しやがって。お前、何しにこの本丸へ来た?」
「……仕事をしに、です」
「ふぅん。仕事、ねぇ」
とてもそうとは思えない、そんな声で刀剣は言って、更に続ける。
「じゃあなぜ俺たちに出陣しろと言わない?遠征もなし、鍛刀も刀装作りしろとも言わねぇじゃねぇか」
「それは僕の仕事じゃないから」
「じゃあ何がお前の仕事だって?」
「刀剣の怒りを鎮めること」
「お前が殺されることによって、か?」
「うん」
こくり、と迷わず頷いた。
それに刀剣はぱちりと目を瞬いて、再び大きな溜息をついた。がしがしと髪をかきあげる。
見た目は優美な出で立ちをしているのに、随分と言葉も動きも豪胆な刀だ、と
はなんとはなく思った。
「全く、ガキの言うことじゃねぇな。………最も、それを言わせてるのは俺たち、か」
ぼそり、と刀剣は言って、心なしか肩を落とした。
それが少し物悲しそうだったのに、
は酷く不思議に思った。どうして刀剣がそんな風に思うのか、分からない。
「?別に、あんた達がそうしようと思ったわけじゃ、ないんですよね?」
「は?」
「前の審神者がクズだった。あんたらは運悪くその被害を受けた。それだけ」
そう言うと、刀剣はどこかぽかんとしたように目を瞬く。
は首を傾げる。
何をそんなに驚くことがあるのか。今言ったことは、何か事実と相違があっただろうか。
「それに僕は別に、あんた達のために命使うなんて言ってないです」
「よく回る口だなぁ、おい。じゃあ誰のためだって?」
ここまで言ってやる義理もないはずなのに、どうしてか、言葉を重ねてしまった。けれど説明するのも疲れるし面倒だし、そもそも彼らは全く赤の他人でその義理もない。
「………、…別に」
結局、
は肝心な所は言わなかった。
「なんだそりゃ。いいから、立て。ここに居たらーーー」
そこまで言ったのと、刀剣が身を翻すのが同時だった。
バサリ、と青い羽織が翻る音のすぐあとに、抜刀する音と、次いで刀同士が打ち合う激しい音がその場に響いた。じゃり、と刀剣が砂利を荒々しく踏む音がする。
「っ!」
「和泉守、どけ!何でそいつを庇う!」
「だから庇ってるわけじゃねぇって言ってんだろ!てめぇら分かってんのか、コレはあいつじゃねぇ!」
「そいつをのさばらせておけば、今度こそ俺たちは根絶やしにされるぜ!」
「だからって殺すことねぇだろう!折角この姿で人間を殺さずに済んだんだ、また追い返せばいいじゃねぇか」
「そんな事言ってる間に、また頭数が減る!」
は相変わらず表情すら変えなかったが、急に始まった応酬に少しばかり目を瞬かせた。
三つ編みの刀剣が、別の刀剣の刀をその本体で受けているらしかった。
どうやら、
を殺そうとしてくれる刀剣に見つかったらしい。聞いた事の無い声だが、三つ編みの刀剣とはもう既に同じ会話を繰り返しているのか、その続きといったニュアンスの会話とも言えない言い合いが繰り広げられている。
彼の背中越しに見えるのは、全身を黒い服に包んだ刀剣だった。顔には大きな刀傷が斜めに入っていて、黒い短髪の下で、金色の瞳がギラギラと敵意をむき出しにしている。
「(………あ、……)」
三つ編みの刀剣が軽く相手の刀を受け止めていると思ったけれど、いや、その表現は確かに正しいけれど。
黒服の刀剣の左腕は、肘から下が無かった。本来腕があるはずの袖が結ばれていて、動きに合わせて時折小さく揺れる。そのハンデ故か、三つ編みの刀剣も刀を受けるだけで、特に攻勢に出るわけでもなかった。
ただ相手を諌めるように言葉を重ねている。
「おい、審神者!とっとと立ち去れ!」
「和泉守、こいつはまた同じように堀川を折るぜ。御手杵みたいにな!」
「それならその時にこいつを殺すまでだ。けどなぁ、人間だから、審神者だからって理由だけで、よく知りもしないガキ1人殺そうなんざ、仮にも神の末席が聞いて呆れるぜ!おい、さっさと行けって言ってんだろ!」
会話しながらも、三つ編みの刀剣は
に言葉を投げかけて来る。
ーーどうして庇うのだろうか
は、黒服の刀剣と同じことを考えた。
縁もゆかりも無い人間の子供一人、どうして庇うのだろうか。
己に利益もないだろうし、むしろ庇うことで同じ刀剣と対立すらしなければならないのに、なぜ。
は二人の刀剣を見上げた。
「僕のこと、殺した方がいいんじゃないの。僕、人間ですよ。審神者だし」
「はぁ?!何言ってーーー」
「その黒い人の言う通りです。僕も、前の審神者と同じことをするかもしれない」
「ーーー」
「僕のこと殺しといた方が、多分ここの刀剣も喜ぶと思います。僕も嬉しい」
「…っ…!どいつもこいつもイカれてやがる……!」
三つ編みの刀剣が苦虫を噛み潰したような声でそう吐き捨てた。
