「屍!?」
声を上げたのは博雅であった。驚いて半分腰を上げる。
の声で、自分の屍を探して欲しいと言う。
がどうかしてしまったのかと思ったのだ。
「お主、
を、どうしたというのだ――!」
「落ち着け、博雅。まだ話は始まったばかりぞ」
晴明が手で制する。
博雅は太刀に手を掛けていた。
「…お怒りはごもっともでござります、博雅どの。しかし、わたくしには、この体を借りるより他に、もう手立てが残されておりませんでした」
「――そなたは、
ではないのだな」
確認するように、聞く。
女(、)は静かに首肯した。
「由梨音と申します」
「…
は、無事なのであろうな」
「はい。お体をお借りしているだけでござりますれば、女童に何の害もござりません」
「――」
「そういうことだ、博雅」
「むむ…」
逡巡して、博雅は腰を落ち着かせた。
失せ物探し
うせものさがし <後>
由梨音は、もとは播磨の国の陰陽師であるらしい。当然、蘆屋道満の事もよく知っている。
修行のため、数年前から京に上り、都の外れにあばら屋を立てて住むようになった。別に、道満を頼って京へ来たというわけではなく、単に、小国播磨から出てみたかったのだという。
数カ月前であった。
九条基輔の頼みで、ある荒れ屋敷の憑き物を落としに行った。憑き物は無事落としたのだが、それ以後の記憶がなく、気がついたら幽体となってさ迷っていたのだと言う。
いつ自分が死んだのか分からぬ。
それどころか、最初は自分が死んだことにすら気が付いていなかった。
随分長い間、ぼんやりと、大気を漂っていた。
――おかしい、誰も、自分に気がつかぬ
それどころか、由梨音の意識が鮮明になるのは、決まって夜のみである。
ようやっと、自分は死した身であると思い至った時には、長くその場に留まりすぎて、そこから離れられなくなっていた。
自分はなぜ死んだのか。
自分の屍はどこにあるのか。
それが気になり初めたら、とても気になってしまって、しょうがない。
そればかりが気にかかり、もう、成仏出来なくなってしまった。
「途方に暮れておりましたら、今日、昼に短い覚醒をしたのでござります」
昼に目覚めるなど、これは、変調の兆しであろうか。
何かが起こるのか、静かに待つことにした。その時に傍を通ったのが、
であった。
「この女童は、よい気を持っておりました。それに、晴明どのの札が見えた。すこし近づくと、吸い込まれるようにして、この女童の中におりました」
誰かに取り憑く以外に、この場所を離れることは叶わない。己の屍も、見つからない。
迷ったが、自分のものよりも小さな足で、すぐに歩き始めた。
「晴明どのにご助力を賜りたく、ご無礼を承知で伺ったのでござります」
そういうことであった。
牛車が月光の中を進んでいる。
晴明と博雅は、牛車の中にいる。
の姿をした由梨音は、蜜魚と共に外を歩いている。
九条基輔に頼まれて赴いた屋敷を訪うのである。
しばらくして着いたのは、荒れ屋敷であった。すでに人の住める状態ではない。
中を見てまわると、術に使われた薪がまだ残っていた。
「ここでござります」
「屋敷から出た覚えはないのだな」
「ござりません。けれども、次に覚醒をいたしましたのは、別の場所でござりました」
しばらく晴明はなにやら屋敷を見て廻っていたが、何も無いようだと分かると、戻ってきた。
「では、今度はそちらだな」
また、晴明と博雅は牛車に乗り込んだ。
博雅は再度、外は危ないから中へ入ってはどうかと由梨音に問うた。由梨音はただ首を横に振るばかりであった。
向かったのは、屋敷から少し先にある川べりである。
誰かが使っていた漁師小屋のようなあばら屋で、由梨音は漂っていたと言う。
そろそろ着こうかというところで、
、と牛車の中に蜜魚の声が届いてきた。
人が地に膝をついたような音もして、牛車が止まる。
博雅が御簾をあげる。由梨音は牛車の横で、体を小刻みに震わせて蹲っていた。蜜魚が傍に寄り添っている。
「
!」
慌てて博雅は由梨音の顔をのぞき込んだ。晴明も、車を降りてくる。
由梨音は苦しそうに息をして、痛む胸を手で鷲掴む。額に汗がにじむ。
「由梨音どの、
は本当に大丈夫なのであろうな」
様子は芳しくない。荒く息を吐いて、顔が青白い。
苦しんでいるのは由梨音だとしても、
も同じ痛みを味わっているのではないか。
「申し訳ござりませぬ。申し訳…」
はた
はた
由梨音の目から、透明な涙がこぼれ落ちる。
「この女童にも、少なからず負担になりましょう……。申し訳ござりませぬ。されど、私にはこれしか………申し訳、ござりませぬ…」
由梨音は不安定に立ち上がる。
「…もう、すぐでござります……」
蜜魚が支えながら、また、少しずつ歩きだした。
が心配である。しかし、由梨音の気持ちも、分かる。
幽体になって尚、人に取り憑くことを躊躇った彼女は、しかしそれ以外の手段がないが故に、人を苦しめると分かっていてその路を選んだ。
彼女が、それに納得したわけではない。むしろ、後悔しているようであった。
しかし、どうしようもない。
覚束ない足取りで進む由梨音を見て、博雅は涙を一筋こぼした。
「晴明…どうにかならんのか」
「まだ、何ともゆえぬ。おそらく、この先に答えがあるであろう」
「うむ…」
