「晴明さまのお母様は、狐さまなんですか?」
そう無邪気に尋ねられた晴明は、いつものあるかなしかの笑みではなく、ふわりと口元を緩めて笑った。
「さて、どうかなあ」
「――、あ、すみません!ブシツケなことをお聞きしたでしょうか?!」
どうやら最近“不躾”という言葉を覚えたらしい。まだ違和感の拭えない
の言葉に、晴明は暖かな笑みを深めた。
燐光の音を奏でること
りんこうのねをかなでること
ひとしきり笑った博雅は、笑ったせいで乾いた喉を潤すように、酒をぐいと煽った。
「なんと、
にかかれば、宮中のおどろおどろしい噂もこの通り、か」
まだくすくすと笑う博雅に萩が酒をつぎ足す。
宮中では確かに、安倍晴明の母は狐である、といった、真しやかな噂がある。それをどこからか聴きつけたのか、
は臆面もなく、本人にそう尋ねてみせた。
さすがに晴明も、くつり、と笑った。
「童(わらわ)というのは、本当に、奥ゆかしき生き物だな」
「く、くく、全くだなぁ、晴明よ」
叢(くさむら)から響く秋の虫の声が、博雅の笑い声と混ざって、庭に広がった。
まだ陽が高い所にある内から、宴は始まっていた。そろそろ辺りも夕焼けに染まり初めた頃、晴明の言葉に博雅は多いに愉快そうに笑っていた。
「そういえば、その
はどうしたのだ、晴明」
今日は来てから、まだ一度も顔を見ていない。
「坊なら、もうすぐ――、ああ、帰って来たようだぞ」
晴明が門へつながる庭を見つめるので、博雅もつられて視線をやった。
ほてほて、と軽い足音に続いて、
「あ、博雅さまだ!こんにちは!」
が走って来た。博雅を見つけて、ひどく嬉しそうに、ぱ、と顔を輝かせた。
を追うように走っていた小さな黒い猫が、横に並ぶ。八夜である。そろそろ成獣に近いと見えて、最近では尻尾がはっきりと二又に別れている。成獣とは言っても、八夜の体は普通の猫と比べると、とても小さい。
は脇に竹で編んだ籠をかかえており、入っている草のようなものがちらりと見える。
「
、おかえり。ちょうど今、
の話をしていたのだよ」
「わたしのお話ですか?」
は、きょとん、とした目をした。
博雅は話題を変えるように一つ、咳払いをする。
「いや、いいんだよ。ところで、
、どこに行っていたんだい?」
「薬草を取りに行っていたんです。ほら!」
博雅が尋ねると、
はそう言って、籠を傾けてみせる。
なるほど、確かに薬草のようであった。
「呑天さんと一緒に行ったんですけど、私、どれがその薬草か分からなくって」
「ちゃんと見つけられたかい、坊?」
「はい。と言っても、草を摘む度に呑天さんにこれで合ってるのか見てもらったので、こんな時間になっちゃったんですけど」
呑天はのっそりとした動きで
の後ろからやって来て、晴明と博雅に向かって軽く頭を下げる。やはりのっそりとした動きで、叢の中へ消えた。
「あ、呑天さん、ありがとうございました」
それに対しての反応はない。
相変わらず呑天の態度は淡白に見えるが、存外に親切であることは、
とて承知の上である。
「坊、それを洗って泥を落としておいてくれるかい」
「分かりました!」
元気良く返事をすると、八夜とともにまた、ほてほてと駆けて土間に入っていった。
「なにに使うのだ?」
「それだがな、博雅よ。今日の昼前に、俊撰という坊主が来たのだ」
「俊撰というと、西寺のか」
「そうだ」
2ヶ月前から、西寺で怪異が起こるのだという。その怪異のあらましを、いつものように、晴明はあるかなしかの笑みで、博雅に語って聞かせた。
大変困っているので、力を貸してはもらえまいか、と使いとして来たのが俊撰であった。
思うところあって調べた所、どうやら薬草が必要であろう、ということになった。
晴明の屋敷の庭にも、さまざまの薬草が生えている。必要な薬草もあるのだが、しかし、今回は量が必要である。
「それで、
坊と呑天に、取りに行かせたのさ」
「晴明さま、一応水をきっておきました。もう少し乾燥させた方がよいでしょうか?」
「いや、これだけで充分だ。それに、もう発つからな」
晴明はそう言って立ち上がる。博雅もそれに続いて庭に降り立った。
既に辺りは、夜の帳が降りている。上弦の月が空で輝き、控え目に星々が瞬いている。
門の所まで出ると、すでに萩が牛車と共に待っていた。いつの間に、と
は思う。ついさっきまで萩は
と一緒に土間にいたのに。しかしこれもいつものことである。
萩に薬草が入った籠を渡し、
は門の所まで下がった。
「では行ってくるよ」
「はい。いってらっしゃいませ、晴明さま、博雅さま」
今日は萩だけでよいというので、
は屋敷で留守番である。
「ああ、
坊や」
「はい」
牛車に乗り込む前に、晴明が何か思いついたように、振り返った。
「今日はおそらく長くはかかるまい。出来れば、起きて待っていなさい」
