ただ闇が、広がっている。
都である。
大路にあふれているはずの人は、いない。人ひとり、見当たらない。
屋敷の灯りも、どこにもない。


夜では、ない。


ここは本当に都なのか。
それすらも分からない。

目の前に広がる景色に怖くなって、は声を上げる。



―――嫌だ、怖い。怖い。怖い…、怖い!



しかし声は出てこない。
いくら息を吸っても、いくら大きく口を開けても、何の音もの耳には届かない。
耐えられなくなって震える自分の両の手を見つめる。

そこでは気がつくのである。

あるはずの手が、ない。自分の腕で体を抱くように動かしても、その感覚すらない。



自分が、ない











無音世界 おとなきせかい














まただ。
また、知らない内に、知らない場所に立っている。
意識ははっきりとしない。ぼうっと突っ立って景色を眺め、はただ、恐怖に凍える意識に抗う。

こんなことが何度も起きている。
知らない内に、変な場所に何も出来ずに立っている夢を見ることが、何度も。
昼間は夢の中のことは、全く覚えていない。
しかし夜、同じ夢を見る度に、は思うのである。

―――ああ、またか。また同じ夢の中へ来てしまった。

どこへも行けない。自身の意思で動けないのである。
かと思えば、急に景色が変わり別の場所に立っている。
いつでも共通しているのは、決まって人っ子ひとり見当たらないということ。
動物も、なにもいない。
音もない。
無音の世界で、都だけが物言わず、静かに佇んでいる。
声は出ない。息が出来ているかすらも曖昧である。
手を、腕を、足を、頭を、眼を、体のいかなる場所を動かそうとしても動かない。
正確には、存在していない(、、、、、、、)ようであった。動かせようはずもない。

これは、夢だ。それを強く意識する。
しかし、出来ないのである。

なるべく何も考えないようにして、だから、は努めて無意識であろうとする。
そうでなければ、この恐怖に押しつぶされてしまいそうだからである。
ひたすら続くその世界で、はただ、怯えていた。




















「こんなところで何をしている」

無音の世界に飛び込んで来た音に、は曖昧な意識を振り向かせた。
体があれば驚いて飛び跳ねる所である。
いつの間にか、景色が変わっていた。別の場所である。

その景色の中に、人が、立っている。

この夢の世界で初めての人である。
しかも、声をかけて来た。
翁である。
ぼうぼうとした髪、黄ばんだ歯、煤けた顔。両の眼だけが、烱々と光っている。

は言われたことの意味が分からず、首を傾げた。
何も答えないでいると、翁は、面白がるようにもう一度、何をしている、と問うた。

―――いえ何も、

答えたつもりが、声は音にはならなかった。
しかし翁は意図を理解したように、にたり、と嗤った。

「知らぬ間にここに居たと申すか」

かか、と翁は嗤う。
それから、煤けた顔を少しさすって、「さてどうしたものか」とつぶやいた。

「そろそろよい酒が飲みたいと思うておった所だしなぁ」

そのような事を言う。

「どれ」

ふう、と翁は、に向けて息を吹きかけた。
翁はの傍近くにいるわけではない。
翁の息が、特別強いわけでもない。
しかし、翁の息に、は瞬く間に飛ばされていた。

―――わあ!

あげた声も、音にはならなかった。

目を瞑る。景色が高速で目の前をいくつもいくつも、流れていった。
目を開ける。そこは、また、知らない場所であった。
あの翁に、どこか別の場所へ飛ばされてしまったか。
おかしな夢である。
そして、おかしな場所へ来た。
川べりである。
暗闇であることは変わらない。無音であることもまた、変わらない。
しかしここでは、小さな蛍のような光が細かく明滅して、いくつも浮かんでいる。
普段のであれば、触ってみようと手を伸ばすであろう。
それも出来なかった。
ふうわり揺れながら浮かんでいくそれらを、ただ、眺める。

「おまえ、か」

視界に飛び込んできたものは、人型をしていた。
人ではない。
異国の服を着ている。髪は見たことのない赤褐色。目は猫の目のように、瞳孔が縦に裂けている。真紅の眼が、ひたと、を捕らえた。長い牙が口からのぞき、腕と足はうろこで覆われている。
川にかかるあまり大きくない橋の下で、仰向けになって寝そべっている。足を折り曲げて組み、腕も頭の裏で組んで、草原の上でくつろいでいたようである。
が現れたことに驚きはない。しかし、怪訝な表情を作っている。

不思議な存在の問いかけに、は意識で頷いた。

「ちっ」

彼の思惑が当たったことが気に入らないのか、あるいはが“”であることにか。頭の後ろで組んでいた腕を解いた。嫌そうに舌打ちをする。

「おまえ、なぜ帰らぬ」

―――帰る?

「…。いい。おまえに聞いても意味が無い」

―――?

「そうか、あの爺(じじい)か」

彼は何かに気がついたように、をじっと見つめ、言った。
納得したように、溜息をつく。

「主(あるじ)に知らせる。ここから動くな」

言うと、小さな白い鳥のようなものを呼び寄せて何か呟く。
すぐにその白いものは飛び立っていった。

「なまじ力があるから、そういうことになるのだ」

白いものを見送って、彼は振り向いた。

―――貴方は?

「焔覺(えんがく)。故あって晴明様に仕える者だ」

―――晴明さま……

ぽつり、つぶやく。
もう随分長い間、その名を聞いていなかったような、懐かしさがある。
ないはずの胸が、少し、暖かくなったような気がした。

「案ずるな。すぐに博雅と共においでになる」

―――ここに?

