桜に惹き止めらるること
さくらにひきとめらるること
春である。
都の至るところに、桜が咲いている。
屋敷の庭。
丘。
野。
山。
ところどころに見える、山の桃色を眺めながら、
は顔に笑みを浮かべた。
足取り軽く、歩く。
少し後方からは、博雅と、晴明が歩いてくる。
「坊。あまりはしゃいで、はぐれるでないよ」
「はい、晴明さま!」
はたまに、ふらりとどこかへ居なくなる。そして、はぐれました、とバツが悪そうな顔をして戻ってくる。
方向音痴なわけでも、都の地理に疎いわけでもないのに、たまにそういうことが起こる。
返事だけはよいが、しかし、それを理解しているかは怪しいところである。
博雅が苦いものを含めて笑う。
は重箱の入った風呂敷を抱えている。博雅が屋敷の者に作らせたもので、それを
が持っているのである。
あまりの天気の良さと、花見日和である。
が、是非花見に行こうと騒ぎ立て、根負けした晴明が博雅を呼んだのだ。
「近くに見事な桜があると聴く。折角だから、そこまでゆこうではないか」
そういうわけで、3人は連れ立って歩いてるのである。
博雅は供の者を連れていない。博雅は殿上人であるのに、よくそのようなことをする。
大路を東へ進み、春光院の辺りまできた。
「あの桜だ」
小高い丘の上、2本の大きな桜が、寄り添うように咲いている。
見れば、見事な桜である。
盛りを少し過ぎて、すでに少しずつ花は散っている。それがまた、雪の如く目に映り、なんとも言えない美しさであった。
そこで毛氈(もうせん)を広げて、晴明と博雅は酒を、
は甘酒を片手に、ほろほろと宴会を始めた。言葉少なの宴会である。
「きれいですねえ」
「まこと、うつくしい」
「桜は、咲いてるときは、ずっと咲いていてほしいと思いますよね。でも、散り始めても、それもまたいいな、なんて思っちゃうんですよね。さすがは桜、って感じがしちゃいます」
も、博雅も、ぽつりぽつり、思ったことを口にしてはうっとりと溜息をつく。
互いに一言ずつ言っては、そうだ、そうだ、と頷いている。
博雅のこういう、くせのようなつぶやきが、最近では
にもうつってしまったようであった。
晴明は、二人のささやきを酒の肴にするように、あるかなしかの笑みを、杯の酒とともに飲み込んでいる。
それが、日が傾くまで続いた。
昼前に屋敷を出て、幾分も過ぎ、その頃にはすでに箱の中の料理もない。
夜の帳が降りきってしまう頃にようやく、帰ろうか、ということになった。
「帰って、晴明の屋敷で飲み直そう」
博雅が言った。
二人が歩きだして、その後に
が続こうとしたときであった。
「あれ…?」
は首を傾げた。
ふと足を止める。妙な風がある。
桜の花びらが、それに乗って舞う。
まるで
の方に向かって風が吹いてくるようであった。
まるで
に向かって、行かないでと言っているようであった。
「早くおいで、
」
後で立ち止まっている
に、博雅が気が付いて声をかけた。
それでも
は、桜から吹いてくる風の方を向いて、ただ呆然と立ち尽くしている。
「おい、
や」
それでも、返事がない。
博雅がきびすを返して
へ歩み寄ろうとしたところで、引き止められた。
晴明が博雅を制したのである。
「どうした、晴明」
「まあ、待て」
常と変わらぬ声音であるが視線は
の方を向いていた。
晴明の視線の先で、
は、はらはらと涙をこぼしていた。
「…あれ?なん、だろ」
ぽつり。
ぽつり。
の口から、言葉がこぼれる。
「どうしたのだ」
晴明が歩み寄り、そっと尋ねた。
「分かりま、せん。なんか、でも…すごく…寂しい……きもち…………」
はらり。
はらり。
桜の花びらを追って、透明な雫が落ちる。
止まることを知らない。
「晴明さま…」
桜を見上げたまま、どこか遠くを見るような目で、
はぼんやりと言葉をつむぐ。
「なんだ」
「どうしてだろう……。わたし嬉しいんです。晴明さまと、博雅さまと、お花見に来られて、すごく幸せなんです。でも、なぜか、とても、淋しいんです……哀しい…」
雫が止まらない。
細い手の甲がいくらぬぐっても、袖が濡れても、桜色の花びらは、濡れて行く。
「淋しい……」
ついに膝を折って、うずくまる。
「そなたの父御(ててご)はもうここにはおらぬ。ここではない、浄土で、そなたの母御と一緒に待っているよ。さあ、あの光に向かって降りてゆきなさい。それが今、そなたのすべきことだ」
晴明が
の耳元でささやいた。
の体から力が抜けて、だらりと手が落ちる。
途端に、
を中心に桜の吹雪が渦を巻いて空高く舞い上がり、やがて、消えた。
意識を失った
を抱えた晴明に、博雅が歩み寄る。
雫のあとが幾筋も残った顔を覗き込んだ。
「今のは、
なのか」
「いや。この桜に宿っていた鬼のごときものが、憑いてしまったのだろう。どうやら、そういう体質(たち)のようだからな、
坊は」
「なんと!危ないではないか。なんとかならんのか」
「札は持たせてある」
「なに!?では、効かなかったということか」
この晴明の作った札が効かないというのは、信じ難いことであった。
しかし、晴明は首を微かに横に振る。
「
の中にも、淋しいと思う心があったということであろう。無意識の内に、鬼に同情をしたのかもしれん。自分から迎え入れたのでは、札は意味を成さぬ」
「――」
「ゆこうか。まだ、冷えるからな」
丘を降りたあたりに、いつの間にか、蜜虫が車とともに待っていた。
小さな
の体を晴明が抱え、気遣うように、丘をおり始めた。3人の後を、追うように桜の花が散っていた。
2010/02/09