歩いたその先に
その頃、妖怪の世界を知る者には妙な噂が流れていた。
“丘の上に雷光神あり”
時代が進むにつれ、丘の周りには家が建つようになった。
しかし嵐の度に、
が根城にしているその巨木には雷が落ちた。幾度も、幾度も。そのたび、木に落ちる雷の巻き添えを食うように周辺の家にも雷が落ち、黒い灰になった。
いつしか人間は噂するようになる。なんでもその続く天災は丘の上の雷神が腹を立てて起こしているのだ、と。
不気味だと言うのでその黒焦げの巨木を切ろうとするのだが、その度に怪異が起こり、人が死ぬ。
どうすることも出来ずに、人間はただそのほど良い環境の立地を指を加えて見ているだけだった。
周辺住民の話を聞いて最初にその場に訪れたのは、若い修行中の修験者だった。
この時代には、各地の霊場を回ったり山にこもったりして修行を積む修験者が数多く存在した。
雷神とは言うものの、悪しき妖怪が住まわっているに違いないと妖怪退治を頼まれ、それを請け負ったものであるらしい。
夜、修験者が巨木に近寄ると、そのたもとに一匹の妖怪がいた。
白銀の髪を風に流し、一人、海を眺めていた。
「おい、そこの」
「………それは俺の事かい」
「そうだ。お前がこの辺に雷を落として回っているという雷光神か」
「……“雷光神”?…ふ、なんのことだか」
「嵐の度に雷を落とし、またこの木を切ろうとした者を排除していると聞く」
は面白そうに、海から目を背けて声を振り返った。
真面目そうな修験者が一人、こちらを見上げている。
「俺の根城を壊そうって輩は確かに、俺が殺した。だが俺は神なんて大層なもんじゃねぇよ」
「ただの妖であろう。我は村の者達にお前を滅するよう依頼を受けた。潔く退くならば命は取るまい。早々に立ち去るがよい」
「…。言ったはずだ、ここは、俺の根城だ。邪魔だって言うなら人間が立ち去ればいい」
「では、引かぬと?」
「無論」
が言った瞬間、修験者はそれを予測していたように飛びかかって来た。
それを難なくかわし溜息をつく。どうやら、引く気がないのは修験者も同じであるらしい。
幾度か攻守を繰り返す。が、長い時を要せずして、修験者は屍へと変じた。
「……愚かだな」
黒焦げになった屍を見下ろし、
はぽつりとつぶやいた。
別にこの木に何かを感じるわけではない。
丘の上から眺める景色は好きだが、ここでないといけない理由もない。
ただ、この場所から離れられなかった。
花や実を付けるわけでもないこの木のたもとが、
の家だった。
人間の勝手な欲望でそれを失するのが
は許せなかった。
それから、同じように噂を聞きつけ、あるいは村人に焚き付けられた修験者や修行僧、時には陰陽師がこの丘を訪れた。
その度に
はそれらをことごとく跳ね返した。時に葬り、時に悟し、時に無言で追い返した。
この根城に居座ってから二世紀以上経った頃、その噂を聞きつけて初めて人間以外の者が訪れた。
それがぬらりひょんだった。
「おめぇ、俺の所に来い」
「あんた、人間じゃねぇな」
「俺はぬらりひょん。百鬼夜行の先頭に立つ男よ」
「……ふうん。それが俺を勧誘かい。悪いが帰ってくれないか、人間だろうが妖怪だろうが俺はこの場所を譲る気はねぇよ」
「俺は俺の所に来いって言ってんだぜ。百鬼夜行に加われよ、雷光」
どこからか聞きつけたのか、ぬらりひょんは
の事を雷光と呼んだ。
その名前を鼻で笑いながら
は再び海を見下ろした。もう話は終わりだと言わんばかりに。
「どこへなりとも消えちまいな」
「……気の強い奴じゃのう。また来る。それまでに決めておけ」
「もう来んじゃねぇよ」
数年が経ったある日、まだ昼間だというのに大きな酒瓶を片手に、ぬらりひょんは姿を現した。
共の者も連れずに、自身一人で。
