闇
やみ <後>
「あれ…ここ、どこ?」
あたり一面の真暗闇の中で、
はぽつりとつぶやいた。
声はあたりに広がらず、口から出た矢先に何かに呑み込まれるように、消える。
「晴明さま?」
ここは屋敷ではないのか。
はて、自分は何をしていたろうか。
使いに出たところまでは覚えている。たしか、橘斉彬(なりあきら)が晴明の屋敷を尋ねてきたので、そのあと、晴明がしたためた文を橘斉彬邸まで届けに行ったのである。
文は無事届けたはずだ。
橘邸を出る頃は、そろそろ陽が傾こうかという頃であった。急いで帰らねば、と思ったのを覚えている。そのあと、自分はどうしたろうか。
が考えても、答えは出そうにない。
「(陰態(いんたい)に迷い込んでしまったのかな…)」
以前、博雅から、晴明と共に行った陰態について、話を聞かされたことがあった。
土(と)の精のようなものに会ったり、百鬼夜行を見たという、この世とは別の世界のような場所でのことである。
そのときは、声を出してはいけないという晴明の言いつけをつい破り、陰態に住むものに見つかって、式神の綾女をおとりにして逃げ帰った、と、博雅は教えてくれた。
女の形に空白のある、屏風の謎は、そうやって解かれた。
ふ、と目の前を横切ったものがあった。
それは半蔀のごときものであったが、目と耳がついていた。
「(あれ、目と耳がついてるのって…)」
蔀だったかな。
思っていると、次に見えたものは、
「(蝋燭?)」
しかし、こちらは一本足で、ぴょんぴょんと跳ねている。
次から次へと、色んなものが目の前を通り過ぎる。鬼のごときものや、いくつかの動物が混ざったようなもの、中には人の目や、手足のごときものまであった。ときに集団で練り歩き、ときにふわふわと、異形のものたちが流れていく。
「(ここは、かなりまずいんじゃあ…)」
ここが陰態であるとするなら。
確か、声を出したりすると、
「(たちまち、とりて喰われてしまう…)」
さっき、何も知らずに声を出してしまったけれど、大丈夫だろうか。左右に首を振って、あたりを見回す。
「(大丈夫…かな……)」
この空間の空気を吸っていると、胸の辺りが少しずつ苦しくなるように思われた。これはきっと瘴気だ、と頭で警鐘が鳴る。
どうにかして出られはしないかと辺り見渡し、そっと足を踏み出す。浮いているようにも思われるのに、一応、足を出せば歩いている感覚はある。数歩歩くと、遠くで、おうい、と声がした。男の声である。
びくっと肩を震わして、声のした方を向くと、足をそんなに動かしていないのに、男がこちらに向かってするすると寄ってくる。
ずんぐりむっくりとした、髪の薄い男。太刀を左腰に差した、偉丈夫である。
「人である身が、何故、かような場所にいる」
の前に来ると、そう問うた。
話に聞いたとおりである。
彼は何の精かは分からぬが、人ではないことは間違いない。
ここで言葉を返してしまってよいものか。
は、逡巡した。
「聴こえておらんのか。人である身が、何故、いるのだ」
業を煮やしたように、男は、再度問うてくる。
同時に、左右の目がつりあがってゆく。
「え、えと、薬草を、頂きまして…あの、知人にですね。わたし、病気なもので。ハシリドコロの煎じたものを、このぐらいの碗に3杯ほどもらいました。そうしたら、なんか、いつの間にやらこんなところにですね…」
「ほう…ハシリドコロをなあ」
咄嗟に、博雅から聞いた話を、そのまま口にしていた。
すると、つりあがっていた目は治まって、男はふうむ、と手を顎にあてて考えだした。
「では、お前ではないやもしれぬなあ…」
ぶつぶつと言いながら、男は去っていった。
「(た、助かった…)」
ほ、と胸を撫で下ろすのもつかの間、
「のう…」
次は、老婆がやってきた。
腰の曲がった、老婆である。いくつも葉を付けた杖を持った、皺で目が覆い隠されそうな、妙齢の老婆である。するすると、寄ってくる。
「人の身でありながら、何故、かような所に留まっておりまするのや」
そうして、先程と似たような問答を続けると、老婆は、
ふう
と
に息を吹きかけた。
雨が降り出したときの、土とも雨とも取れぬような匂いが、した。
「(もしかしたら、水の精なのかな)」
が声に出さずにそう思っていると、老婆が、にやりと口の端を持ち上げる。それから、ぼそぼそと、枯れた笑い声をもらした。
「やや。よかったのう、坊や。もう少しの、辛抱じゃえ」
言って、老婆も去ってゆく。
「(精って、意外にいいひと…?)」
辺りの暗闇は変わらない。
時折流れてくる青い炎などを避けたりしながら、歩くとはなしに、移動する。
もしかしたら、どこからか出られたりしないだろうかと思ったのだが、いくら歩いても似たような景色ばかりである。
どちらにせよ、何かの理由で、陰態に来てしまったことは間違いなさそうであった。
おおい、と声を出して助けを呼ぶわけにもゆかない。
少しずつ息苦しさも増している。それに比例して大きくなる寂しさを、なんとか誤魔化そうと、面白いことを頭に思い浮かべた。
博雅に連れて行ってもらった市や、晴明と式神たちとした月見、何某かの花が咲くと縁側で催す小さな宴。
思いだすたび、逆に、それらがひどく愛おしく懐かしく思えてくる。
「(晴明さま…博雅さま…八夜…)」
心の中で呟いた。
「(あっ)」
