闇
やみ <前>
が晴明の屋敷にやって来て、様々のことが変わった。
それまで人の気配のあるのかないのか分からなかった屋敷が、新しい花が咲いたかのように活気が出てきた。さながら、“普通の”屋敷のようである。
使いを出すときに、人をやるようになった。不思議な文や声だった晴明の使いが、
になったのだ。
牛を引くのも、
である。夜は今までと同じように式神にやらせたりするが、時折、式神とともに付いてくることもある。
は孤児(みなしご)である。
父はいなかった。
母は、
が幼いときに死んだ。
故あって、母には親戚縁者がない。4歳で母を亡くしてから、ほんとうの、天涯孤独であった。
4歳の幼子がこの京の都で今まで生きてこれたのは、奇跡と言っていい。
晴明の屋敷で舎人をしながら暮らす、となったまではよかった。
しかし、家事や使いなどをするはずの
は、その仕方から学ばなければならなかった。
見様見真似である。蜜虫や呑天、季節ごとの式がやるようなことを、うしろをついてまわって覚えた。
式神は嫌な顔はしなかったが、丁寧に教えてくれることもない。しかし興味深々に
が尋ねれば質問にはちゃんと答えてくれるので、いい先生になった。
晴明も急かすこともどやすこともなく、せっせと働く
を長い目で見ていた。
「母様(はわさま)!」
夜の闇に木霊したのは、10になるかならぬかの、少女の声であった。何事も無く終えようとしていた1日の、闇深まる刻限である。
屋敷には博雅もいなければ、式神も、蜜虫しか姿を見せていない。主の晴明も、すでに褥(しとね)に入っている。
少女の声に続いて、はたはたと、廊下を駆ける音が続く。
「
、お待ち」
蜜虫の声が足音もなく追いかけていく。声は聴こえないが、呑天も動き出した気配があった。
はどこへ行くとはなしに、回廊を走っている。行き止ると素足のままで庭に飛び下りて、また駆けている。薄手の着物一枚の褥から抜けてきたままの格好は、星空の下にひどく冷える。
「どうしたのだ」
その頃になって、ようやく晴明が起きてきた。
目が醒めていないわけではなかった。ただ、気配を伺っていたのである。
いよいよ
が門に近づいていくので回廊へ姿を現した。
「
が、また…!」
蜜虫が言ったそばから門の方に駆け寄る
を見て、晴明は口の中で呪を唱えた。
「きゃん」
は見えない壁に阻まれたように、門に行き着く前ではじき返された。小さな体が地面に転がる。
それでも、
はあきらめなかった。
透明な壁のごときものを、両の手を拳にして、叩く。
「母様ぁ!」
悲痛な叫びが冷えた空気を揺らした。
追いついた蜜虫が、
を後から抱きすくめる。抵抗もせずに体から力が抜けて、
は蜜虫に抱きついた。
「あああああん」
わんわんと泣く
の背を、まるで赤子をあやすように蜜虫の手がなぜる。
ああん
ああん
はつかれて眠ってしまうまで泣き続ける。
そんな夜が、幾日か日を置いて、ある。
今まで生きていくので精一杯であったのが、安定した暮らしと、闇夜に怯えずにすむ寝床を得て、安堵が生まれた。
時間にすら余裕も見えて、ふとしたときに、母や昔のことを思い出すようであった。
その度に、
は褥の中で涙をこぼした。あるいは、簀子を歩きまわってうずくまって泣いた。またあるときは、晴明の部屋の前で静かに座して無言で涙を流していた。
昼間はしっかりと働くし、仕事の覚えは早くも遅くもないが、迷惑はかけない。昼間は常と変わらず元気な顔で笑う。使いもするし、博雅に会えば犬がしっぽを振るかのごとくはしゃいでいる。
しかし、夜寝る前になると、まるで発作を起こすように涙をこぼすのである。
普段は目立たない、しかし確かに
の心に住まう大きな闇を、式神たちも、晴明でさえ、拭い去ることができないでいた。
*
うららかな昼下がり。
陽気はいいが、都の空はすこしけぶって霞んでいる。その薄く白い大気の中を、温かな陽が降りてくる。
「
坊や」
「はい、晴明さま」
台所仕事をこなしていると、晴明がふわりとやってきた。
急いで手を拭いて晴明のもとへ行くと、
「ついておいで」
言って、晴明は歩き出した。
水仕事のために紐で結っていた狩衣の裾もそのままに、
ははたはたと後ろをついていく。
晴明が向かったのは庭であった。よく、晴明と博雅が簀子に座して眺めている、あの庭である。
その雑多に見える花々の前に、ぽつんと黒い、小さな影があった。
「?」
よくよく見てみると、猫である。金緑色の双眸をした小さな猫だ。
「わあ、猫ですね!」
ぱあ、と顔がほころぶ。
ここ最近、夜に泣くことが多いので、目が心なしか腫れている。
その少し疲れた顔に喜色が浮かぶ。
「触ってもいいですか?」
「ああ、もちろん。これは坊が育てるのだよ。賀茂保憲(かものやすのり)さまからお預かりした大切な猫だから、死んでしまわないように、しっかりとね」
「はい、わかりました!名前はなんというんですか?」
抱き上げると、本当にそれはまだ小さい。
の小さな両の手で安々と持ち上げることが出来る。
「八夜(やつよ)、というそうだよ」
は雑用の傍ら、よく猫にかまうようになった。分からないことがあるたびに、蜜虫や呑天に、どうすればいいのか、聞いて回っている。
猫は最初は全く懐かず、よく
は庭や屋敷の中を探してまわった。屋敷の敷地内では見つからぬこともあったし、折角用意したごはんを、すっぽかされもした。
それでも一応、晴明の屋敷が住処であると認識しているらしく、ちゃんと帰っては来る。いつの間にか、屋敷でくつろいでいたりする。
時がたつにつれて少しではあるが、八夜のほうも
のほうも、慣れて来た。八夜の身体も幾分大きくなって、あともう少しで大人といったところである。大人と言っても、普通の猫よりも、八夜はだいぶ小柄であった。
最近では、名を呼ぶと、やっと
なあ
と、応えるようになった。
ちらりとこちらを向く。
けれどすぐに、ふいとどこかへ行ってしまう。
一緒に日向ぼっこをしたり、じゃれあったりもするが、やはりどこかそっけない。
「どうだね、八夜は」
「はい、とってもかわいいです!でもすぐにどこかに行っちゃうんですよ!」
笑ってそう言う
は、本当に楽しそうである。
それを、晴明もいつもの、あるかなしかの微笑で見ている。
世は、既に夏に向かっていた。雨の多い季節になり、これが明ければそろそろ本格的に夏になろうかという時期である。
事件が起きたのは、そんな折であった。
「晴明さま」
見れば、蜜虫が、端整な顔を心なしか不安の色に染め上げて立っている。
「
が、帰ってこないのです」
とうに陽は暮れている。
闇夜に染まった屋敷の中に、
の姿はなかった。
2010/02/11