博雅は牛車には乗らず、有無を言わせず由梨音を背中に担いだ。
「博雅どの…」
由梨音は驚いたように目を見開いた。
「ゆくぞ」
「……………はい」
「ここか」
荒れ屋敷よりも酷い有様であった。
もとより、人の住むというより、雨風を凌ぐためだけの板張りの小屋である。荒れに荒れていた。屋根はもうほとんど残っていない。地の見える余裕はない。替わりに雑草や蔦があらゆる場所に蔓延っている。
白々と照らし出された荒れ小屋の前で、由梨音は立ち止まった。すでに、博雅の背からは降りている。
「…晴明、どの」
小屋と一定の距離を開けたまま、近づこうとしない。近づけないようであった。
「どちらへ進むのかを、言いなさい」
晴明は由梨音の前に立つと、口の中で小さく呪を唱えた。
由梨音の顔が、心持ち和らぐ。大きく呼吸を一つして、
「右でござります」
晴明がゆっくりと歩き出した。その数歩あとを、由梨音が歩調を合わせて、歩く。
晴明は数歩歩く度に少し立ち止まっては、口の中で呪を唱えた。
「そのまま、少し前へ。そう…もう少し、前でござります」
小屋の崩れた塀を超えて、小屋を迂回するように二人はゆっくりと歩んでゆく。博雅は由梨音の傍を、つかず離れずついてゆく。
小屋のすぐ横の川岸を下るように進む。それに従って、由梨音の足は引きずるように、重くなる。晴明が立ち止まる回数も増えた。
生身の体を持ってして尚、この有様である。幽体ではとても近づけない。
博雅は、これしか手立てがないと行った言葉の意味が、少し、分かった気がした。
「…左、でござります」
そう由梨音が言い、数歩歩いた所で、ここでござります…と、か細い声でつぶやいた。
晴明が横に一歩、由梨音と博雅にそれ(、、)が見えるように、退いた。
「ああ、ああ」
ざり、膝から力が抜けたように、由梨音がくずおれた。両手で顔を覆い、それでも、指の隙間から目の前の現実を見つめる。
「なんと…なんということでござりましょう」
すでに白骨になって久しい屍が1体、野に横たわっている。生い茂る草から、辛うじて白骨が確認出来るほどであった。
その手はしっかりと胸の上で組んでいる。傍らには、小刀が一振り、鞘に収まって置いてある。纏った服の両袖の部分は、斑模様が広がる。
黒く空いた髑髏の目は、静かに夜空を見上げていた。
「私は、なんという愚かなことを…」
頭を振り、由梨音は体を丸めて泣き出した。
すぐに、膝を正して、晴明に深々と頭を下げる。
「お許しください、晴明どの―――。あなた様に呪詛(ずそ)をかけようなどと……。最後まで力の及ばぬ私めを、お笑いください……」
自分を驕った。
難しい術式を終えた達成感と安堵で、何でも出来るような気になっていた。だから、九条からの2つ目の依頼を、受けた。
呪詛は、ものの見事に失敗に終わった。
返った呪詛は、術者に還る。両の手を傷つけ大量の血を要する程の呪詛は、返ればそれだけの威力を持って、術者を食い荒らす。
自分の放った術で、結局は自分が命を落とした。
「こんなに近くにいたのに……、己の屍すら見つけられませなんだ」
目と鼻の先にある屍にすら気がつかなかった。成仏出来ずに途方に暮れ、挙句、晴明に助けを請うた。
お笑い種もいいところである。
けれど、晴明は笑わなかった。
「博雅どの」
「――なんだ」
「あなた様のお優しさに、由梨音の魂は救われましてござります。もし許されるのなら、最後に一つ、お願いをしてもようござりましょうか」
「ゆうてみよ」
「………笛の音を、お聴きしとうござります」
博雅は静かに頷き、葉二を取り出した。月光に誘われるように、涼やかな音が夜気に滑り出す。
由梨音が仄かに笑んだ。
「―――お願いいたします、晴明どの」
「よいのだな」
「はい」
再び、深々と頭を下げた。晴明が口の中で呪を唱え、右手の人差し指と中指を、由梨音の頭に置いた。
由梨音はゆっくり、ゆっくりと目を閉じた。
夜気に満ちた笛の音に誘われるように、
は目を覚ました。
「……博雅さまの笛の音だ」
「
?」
「………はい」
ゆっくりと、体を起こす。節々が痛む。ついでに、体も重かった。
「どこか痛い所はあるかい」
博雅が笛をしまい、心配そうに顔をのぞき込んだ。
「…とても、体が痛いです。頭も」
そして、心も。
最後は口に出して言わなかった。
彼女が言い遺した言葉に、自然と
の双眸から涙が溢れた。
「晴明さま…ごめんなさい」
溢れる涙を、無造作にごしごしと、手の甲でぬぐう。
止まらない涙に、それでも声は気丈に、
は口を開く。
「どうして坊が謝るのだい?」
「…由梨音さんが、そう言ってたんです。何度も。何度も。それに、」
愛しい、とも。
伝えてはいけない気がして、
は口をつぐんだ。
由梨音は一度、播磨の国に訪れた晴明に会ったことがあった。晴明がそれを覚えているかは分からない。しかし、由梨音は覚えていた。そして、ずっと心に灯っていた小さな想いがあった。
いつしか形を変えたそれは、最後はとても澄んだ形に戻っていたように思う。
「ありがとうございました。晴明さま、博雅さま……」
自分が言っているのか、彼女が言っているのか、
には分からなくなっていた。
博雅はただ、
の頭をゆっくりと撫ぜ続けた。
後日、人をやって、由梨音の遺体は丁重に葬られた。
2010/03/19