さ、と目の前を通り過ぎた、児(ちご)のごときものと、目が合った。出そうになる声を必死でこらえる。
児の頭だけが宙に浮いて、頭の半分は、頭蓋が見えている。片方の目と、むき出しの眼球が、ねっとりと
を見つめる。品定めするように視線を逸らさず、少しずつ、じわ、じわ、と近寄ってくる。
何かもの言いたげな目は、充血していて、狂っている。
その児のごときものが寄るにつれて、
は反対のほうに後ずさりを始めた。後退すれば、児はそれだけ寄ってきて、逆に距離はにじりにじりと近づいていく。
顔面蒼白にして、いよいよ逃げ出そうとして身体を反転させたとき、何かにぶつかった。
「わっ!」
声をあげてしまってから、しまった、と思った。
「あれえ、ここに人の身のありつるよ」
それは、唐衣裳を身にまとった、女子であった。しかし、女子と思われたものは、見ている内にその形を変えていく。あるいは男の姿に。あるいは動物のごときもの。そして、鬼の形相になった。
「うまそうなあ」
みるみる内に口が裂け、角がのび、裂けた皮膚から血がぷつり、と浮き上がる。
鬼の声を聞きつけて、
「あれえ」
「あらあ」
「うまそうな人の子じゃわいなあ」
「喰ろうてやるわ」
わらわらと集まってくるものがある。
まさしく、百鬼夜行の、列を成しているものたちである。
わ、と
は逃げ出した。
後から後から、異形のものたちがざわざわと追って来る。
「あれはわしのものじゃ」
「いいや、あれはわたしのものぞ。わたしが見つけた」
「早いもの勝ちぞ」
「そうれ、喰ろうてしまえ」
数がどんどん増え、そして、近づいてくる。
いよいよその手が
に届こうかというとき、
「が」
「わ」
「何者ぞ」
まばゆいものが一瞬ひるがえり、異形の者たちをはらいのけた。
驚いて見ている
の前で、まばゆいものと見えたものは、黒い霧となって集まり、猫の形に凝っていった。
「八夜!?」
形を成したのは、黒い毛に覆われた、八夜であった。
「本当に、八夜なの!?」
驚いた
の声に、八夜は金緑色の双眸を細めて、
なあ
と鳴いた。
異形の者たちの群れと
の間に割って入ったのは、間違いなく八夜であった。
がどうして、と言おうと口を開きかけたが、八夜はそれを言わせなかった。さ、と
の首の襟ぐりをくわえて、走り出したのである。
「わ、わ、ちょ、八夜!どこに…!?」
浮いているも同然の空間で、小さな体の八夜に、すいすいと引っ張られていく。
の足を掴もうとした、目のたくさんついた鬼の手が、空を掴む。
端から見れば異様な光景に見えるであろう。
「おのれえ」
「猫又じゃ」
「猫又ごと喰ろうてしまえ」
恨み言が聞こえてきたが、すでにそれが小さくなろうとしていた。
八夜は、速かった。ぐんぐんと群れとの距離があく。
「八夜って、」
猫又なの?
そう言おうとして、突然横から滑り出た妖を視認して「危ない!」、
は叫んでいた。
八夜に噛み付こうとしていた一つ目玉の赤ん坊の前に咄嗟に飛び出す。
がぶり
「っ……!こ、の…!」
左の二の腕に噛み付いた頭を手を振って振り落とす。
そんなに力があるとは思えないのに、歯が肉に食い込んだ感覚に顔をしかめる。なんて力をしているんだろう。なんとか振りほどいたものの、尚も歯をカチカチと鳴らして飛びかかろうとする妖に背筋が凍る。
「わ、」
ぐん、首を急に後ろに引っ張られたと思った次には身体に衝撃が走る。硬い何か、体の側面を壁に思い切りぶつけたような感覚があった。
耳に届くのは八夜の砂利を踏む音で、そこでやっと、自分が道の上に不時着したのだと気が付いた。
闇夜に支配された、しかし、もとの京の都であった。
「あれ…?戻って、来れたんだ…」
「おうい」
「おうい」
辻に降り立った
が首をめぐらすと、松明が2つ近づいてくる。よくよく見れば、晴明に博雅、蜜虫である。
途端に緊張がほぐれ、目からは涙が溢れ出した。
「晴明さまあ!」
ああん
ああん
の傍へ駆け寄って、大声を上げて泣く小さな体を晴明はしっかりと抱きとめた。
「よしよし、怖かったろう。もう大丈夫だ」
「
、無事でよかった」
隣では、なあ、と八夜が目を細めて鳴いた。
4人と一匹が共に屋敷に帰ってから、
は熱を出した。瘴気にあてられたのである。加えて、血はそれほど出てはいないが、妖に噛まれた箇所はしっかりと歯型が残り、紫色に膨れ上がって腕を圧迫し、
を苦しめた。
今は晴明の処置の甲斐あって小康状態を保っている。
4、5日熱にうなされれば良くなるということであったが、小さな身体で1週間近く熱に耐えるのはかなり堪えたようだ。
よくよく見てみれば、
の狩衣の内側に縫いつけられていた札が、焼け焦げて炭になっていた。これがなければ、これくらいでは済まされなかったであろうよ、と晴明は言った。
がうなされている間中、八夜はずっと
の側についていた。時折汗をかいたりするとそれを舐めとってやったり、
が苦しそうに呻くと晴明を呼びに行ったりした。
それからしばらくは舎人の仕事を休んでいた
だが、3週間もすれば全快し、明るい笑顔が屋敷に戻ってきた。
事件以後、
が夜泣き出すと、決まって八夜が側にいるようになった。
八夜が側にいると落ち着くのか、
は夜、屋敷をうろうろすることもなくなり、やがて夜泣きすることもなくなっていった。
2010/02/19
壁に耳アリ障子にメアリー。