04







ごつん、と釣瓶が氷に当たった音がした。ミシ、と少し氷が軋む音はしたが、肝心の水にまで到達した様子はない。
この離れの水道は、蛇口をひねっても水が出ない。水道管が凍っているのか、そもそも水が出ないのかは分からないが、流石に水がないと干からびてしまう。
は離れの傍にある井戸からずっと水を飲んでいたのだが、どうやらこの寒さで井戸が凍ったらしく、今日はここからは水にありつけそうにない。昨日までは、それでもなんとか水が飲めていたのだけれど。

この本丸に来てから、2週間が過ぎていた。
殺してもらおうと色々と試してみるものの、痛めつけられて体に傷が増えていくばかりで、一向に殺してもらえる気配はない。思いの外長丁場になっていて、以前こんのすけが言っていたように、殺される前に空腹で死んでしまう方の心配をする羽目になった。
途中で2度、こんのすけが持ってきた果物などの食べ物を食べた。
食べ物はやはり、美味しかった。それをこんのすけに言うと負けたような気になるので、言ってやらないけれども。
それで何とか鋭気を養いつつ、殺してもらえるよう色々手を尽くしてみているが、なかなかどうして、うまく行かない。

今日はどうしようかと考えている内に喉が乾き、井戸に足を運んでみたが、何度か釣瓶を落としてみたものの、氷の下にある水を取り出すのは難しそうだ。
離れの井戸は大きな木の袂にあって日陰なので、例え日が差して氷が溶けるのを待ったとしても、果たしていつになったら水を飲めるようになるのか。
仕方なく、は別の井戸を探すべく歩き出したのだった。
この本丸へ来てからずっとかかっていた濃い霧が、ここ2・3日で少し薄れて来たようで、どんよりと薄暗かった辺りが、朝焼けに浮かぶ朝霧の中に居るように明るくなって来ていて、時折薄く日の指す場所を見つけられるようになった。こんのすけは、清い気を持った審神者が留まることで正常な霊気が循環し始めたためだ、と言ったが、にはそれが本当かどうかは良く分からない。
ともかく、薄日でも日の当たる場所にある井戸なら、水があるかもしれないと踏んで、それとなしに探してみることにしたのだ。どちらにしても、木の袂にある井戸よりはもっとマシな井戸があるはずだった。
今日は一段と冷えて寒いので、夜寝る時にかぶる羽織を肩に引っ掛けている。なんだかんだで、半月ほどもこの羽織にはお世話になっていた。
屋敷へと近づくと一つ、井戸を見つけた。離れの傍の井戸よりも明るい場所にあって、もしかしたら水を飲めるかもしれないと思って近づく。けれど、人影があるのにも同時に気がついた。

白い影が、井戸端で何かしているようだった。

どうしようか一瞬迷ったが、これで殺してもらえるなら丁度いい、と井戸へと躊躇わずに近づいた。
近くへ行ってみると、全身に白いペンキでも被ったような真っ白の刀剣男士が水を浴びていた。周りに他の刀剣が居る様子は無い。
白い髪に白い袴。井戸に立てかけてある刀剣の鞘や柄も真っ白だ。上半身を肌蹴させた白くて細い体には、けれど無数に刀傷や青あざが広がっている。
青あざや傷があること自体はにとって別段珍しい光景でも無かったが、高貴な人、ましてや端くれとは言え“神”と名の付く刀剣男士が持っているのにしては、少々不釣り合いのような気もした。
が井戸へ近づくと、白い刀剣男士は目線を一瞬ちらりとへと寄越した。
一瞬動きを止めて、を無言で見下ろす。
けれどそれから何か反応を示すでもなく、また井戸へと向き直って釣瓶を落としてから引き上げ、汲んだ水を体へと躊躇いなく浴びせた。
どうやら水はちゃんと汲めるようだ。
は白い人が井戸を使い終わるのを待つように、少し井戸から離れた所で突っ立っていた。
幾度か白い人が水を浴びるのを見ていて、ふと、立てかけてある刀に目が行く。水で濡れないようにか、水浴びしている場所からは離れた所に置かれてある。
刀は、金の装飾などがあって、鞘が白くて、どう見てもいい値段がしそうだ。
は試しに刀に近づいて行って、腰を屈めた。
じ、と刀を見つめる。