「おう、雷光。俺の所に来る気にはなったか」
「……また来たのか。帰れ」
「そう言うな。いい酒が入った、どうだ一献」
「……」
勝手知った顔でぬらりひょんは
の横に腰を据え、海を見て「いい眺めだ」とつぶやいた。
それから
は注がれるままに杯を受け取り、ぬらりひょんは手酌でさっさと飲み始めた。
「…」
一人で飲んでいるぬらりひょんを横目に、
も杯に口をつける。
三世紀ぶりの酒の味に、知らず感嘆の溜息が漏れる。
「おめぇ、どの位ここに居る」
「さあ。もう忘れちまった」
「なぜ此処なんだ?確かに眺めはいいが、この幽霊みたいな木はあんまり見目麗しくないのう」
「好きなのさ。それに、もうずっとここにいる。だから、ここに居たい。それだけだ」
「そうか」
ぽつりぽつりと会話をかわすが、特にこれと言って特別な話題はない。
それこそ、ぬらりひょんから勧誘の言葉も出なかったし、それを聴くほど
も愚かではない。
陽が西に傾き、海を真っ赤に染め、やがて水平線に沈んでいく。
その頃になって、
は杯を脇に置いておもむろに立ち上がった。
「やろう。死合いに来たんだろう」
ぬらりひょんがニヤリと笑う。
「いいねぇ。そういう奴は好きだ」
ぬらりひょんも自分の杯を放り投げると、一足飛びに間合いを取った。
いつの間にか、その手に獲物を持っている。
の手からは小さな電撃がほとばしる。
「手は抜かねぇ。死ぬんじゃねえぞ雷光!」
「ぬかせ」
長い戦いになった。
両者は少したりとも手を抜かず、また一歩も引かなかった。
雷鳴が轟き、丘にはこれまでに無いほどの雷が落ち続けた。
この時の様子を後に人が振り返って、あれは正しく地獄のようだったと語る。
雷鳴は間断なく鳴り響き、それと同時に雷鎚とは違う火花が散る。人間が少しでも近寄れば一瞬にして灰になっただろうと噂された。
戦いは三ヶ月にも及んだ。
最後まで立っていたのは、ぬらりひょんだった。
「おーい、生きてるか」
元気そうな声が、朝日が昇る直前の丘に静かに響く。
草の上に横になる
の息は荒く、けれどもしっかりと呼吸をしている。いたずらに成功したようなキラキラした目のぬらりひょんを
は見上げ、乾いた笑いを漏らした。
「は、はは。化物だな、あんた」
「お前に言われたくねぇなあ!いや、楽しかった。どうだ、お前。俺の所に来い」
会った当初と同じような問いに、
は少しの間考えて、巨木を見上げた。
正確には、巨木の幹があった場所を。
この戦いで巨木は根の近くから豪快に折れ、その不気味ながらも逞しい姿はもう、そこには無い。
ついに幹が折れた時、
は悟った。
ぬらりひょんは、
に、この場を離れる口実を与えに来たのだと。
何もないと
が思いながらも、それでも離れられずに居た“独りの場所”を離れる理由を持ってきたのだと。
「………あんた、何しに来たんだい」
「お前を、迎えに来たのさ」
「………ふ、なるほど」
はゆっくりと体を起こした。三ヶ月程前に置いた杯を探し出し、拾ってごしごしと汚れを拭う。
その盃をぬらりひょんにさし出して、言う。
「…盃を、交わしてくれるか」
「ああ、いいぜ」
自信たっぷりに、ぬらりひょんは笑った。
これから、この男に付いていく。
それが良いことなのか悪いことなのか、
には分からなかった。
ただ、人間だった頃に仕えたくもない集団に尽力していた頃から比べれば、この情に篤い妖怪に付いていく事の方が何万倍もマシな気がした。もう長いこと思い出さなかった人間の頃の記憶に
は心の中で苦笑する。
長い時が経った。
もう、どれだけ長いかを忘れるほどに。
「おめぇ、名は何という」
「…
、さ。ぬらりひょんの旦那」
盃を交わす二人の妖怪の姿を、朝日が照らした。
こうして、
は奴良組の一員になった。
2011/07/30