いつもとは違う夕日の色に、
は足を止めた。
夕日は山の端の上の方に留まって、近くに見える雲を綺麗な色に染めていた。西の空は既にオレンジや赤や紫色に染まり始めていて、
は幹線道路にかかる歩道橋の上から、ぼんやりとそれを眺める。
いつだったか、こんな夕日を眺めた事があった。
それはまだ自分が小さい時だった気がするけれども、よくは覚えていない。
けれどその時はまだ、暖かなぬくもりが二つ、
の隣に居てくれたことだけは覚えている。そういった随分前の“暖かな記憶”がほんの少しだけれどあって、それらのお陰で
は「まだ大丈夫」だと思えるのだ。
「(この気持ちを…大事にしよう)」
足下の道路ではいつものように忙しなく車が行き交う。
は知らず、ランドセルの肩紐をぎゅ、と握った。
04
「あれ、
じゃねーか」
掛けられた声に振り返ると、歩道橋の手すりの上を歩く夜トが、ほんの少し驚いたように
を見ていた。
が目をぱちくりさせている間に夜トは手すりから身軽に飛び降りて、よ、と片手を上げた。
「今帰りか?」
こつん、と
は軽く頷いて、それからニコリと笑った。
「何だ、いいことでもあったのか?」
は夜トと居るときは笑顔で居ることが多いが、今日はいつもと比べてもより嬉しそうな笑顔をしたので、夜トも少し笑って尋ねた。
は更にうふふ、と笑ってから数回小さく頷く。
あっという間にこんなに嬉しい気持ちにさせてくれたのは、目の前の夜トであるのだけれども、とうの夜トはそれに気がついていないだろう。
まるで当たり前のように
に普通に話しかけてくれる夜トが、
には嬉しかったのだ。
以前はそれでも、
を気にかけて声を掛けてくれる人はぱらぱらとは居たのだけれど。最近ではみすぼらしい格好の
を気にかけてくれるような人も居なくなってしまった。大人でも子どもでも、それは変わらない。
だからこんな風に“普通に”接してくれることが
にはなんだか少し新鮮で、そして嬉しかったのだ。
はそういえば、とポケットからボロボロの財布を取り出した。
「(……)」
財布の中身を見た
は困ったように眉尻を下げた。それから、酷い失敗をやらかしたように苦笑をこぼして、手のひらに1円玉を5枚を乗せて夜トの方へ差し出した。
「これでもいいですか?」そう言いたそうに、
は困ったように首を傾げて見せた。
「あー……、毎度」
夜トは気まずそうにそれを受け取った。
夜トは何度かもう金は要らないと言った事もあったのだが、
は頑なにしてそれを拒んでお金を払い続けていた。
けれどそういえば、最近
は家でご飯をもらえる回数が減ってきていて、スーパーでおにぎりを買うことがここ最近何度かあったのだ。それでもう、お財布にはお金があまり残っていない。
けれども意地でも
がそれを夜トに払い続けるのは、単に、
が夜トに出来る感謝を表す方法がこれしかないからだ。
むしろ5円だけでは申し訳ないくらいなのに、夜トは5円が良いと言う。
結局お互いが妥協し合った結果が、これなのだというだけなのだ。
「今日はどうすっかな。また裏路地がいいのか?」
子どもらしくもう少し遊べる場所の方がいいのでは、そう思ってこれも毎回のように聞く内容ではあるのだが、答えも大体いつも決まっている。
は少し困ったように、コツン、と頷いた。
いつものようにぽつりぽつりとこぼれる会話の中で、
は今日も壁や床に文字を書く。
声が出なくなってからもう1年以上だと言うが、
の声が戻る気配は一向に無かった。
いつになったらその声が聞けるのか、となんとはなしに思いながら地面に文字を書く
の手を目で追っていると、夜トはちらりと視界に入ったものに目を見開いた。
今のが見間違いでないとするのなら――
「
。お前ちょっと腕見せてみろ」
咄嗟に
が腕を引くのよりも早く、夜トは
の腕を捕まえて引き寄せた。
袖を少しでもまくれば、見えるのは紫色の痣や、タバコを押し付けられたような痕。
それも一つや二つではなく、明らかに以前見た時よりも数が増えていた。
ぱ、と
は腕を引いて夜トの手から逃れると、袖を引っ張ってそれを隠す。
「
……、やっぱり、俺が父親に話つけてやる」
そう言いながら立ち上がる夜トに、
はフルフルと首を横に振る。
『ダメ』
口の動きから何を言いたいのかは分かるけれども、夜トは更に難しい顔をして眉根を寄せた。
「
。認めたくないかもしんねーけど、このままにしとくとお前のためにも良くない。しかるべき所にお前は保護してもらった方がいい」
『だって…!』
は尚も首を横に振った。
は信じている。
ほんのわずかでも、まだ希望を捨てきれないのだ。
きっといつかは以前のような温かい家庭が戻ってくるのではないかと。
また、家族で笑う日が戻って来てくれるのではないかと。
根拠はないけれど、そんな事をもうずっと願って、信じて、それが
の生きるための最後の望みなのだ。
けれど、そういう(、、、、)所の助けを借りれば確かに“酷いこと”からは逃れられるかもしれないが、代わりに自分の家族とはもう一緒に居られないのだろうと分かっている。
そんな事になればきっと、
はもう家に帰る事は出来ない。いつもの生活に戻る事は出来ないのだと、分かっていた。
だから、
にはそれは最後の望みを手放す事に等しいのだ。
それだけはしたくない。
それだけは、見たくない未来だった。
「
。何もそれでお前が家族と切り離されるわけじゃない。他の人に間に入ってもらって、お前たち家族がもっといい形になるように手助けしてもらうだけだ」
『それでも、それでも…!』
その未来には、きっと自分は居ないだろう。
父親が邪魔なのは
だけだ。
だからきっと、他の人達が間に入る事でもし家族がまた“家族”になったとしても、そこにはもう、きっと、
の入る場所は無くなってしまっているのだ。
『ごめん、夜ト…!でも、出来ない……っ!』
「あ、こら
…!」
は口の動きで夜トにそう伝えると、涙を一杯に溜めた目元を歪めながら路地から走って姿を消した。
「…………。どうしたもんか……」
余程家族と離れたくないと見えて、
は頑なになっていた。家族から切り離されるのが余程怖いらしい。事実、児童相談所などの介入があれば、恐れていた事は現実になってしまうのだから。
誰だって母親と離れるのは嫌だろう。けれども
にとっては、母親と離れるくらいなら、父親の暴力に耐える方がまだマシだということなのだ。
けれど、それではいけない。
それでは、いつかは
の方が先に壊れてしまう。
が消えた路地の入り口を眺めながら、夜トは難しい顔をした。
涙で濡れた榛色の目を思い出して、夜トは一人、溜息をこぼした。
2014/11/01