「高そうだなぁ、あんたの刀。売ったらいくらくらい?」

自分の本体を、ただ“どのくらいの値段か”だけで判断しようとすれば、気の短い刀剣男士なら突っかかって来てくれるだろうと思ったのだが。
白い刀剣男士を見上げて返答を待ったが、彼はに視線をちらりとやっただけで、やはり何も言わない。

「(この人も穏健派?なのかな)」

それとも、単に人間と会話をしたくないだけだろうか。
刀剣男士の反応が無いのを良いことに、はじっと刀を見つめた後に、無遠慮に刀に手を伸ばして掴んだ。
気が短くなくても、少しでも人間に嫌悪感があれば、嫌がるだろう。
そう思ったが、これでも無反応。
試しに鞘から刀身を全て引き抜いてみたが、やっぱり何も言ってこない。
その段になると、向こうが全くこちらを敵視してくれる様子も無いので、ちょっかいを出そうという気もから失せていて、単に目の前の刀への興味だけが残った。
刀身は少し刃こぼれもしているものの、覗き込めば自分と目が合うほどに艷やかだった。淡い日の光を反射して、時折きらりと煌めく。

「おっとと……、刀って結構重いんだな」

が持つには長い上に重すぎて、重心を保てずに、トト、とたたらを踏んだ。
初日見たように、全ての刀剣男士は重さなど感じさせることもなく片手で刀を持っていたと思ったけれど、あれはやはり鍛錬あってのことなのだろう。片手で持つにはの細腕では些か頼りない。
は鞘をそっと井戸に立てかけて、両手で刀の柄を握って眼の前にかざした。
刀の厳かなその佇まいに、知らず、ほぅ、とため息が溢れる。

「すげー…」

どうやらこの屋敷にいる刀剣男士というのは、刀剣の付喪神で、その本体たる刀剣は、それこそ付喪が宿る程に人の“想い”が募ったものだ、というのが短い研修で得た数少ない知識の一つだ。
初日も間近で見てみて思ったが、それほどの物なのだから当然刀剣だって、貧民街でも見かけるような安いドスなどとは比べるべくもなく、美しく、気高いとすら表現出来そうな代物だった。
学のないにはその価値などまるで分かりはしなかったが、それでも、見ているだけで何か、心の内から言いようのない感情が零れそうになる。その気持をどう表現するべきか、には分からないけれど。
の中には、芸術や伝統などという崇高な物を推し量れるような基準はなく、持っている物差しと言えばただ、“金になるか、ならないか”と言った実に現実主義的なものしかない。
結局、口から出る言葉は、

「高そう…」

それになってしまうのだけれど。
鋭利な穂先と刃を見て、つい手を伸ばした。片手で持つと持った方の腕がぷるぷると震える。そうしてもう片方の指先を、刃へと近づけた。
チリ、と鋭い痛みが指先に走る。
ほんの少し触れただけで、見事に人差し指の腹がぱっくりと割れた。

「おおー」

斬れた自分の指を見て、目をパチクリとさせる。
凄まじい切れ味だ。
これならきっと、心の臓を一突きだって簡単だろう。肉が綺麗に裂け、苦しまずに逝くことも出来るかもしれない。
出来ることなら、苦しまずに死にたい。
そんな荒唐無稽とも思える願いを、この刀なら叶えてくれるのじゃないかと希望すら持てた。
そんな風に思った所で、ぷるぷると震える手で持っていた刀をさっと取り上げられた。
見れば、唇が紫色になった白い人が、金色の瞳を剣呑に細めて、から刀を取り上げた所だった。
さすがに自分の本体を人間の血で汚されて嫌になったか。顔をしかめて見下ろす白い人に、ついでにそのまま一突きしてくれないかな、と試しに口を開いてみる。

「なあ、あんた。僕を殺してみない?」

表情も変えず、いつもどおり淡々とした様子で問いかけると、彼は一つ瞬きをして、けれどため息を一つついただけだった。吐かれた息まで真っ白で、刀身を危うげなく流れる手付きで鞘に収めてそのまま背を向けた刀剣男士に、あ、とは無意識に声を上げていた。
その紫色の唇とか、真っ赤になった手先とか、真っ白な息とか。
それらがの口を勝手に開かせた。