「そうだ」

夕時にこの橋を博雅が渡ったことを晴明に伝えたのは、他ならぬ焔覺である。

―――博雅さま……も?

「ああ」

―――これは、夢ではないの?

「そのようなものだと思っておけばいい。只人はここには来ない」

―――…?

!」

声に振り向く。晴明と博雅、青虫が駆けて来るところだった。

―――晴明さま!博雅さま!

なぜか、博雅の腕には、(、、)が抱えられていた。
記憶にある自分よりも痩せている。眼をつむって、動かない。

坊、よかった」

晴明がそう言って、博雅に“”をここに下ろすように言った。

?ここにおるのか?」

―――博雅さま、はここにいます!

博雅は晴明が見ている方を見て、?と問いかける。
しかし、その目はを捉えていない。

「ああ、いる。見えるようにしてやることも出来るが、今は時間がない。少し待て」

―――晴明さま?

「坊、こちらへおいで」

―――?

は自身の意思で動けない。
しかし、晴明が手を差し伸べるとの意識は、す、とそちらへ寄っていった。
晴明が口の中で、短く呪を唱える。

がくん、急に体が落ちた。

「あ、ぐ……」

目を開く(、、、、)と、そこには先程とは同じ風景が広がっていた。
晴明と博雅、青虫がを覗き込んでいる。
だが、焔覺がいない。先程あった蛍のような光も、なくなっていた。

、眼が覚めたか」
「博雅さま………。が、見えますか?」
「ああ、見えるとも」

博雅が大きく頷いた。

「わたし……どうなったんでしょう?」

身体が随分と重い。まるで鉛を詰め込んだようであった。
身体がある(、、、、、)といういうことは、これほど大変なものであったか。
はそれでも、上半身を起こした。青虫が横に寄り添う。
晴明はもう一度、今度は生身(、、)のの額に、人差し指と中指を揃えて添えて、口の中で呪を唱えた。

「魂魄が抜けてしまったのだよ、坊」

の額が仄かに光り、すぐに消える。
それを見届けてから、晴明が口を開いた。

「魂魄…?」
「そうだ。…坊、まだ早い気もするが、これから、様々のものを学ばなければいけないよ」
「様々のもの…」
「己で己を、守れるように」










手を借りながら、は自分の足で歩いた。なんとか屋敷へ帰ってくる。
屋敷には、誰もいないはずであるのに、小さな明かりが漏れていた。
いつも晴明と博雅が座っている濡縁に、が夢の中で見た翁が寝そべっていた。まるで自分の家のように、身体の横を下にして、庭を眺めている。
八夜はその側の縁の下で丸くなっていた。すぐにのもとへ駆け寄って来る。
翁は晴明たちを認めると、にぃ、と黄色い歯を見せて、嗤った。

「おう、晴明」
「道満様」
「久方ぶりに、うまい酒が飲みとうなった」
「はい」

青虫が、そそくさと奥へと消えた。それを見て道満は身体を起こす。
晴明は、いつものあるかなしかの笑みを浮かべて、

「ありがとうござりました」

と言った。

「なんの」

晴明と、蘆屋道満が、わけ知ったふうに言葉を交わす。
博雅は、それを首を傾げて聞いている。

「あの、あなたは…?」

は、夢の中で見た翁に声をかけた。
今考えてみれば、あの翁の息に吹き飛ばされて、焔覺のいる川べりまで来られたのである。意図して、そうしたようにしか考えられない。だとするならば、この翁はが身体に帰る(、、)手助けをしてくれたのであろう。

「蘆屋道満じゃ。陰陽師の端くれよ。童(わっぱ)、もうするなよ」
「は…はい……、…?」

道満の言わんとすることは、なんとなく、分かる。
しかし、何がどうなっていたのか、どうすればいいのか、分からない。
心配するな、とでも言うように、晴明がの頭に、ぽん、と手を乗せた。

「坊、もう休みなさい。仔細は、また今度だ」
「…はい。あの、博雅さま、道満さま、ありがとうございました」

博雅と道満、それぞれに頭を下げて礼を言う。
博雅はまだ心配そうな顔であったが、一つ頷いて、よく休むんだぞ、と言った。
は晴明に連れられて房(へや)に入り、式神が用意していた褥に入る。
房には不思議な香りのする香が焚かれていた。

「さあ、眼を瞑って」
「…はい。あの…でも…、その………晴明さま」
「どうした、坊」
「……また……、きっと、また、怖い夢を見ます。また……ご迷惑をかけるかもしれません」

これまでは、夢から覚めてしまえば、夢のことは覚えていなかった。
今は違う。先程までのことは、しっかりと覚えている。
だから、は眼を瞑れないのである。
晴明はひとつ、頷いた。

「眠ってしまうのが怖いのだね。大丈夫。今日はもう、こんなことにはならないさ。この香は、そのための香だ。心配せずに、休むのだよ」
「…、はい。分かりました」

重たい身体で、少しだけ、は笑んだ。
八夜がいるから大丈夫です、が言うと晴明はいつものあるか無しかの笑みではなく、ふうわりと笑んだ。

「おやすみ」

音もなく晴明は房を辞した。
微かに庭の方から漏れる明かりが見える。
3人はまた、これから飲むのであろう。









しばらくは眠れなかったが、やがて夜気に満ちた優しい笛の音に誘われて、ゆっくり、ゆっくり、深い眠りの中へと落ちていった。




夢は見なかった。

















2010/10/03

焔覺:勝手に名前つけてすみません。妄想の産物です。

都にて 07