ただ歩いた
ぱたりぱたりと雨の雫が頬を打つ。
そう感じはしたけれど、まだ目を開くには時間が必要だった。
体が重い。全力疾走した後のような酷い疲労感がある。泥沼に浸かったように意識も低い所に停滞していた。
それを上から釣り上げるようにゆっくりと上昇させ、時間をかけて
がようやく目を開く。
曇天の空に、幾重にも広がる黒い線。
意識がはっきりしてくると、黒い線と思えたものは木の枝であることが知れた。
木の下にいるらしい。
巨木である。
枝を幾重にも張り巡らせた、太い幹を称える巨木。しかし、昔は青々とその枝葉を茂らせたと思えるその大木は、既に黒く焼け焦げてその幽霊のごとき細った枝を雨に晒すのみであった。
随分前に焼け焦げたと見える枝の間から、容赦なく雨が降り注ぐ。
河川敷で見たのとは違う木だ。
それからまた時間を掛けてゆっくりと体を起こした。巨木は丘の上にそびえ立ち、そこから下は断崖絶壁。下を覗けば黒い海が水しぶきを岩盤に打ち付けている。
「(ここは、どこだ)」
落雷を受けたことは覚えている。しかし、気がつけば突然にしてこの場所にいた。
は廻りを見回して雨を凌げる場所を探したが、生憎と廻りには野原以外に何もない。歩いて探そうにも、力の入らない四肢ではそう遠くへ行けないことは自明だった。
木の幹に身を寄せる。身を縮こめて、なるべく雨が当たらないようにと木に寄り添うが、あまりその効果はないようだった。
荒れ狂う海と、渦巻く黒い雲を、
は眺めた。
それがここから見える景色の全てだった。それが水平線まで続く。
雨に体が濡れ、今もなお雨脚が弱まることはない。
けれど不思議と寒くはなかった。
夏になりかけの時期ではあるが、雨が降ればまだ寒い。
しかし濡れた体は寒さを訴えることはない。
長い間そうしてただ、荒れる景色を眺めた。
最初に“何かがおかしい”ことに気がついたのは、巨木に雷が落ちた時だった。
雨が止むまでに何度もその木に雷が落ちた。丘の上に立つ高い木なのだ、自然と言えば自然な成り行きである。
稲妻が巨木を貫く度に驚いて木を見上げたが、不思議と痺れたり雷に火傷することはなかった。確かに雷鎚の白い線が
にまで及んでいるにも関わらず。
それどころか雷が“心地良い”とすら思っている自分に驚きを覚える。
雷はむしろ、
に体力を分けているようにすら錯覚出来た。
雨が止んだ頃には、
は体力を完全に取り戻していた。
それから少しずつ、
は歩き始めた。
まずは人を探すために。
ここがどこか、どうやって家に帰るかを確認するために。
歩き始めてすぐに、それが容易ではないことを知った。
文明の発達していない町。
昔話の中を思わせる服装をする人々。
ゆけどもゆけども、
は何一つ自分の生活していた“社会”の、“世界”の痕跡を見つけることは出来なかった。
信じられなかった。
信じられるはずもなかった。
何をどう間違えばこんなことになってしまうのか。
を困惑させたのは周りの環境だけではなかった。
いくら歩いても、
はほとんど腹を空かせることがなかった。
疲れもほとんど感じない。
自身にも何らかの変化が起きたのは明白だ。
決定的だったのは、
に対する周りの人間の反応。
周りの人間は、
を見ると口々に言った。
“妖怪だ”
湖に自分の姿を映して唖然とした。
白銀の髪。
白銀の瞳。
気にしないようにしていた、両手両足に広がる文様ももう無視出来なかった。
刺青というには薄く、あざと言うにはあまりに整った形をしていた。肌に落ちる、肌よりも少し濃い色の皮膚は、しっかりと何かの形を形作っている。
それは、そう、例えるのなら雷光のような。
自分が既に人間でないことはひと月で理解した。
食事を食べればうまいと感じるが、食べなくても数ヶ月は平気だった。
3日も走り続ければ疲れもするが、しかしそれらは人間の体と比べれば明らかに違いすぎる。
何年も、何十年も、
は歩き続けた。
自分の世界を見つけるために。
時に動物を捕らえ食らった。
時に人間に紛れ暮らした。
時に妖怪に会い、妖怪の話を聞いた。
時に人間に追いかけられ、邪険に追い払われた。
そうして長い間かけて全国を歩き続けたが、気がつけばまた、もとの巨木の下に戻っていた。
既にここへ来てから1つ世紀が変わろうとしていた。
巨木に辿り着き、しかしもう何も出来ることはなく、毎日毎日木のたもとから海を眺めた。
晴天の日も、雨の日も、雷の鳴る嵐の夜も。
そんな日々を、さらに二世紀以上重ねた。
既に疲れ果てていた。
探すことに。
見つからないことに。
絶望することに。
そんな折だった、彼に会ったのは。
ぬらりひょん、数多の妖怪を引き連れて彼はやって来た。そして開口一番、彼はこう言ったのだ。
「おめぇ、俺の所に来い」
自信たっぷりの目が、霞んだ
の目には、酷くまぶしかった。
2011/07/16