「これ、もしかしてあんたの?離れにあったんですけど」

今日肩に引っ掛けているフードのついた羽織も、そういえば真っ白だ。金色の装飾もついているし、考えてみなくてもこの羽織は目の前の白い刀剣男士によく似合いそうだった。
刀剣男士はちらりとこちらを振り返って、差し出された羽織に切れ長の目を向ける。
その顔が何の感情を彩ることもなく、延びてきた腕が無造作に羽織だけ掬い上げた。ふわり、とそれを自分の肩にかける。
最初からそこにそれが無かった事が不思議なくらいに、その羽織は白い人によく似合っていた。
それから刀剣男士は何を思ったか、を見下ろして、数瞬立ち止まった。

「(……なんだ?)」

殺してくれる気にでもなったのだろうか。
そうが訝った所で、白くて細い腕が降りてきて、の腕のほつれかけた包帯をくい、と引っ張った。は軽くよろけて、数歩、刀剣男士の側に近づく。
白い刀剣は腰に刀を指すと、地面に片膝を付いた。
の腕を取って包帯を一度解いて、今度はくるくると巻き始める。
もともと不格好にしか巻いていなかった包帯が、刀剣男士の白くて細い骨ばった手で、綺麗にするすると巻き直されていく。それはどう見たって殺したり痛めつけたりするような手つきではなくて、それはむしろーー

そこまで考えて、は考えるのを止めた。

それは、にとっても、この屋敷の大多数の刀剣男士にとっても、楽しくない結論だ。
ーーきっと。
そうであって、欲しかった。

きゅ、と最後は端を綺麗に結び直されて、包帯は今度はしっかりとの腕に巻き付いた。

「……あり、がと」

一応礼を口にしてみるも、やはり刀剣男士は何も言わない。
片膝を付いたことで少しだけ目線が自分より下になった刀剣を見下ろして、は内心首を傾げた。

「あんたの、それ。…………審神者にやられたの」

視線を上半身にやりながら、口を開く。
刀傷や青や紫の痣が無数に広がる体。標準の刀剣男士がどうかは知らないが、戦場に立つ者にしては、少しばかり頼りない体つきをしている気がする。元より全体的に白そうな人だというのを除いても、顔色も良くなかった。最も、貧相を通り越してやつれているが言えたことではないけれど。
ご飯を食べていないのだろうか。
寝ていないのだろうか。
刀傷や青あざは、ともすれば戦場で付けられたものには見えない。やはり、前の審神者にやられたのだろうか。
ここの刀剣達も、神である以前に戦場へ赴く戦士として、本来は厚く遇されてしかるべき所を、彼らもきっと不遇の内にあったのだろうと。
なんとなく、そんな事を考える。
に投げかけられた問に、刀剣は何も言わない。
眼の前の刀剣だって、本当は審神者や人間を殺したいくらい憎んでいたっておかしくないのに。
ーーーだったら。

「審神者とか、人間のこと、嫌いじゃないの。憎くないの」
「……………」

声が出ないのか、しゃべりたくないだけか。
刀剣は瞬きするばかりで、会話する意思は無いようだった。ただ、の様子をじっと伺っている。

「あんた達に酷い事、したんですよね。…………嫌いなら。憎いなら」

そう、思ってるなら。

「ーーー僕のこと、殺していいんですよ」

それをしたって、誰も咎めたりしない。それは、刀剣男士達に与えられた、当然の権利だ。それがの仕事だ。
だから、もし躊躇っているのなら、もし後ろめたい気持ちや罪悪感があるのなら。
そんなものは不要だと。
そう、伝えたかった。
の言葉に、刀剣の白い長いまつげが何度か瞬いて、揺れた。

「(そうしたらあんただって、僕だって、幸せなのに)」

金色の目を見て思う。
あんた達のしたいようにして、いいのだと。それで困る人なんて誰も居ないのだと。

けれど白い刀剣はまた一つ白い息を吐いて立ち上がると、白い羽織を翻して、何も言わずに今度こそ屋敷の方へ向かって歩き出した。少し足を引きずるように歩くその後ろ姿が、何か言いたげのような気がして、は知らず、見えなくなるまで目で追っていた。
白い刀剣は、けれど振り返ることなく母屋の方へと姿を消した。









2018/05/15

僕を、殺して 04