晴明がこういう指示をするのは珍しい。何も言わないか、先に休んでいてもよい、と言うのが常である。
不思議に思いつつも、はい、と
が言うと、それが顔に出たのであろう。晴明はやはり仄かに微笑して、
「面白いものが見られるかもしれぬからな」
と言った。
まだ真夜中には早い時間。
することもなく、与えられた部屋で空を見上げていた。膝の上でくつろいでいる八夜の、漆黒の毛並みを、ゆっくりと撫ぜてやる。
晴明と博雅が出かけてから、月は幾分か傾きを変えている。
は、それをなんとはなしに、ぼんやりと眺めている。
「
坊や」
晴明の声である。声は門の方からだ。
二人が帰って来たのであろう。確かに、いつもに比べると随分早い。
は八夜を床に下ろしてさっと立ち上がった。これだけ早ければ、また、二人は飲み直すに違いないのだ。その準備をしなければならない。
「庭に出ておいで、坊」
とりあえず出迎えをと思って簀子を歩く。そこへ、もう一度晴明の声がかかった。何か急ぎの用だろうか、と駆け足になる。いつもの庭に、晴明と博雅は立っていた。
「おいで」
言われた通りに草鞋を履いて庭に出る。
晴明は空を見上げている。博雅も空を見上げているが、博雅はその手に笛を持ち、少し怪訝そうな顔をしていた。
「どうされたんですか?」
「そうだぞ、晴明。何が起こるのだ」
どうやら博雅も、まだ何も聞かされていないらしい。
「まあ、見ていろよ、博雅。坊も、酒の用意は後でよい。こちらで見ていてごらん」
そう言ったきり、続きを言おうとしない。
もつられて、晴明の横に来て空を見上げる。先程部屋で見ていたのと変わらぬ景色が、目の前に広がっている。
そうして、待つことしばし。
しゃらん
聞こえたのは楽の音のようであった。鈴の音に近いが、しかしそれとは違うと分かる。このような音は聴いたことがなかった。
「なんだろう……?綺麗な、音」
しゃらん
しゃらん
音が空から降ってくるようであった。どこから聞こえて来るのかと空を探して見回す。目の端に白い何かが映った。
「あっ!」
鳥のようである。
しかし、それにしては、大きい。
翼も、どこか形が違う。蝶の羽の形のように見えなくもないが、胴は鳥のそれに近い。
長い美しい尾をひいて、大きな翼を広げ、それは飛んでいる。
白い、しかし水色の燐光を帯びたそれは、月と星の光の中にあって、一際輝いているようであった。
その鳥のごときものたちは列を成し、群になって、飛んでいく。ちょうど西寺の方角から飛んできているようである。安倍晴明邸の上空を通り、反対の方向へと飛び去って行く。
その内、何かが空から降りてきた。
「なにか降ってる!晴明さま、あれ、なんでしょう?」
「掴まえてみなさい」
鳥のごときものが飛んだ軌跡を追うように、それらは落ちているようであった。
鳥の羽のように見える。しかし、晴明と博雅の身長くらいまで降りてきたそれをじっと見てみれば、花びらのような形をしていた。白い羽毛が花びらの形をとっているようである。
紙片が落ちるときのように、す、す、と不規則な軌道で落ちてくるそれを、
は手のひらを合わせて、水を掬うようにして、羽を掬った。
落ちてきたそれは、
の手のひらに触れると、一瞬仄かに水色の燐光を放ち、ぱりん、と小さな音を立てて粉々に砕け散った。
「わぁ!」
その音がまた何とも、澄んだせせらぎのような、輝く朝陽のような、儚げで美しい音色であった。
「晴明さま、博雅さま、聞こえましたか!なんて美しいんでしょう!」
そう言ってはしゃぐ。
ぱりん
ちりん
ふわりさらりと落ちるそれは、博雅の肩や晴明の手のひらなど、何かにあたると、一瞬燐光を放ち、ぱりん、と砕ける。細かい粒子のようになって、地面にゆっくりと落ちてゆく。地面に落ちた砂ほどに細かい粒も、仄かに光っている。
それが次から次へと、降ってくる。
「きれい……」
「まこと、美しい――」
や博雅が、口々に感嘆の声を上げる。
そのうち博雅は、降りしきる燐光のなか、笛を吹き始めた。
葉二(はふたつ)の奏でる音は、今や辺り一面でささやくように鳴る燐光の弾ける音と、絶妙な具合に調和して、空気を震わせている。
それに酔ったように、晴明も、
も、うっそりと空を見つめていた。
鳥のごときものが見えなくなってからも、しばらくその白いものは降り注いでいた。月の光の中に、淡い燐光と笛の音色が、さらさらと流れていた。
翌朝起きてみると、昨晩、そこら中で瞬いていた結晶は全て、どこかへ消えていた。
それだけではなく、あれだけ大量の鳥のごときものが飛んでいたというのに、安倍晴明邸の近隣に住む人でさえ、それを見たという者は、誰一人としていなかった。
ただ、昨晩は、美しい楽の音色が聞こえていたような気がする、と、人は口々に噂したという。
2010/02/22