理解出来ない。
刀剣がそうまで言うことが、
には理解出来なかった。
「何やってる、同田貫!」
騒ぎを聞きつけたのか、別の刀剣が母屋から姿を現した。二振りが打ち合っている様子を見て、それから後ろに蹲る
を見て状況を理解したのか、駆けつけた刀剣は一瞬躊躇う様子を見せたものの、すぐに動きだした。
同田貫と呼ばれた黒服の刀剣の後ろから、彼を引き止めにかかった。三つ編みの刀剣に加勢するつもりらしい。
同田貫が後ろから羽交い締めにされて動きを封じられている間に、三つ編みの刀剣はすばやく刀を収めると、振り向いてずんずんと
の方へと近づいてきた。
「こいつら止めるのだってひと苦労なんだ、てめぇは離れで大人しくしていやがれ!」
そう言って
の片腕を取って、ほとんど引きずりながら早足で歩きだす。
も反射的に足を動かすものの、足が震えて上手く動かせない。ここに来た日もこんな事があったな、と思いながら、されるがままにほとんどずるずると引きづられて、来る時はあんなに時間がかかったと言うのに、今度はあっという間に離れまで戻っていた。
「審神者様?!」
離れに着くと早々に、審神者の様子を見に来ていたらしいこんのすけが声を上げた。刀剣に引きづられて今しがた放り投げられるように地面に蹲った審神者を見て、驚いて走り寄ってくる。
「和泉守様、何をなさいますか!」
「うるせぇ!ったく、こいつがうろちょろしてるから危うく殺されかけただろうが」
しかし刀剣から返って来た答えに、こんのすけは目を大きく見開いた。
「……!それは、……失礼致しました。助けて頂いたのですね」
「なるべく母屋には近づかせるな。まだこいつを殺したがってる奴は残ってるんだ」
「ーーーはい。審神者様をお助け頂き、ありがとうございました」
「……全然、ありがとうじゃない」
「あ?」
一振りと一匹の会話に、
が口を挟んだ。
助けて頂いて、ありがとう?何も、感謝するようなことじゃない。
いや、むしろ。
「さっきも言いました。刀剣に殺されるのが、僕の仕事です。邪魔しないでください」
は地面に座り込んだまま、背の高い黒髪の刀剣を見上げた。辺りに漂う靄とは関係なく霞む視界の向こうで、刀剣は眉間に皺を寄せて険しい顔で
を見下ろしている。
「てめぇはここで生き残ることを考えろ」
「……どうしてです?」
心底不思議そうに、心外そうに返す
に、刀剣は思わずといったように口を噤んだ。
それから、くそ、と吐き捨てて視線を外す。
「……、……付き合ってらんねぇな」
三つ編みの刀剣はそれだけ言うと、眉間に皺を寄せたまま身を翻して、母屋の方へと戻って行った。
こんのすけは再度刀剣に向かって感謝を告げて少し見送ったあと、踵を返して
の元へと戻ってきた。
「審神者様。聞いた通りです。当分、母屋の方へは近づかぬ方がよろしいかと。入り用の物があれば、こんのすけが取って参ります」
「………だから、さ。僕、殺してほしいんだけど」
もう口を開くのも億劫だった。何度言えば、彼は、彼らは分かってくれるのだろう。
「……審神者様。刀剣男士様方は、今必死に状況を良くしようと努力されておいでです。審神者様の霊力によって、この本丸も以前よりもだいぶ正常に機能して参りました」
審神者がここに留まることでこの本丸へと与えた影響は、この霧だけに留まらない。
霊力が循環し、本来の“本丸”の機能が正常に稼働しつつある。それによって、今まで穢れに汚染されていた刀剣男士が、少しずつ正気を取り戻してきている、とこんのすけは言う。
「まだ少し時間はかかりますが、今しばらくご辛抱頂ければ、必ずや、この本丸はよい方向へ向かって参ります」
「…………」
は、もうなんだか考えるのが面倒になって、地面に寝転がった。
まだ歩けそうになかったし、こんのすけに何を言っても響かないことを痛いほど思い知った。
「(そういう耳当たりの良いことばかり言って、期待させるだけ期待させとくんだよなぁ……)」
知ってる。
そうして、期待を裏切るまでがワンセットなのだ。
今までずっとそうだった。
これからだってそうだろう。
はこんのすけに背を向けて、膝を抱えて丸くなった。
流石に外で眠ってしまったらこの寒さであれば凍死してしまうだろう。眠るつもりはなかったが、とにかく今は、絶対に届くはずのない、けれど眼の前にぶら下げられる“希望”を見たく無かったし、聞きたくなかった。
そうやって裏切られるのが、一番辛い。
裏切られないようにする方法は知ってる。簡単だ。
信じなければいい。
最初から信じていなければ、裏切られることもない。
信じない。
それが一番、楽だった。
2018/05/15