夢に視つること ゆめにみつること <後>














「不思議だなあ、晴明よ」

言ったのは、博雅である。
晴明の屋敷。濡れ縁に座している。
庭では早くも夏の虫たちが声をあげて鳴いている。
空にはぽっかりと、真ん丸い月が浮かぶ。

「何がだ、博雅」

ちびちびと杯の酒を飲みながら、晴明と博雅は、あるとはなしに言葉を交わす。

「昨夜のことだよ。俺が実行(さねゆき)どのの屋敷に行っていたら、今頃どうなっていたであろうなあ」

しみじみとした声で言い、また少し酒を口に運ぶ。
おとといのことを、思い出していた。















「どうしてそのようなことを言う?」

泣き出したが落ち着くのを待って、博雅は改めてに問うた。

「分かりません」

は雫をまだ頬に残したまま首を振る。
うつむいた顔はよく見えないが、口を引き結んで、嗚咽をこらえているようであった。

「でも、怖いんです。博雅さまが、実行さまのお屋敷に行くのは、よくないことなんです」
「なぜそう思うのだ」
「分かりません」

何度問うても、ただ首を横に振るばかり。
ほとほと困り果てた。

「晴明、お前、何かにゆうたのか」
「ゆってないさ」
「では、お前はどう思う?」
「さてな」
「お前な」
「ふふん。そうだな、坊。こちらに来なさい」
「…はい」

膝で進んでが晴明の前に来ると、晴明は中指と人差し指をそろえて、の額に押し当てた。
口の中で小さく呪を唱える。

「あ…」

ふ、とは意識を失った。
ぐったりとするの体を晴明が抱える。

「お前、に何をしたのだ」

博雅が腰を半分あげて非難の声をあげた。
どこからともなく細面の女が出てきて、を抱え上げた。そのまま奥に消える。

「酷く混乱しているのさ、坊も。何がなにやら分かっておらぬ。朝からあのような調子だったからな。何か思うことでもあるのかと思うたが、そういうことであったか。まあ、今は、休むがよかろうよ」
「…」
「博雅」
「なんだ」
「明日は、実行どのの屋敷へはゆかぬ方がよいかもしれぬな」
「お前までそんなことをゆうか」

結局、博雅は実行の屋敷へは行かなかった。
博雅が慌てて晴明の屋敷にやって来たのは、歌合せがあった次の日の朝方、つまり今日の早朝であった。

「晴明、聞いたか。昨夜、実行どのの屋敷に賊が入ったらしい。実行どのはご無事らしいが、屋敷のものや招かれていたものに、多数死人が出たそうだ」

興奮した声で博雅が言う。
が博雅を引き止めていなければ、博雅は実行の屋敷へ行っていた。そこで賊に鉢合わせしていたであろう。
いくら博雅が武士とは言え、無事で済んでいたかは分からない。

は、このことを知っていたのかい」

昼餉の席にて、博雅はに問うた。
普段でも、舎人であるがたまに、博雅の相伴にあずかることがある。本来ならば殿上人(てんじょうびと)である博雅が舎人と共に飯を囲むことなどないのだが、この男、そういうことには頓着しない性質(たち)であるらしい。
昼餉を前にして、居心地が悪そうには小さくなって座していた。

「いえ、知っていたわけじゃないんです。ただ、博雅さまが行ったら…行くのは、嫌だって、思いました」
「どうして嫌だと?」
「…分かりません。怖かったんです。それだけ、で」

自分でも言っていることに自信が持てないのであろう。
いつもははきはきと物を言う口が、今日はすぼめられてぼそぼそとした音しか出てこない。

「…あとで思い出したんです。多分、夢で見たんです。…怖い夢でした」
「夢、か」

それに反応したのは晴明である。

「どんな夢であったか、覚えているかい」
「…はっきりとは覚えていません。ひどくおぼろげで……ただ、怖かったっていうのは、すごくよく覚えています」
「それは坊が怖かったのか?」
「わたしもそうなんですけど…、何か、光ったんです。細長い光でした。いくつもいくつも、すごい速さで駆けていく光でした。それから、突然、氷水を浴びせられたような気分になりました。それで…」
「それで?」
「……それで、暗闇に戻る前に、『いやだ、博雅さまが』って、思ったんです」

そういうことであった。














「あれは、夢見の力であったのだろうかなあ」

月の光を浴びながら、博雅が言った。
晴明と博雅の、二人である。蜜虫もいない。は今日はもう休んでいる。

「さあな」
「お前、なんとも思わんのか」
「思うさ。しかし、分からぬものは、分からぬ」
「お前でも分からぬか」
「まだ、症例があれだけとあってはな。まあ、いづれ分かろうよ」
「分かるのか」
「ああ」

さらさらと、月光がそそぐ。

「飲むか」
「飲もう」












2010/01/25

都にて 02-2