05










着信を知らせる携帯電話にいつものように出ると、それは無言電話だった。きっとまただろう、と夜トはぼんやりと考える。
前回会った時から1週間程がたっていた。
あの時は少し気まずい別れ方をしてしまったから、今度会った時には先に謝って、それからまたどうにかして説得をしてみようと思っていた。
説得出来ないようなら、の意思を無視してでも何らかの手を打たなければ。そうしなければきっと手遅れになってしまうだろうから。
そんな事を考えながらいつものように電話先に飛んで出た先は、いつもとは違った小さな部屋だった。
部屋に着いてから目に飛び込んで来た光景に、夜トは咄嗟に声を上げた。

「緋器っ!」

畳の部屋。薄汚れて、もう何日も敷きっぱなしになっているらしい布団や、その回りに散乱するゴミ。
その横には、先程まで受話器を持っていたらしいが、今は電話から引き離され、若い男に組み敷かれていた。顔には殴られた痕が無数に残り、投げ出された手足にはもう一寸でも動く力は残っていない。
広くはない部屋の畳は、の血で赤く染められている。
それでもまだ若い男はを殴る手を止めなかった。
台所には泣く赤ん坊を抱えてあやしている女の姿がある。
けれど、おそらくの母親であろう女は、その光景を見ても男を止めようとはしなかった。顔を青くしながらも、必死に暴力を見えていないふりをしながら、赤ん坊をあやしていた。
夜トは男の背に乗る、極限まで膨張しきった妖に鋭い目を向けた。
赤黒い体をしたその妖は、男の背でニヤニヤと笑っているようだった。

「もっトやレ。殺シてしマエ」

不気味な声に反応するように、若い男はを殴りつける拳に力を込める。

…!」

夜トはぶくぶくに太ったその妖を、一閃のもとに斬り伏せた。
男から離れた妖に更に一太刀浴びせると、妖は空気の抜けた風船のようにしぼんであっけなく姿を消した。
妖が消えると、若い男は急に殴っていた手を止めた。
先程まで鬼の形相だった男は、まるでに興味を失ったかのようにふらりと立ち上がり、そのまま荷物を持って家を出て行った。

「おい、!」

慌てて駆け寄って夜トが血まみれのを抱き起こすと、は腫れ上がった瞼を少しだけ持ち上げて夜トを見上げた。

『……夜、ト……』

血が滲んでいる口が少しだけ動いた。

「待ってろ、今病院に――」
『…夜、ト……』

がもう一度口を動かして、青白く細い指でちょこん、と夜トのジャージをつまんだ。

『………ありが、と……』

そう口が動く。
声は、出なかった。

「おい…!おい、待てよ!」

閉じようとする目に、意識を手放そうとするに、夜トは必死になって呼びかけた。

まだ眠るには早過ぎるだろう。
これから先たくさんの可能性が待っているのに。
これから、これからなのに―――!

けれど、その制止の声にもはとうとう目を閉じ、そうして最期に仄かに笑った。

かくん、と腕が落ちる。

薄く開かれた目に、もう二度と光が灯ることはない。

っ……!」

いくら揺さぶってもが起きる事はなかった。


あっけない。
なんてあっけないのだろう。人の命というものは。


夜トの頬に、涙が伝った。


――もっと俺が、早く行動を起こしていたら

――無理矢理にでも、をこの家から引き離してやっていれば


そんな言葉が夜トの胸の内に渦巻いた。
胸が苦しくて、涙が止まらなかった。


が息を引き取ってから少しして、ふわり、との身体から抜け出たものがあった。
の死霊である。
ビー玉のようにつるりとした薄灰色のそれは、身体から抜け出ると、ふわ、ふわ、と空中を漂い始めた。無垢な顔をしたの死霊を見て、夜トは歯を食いしばる。
そして、決心した。
薄灰色のそれは尚も母親の元へと寄っていこうとしたが、夜トは手の中にそっとそれを閉じ込めて、その場から離れた。










暗いいつもの路地裏まで飛んでくると、夜トは手の中から死霊を放つ。
薄灰色のビー玉は、がいつも座っている場所に降り立つと、ふわふわと漂いながら不思議そうに夜トを見上げていた。

「(ごめん、…。俺にはこんな事しか出来ねぇけど……)」

こんな事では償いにならないと分かっている。
けれど、しなければいけないと思った。
ピシ、と夜トは人差し指と中指を立てた右手をの死霊へと向けた。震える口元を叱咤して口を開く。

「……諱を握りて ここに留めん
 仮り名を以て 我が僕とす
 名は訓いて 器は音に
 我が命にて 神器となさん
 名は榛(はる) 器は榛(シン)」

ふわり、と一瞬浮き上がったそれは、くるりと一回転するとピカリと綺麗に輝いて、それから夜トの肩に吸い込まれるようにして飛んだ。
そうして夜トの肩に留まっていたのは、榛色の羽色をした見慣れない鳥だった。
鷹のような大きさではあるが、爪は長くなく鋭くもない。くりくりとした黒い目は穏やかで、一見すると雀をそのまま大きくしたようにも見える。
それが不思議そうに首を傾げて、キョロキョロと辺りを見回していた。
夜トが肩の高さまで腕を曲げて上げてやると、鳥の姿をしたはすんなりと夜トの腕に飛び乗った。そうして夜トの顔の高さまで腕を持ってくると、夜トと目線が交わった目がパチパチと瞬きをする。
まるで、「どうして泣きそうな顔をしているの」とでも聞きたそうにこつん、と首をかしげて不思議そうな顔をする。
それは人間の姿の時にがよくした仕草を思い出させて、夜トはまた出そうになる涙をぐっと堪えた。

「榛(はる)」

そう呼ばうと、榛(、)は人間の姿を取り戻した。
一瞬呆然として、くるくると辺りを見回してから、もう一度夜トを見上げる。

「…オレは夜ト。お前の主だ。彼岸より召し上げしおまえを神器とする……榛音(はるね)」

榛と名付けられた少女は、ぼんやりと目をしばたいた。

「夜ト…?」

榛音の声に、夜トは静かに頷いた。
初めて聞いた榛音の声は、か細く高い、澄んだ声だった。

「……そうだ」
「そう…。………ありがとう、夜ト」

夜トは目を見開いた。
榛音としては始めて会った夜トに、榛音は「ありがとう」と言ったのだ。
そんな、覚えているはずはないのに――

「――っ、なぜ…?」
「……なぜかなぁ…分かんない。でも、なんだか、ありがとうを言わなくちゃいけないと思ったの。だから、ありがとう、夜ト」
「…っ!」

ニコリと笑った榛音に、夜トはギリリと奥歯を噛み締めた。
感謝されるような事は何もしていないのに。
むしろ自分は、謝らなければいけないのに。
そう言いそうになるのを夜トは必死にこらえて、更に口を開いた。

「眷属よりも傍に永く請い従うことを許す」
「私は夜トの家来になるの?」
「………そうだ」
「そっか。……そっかぁ……よかった」

榛音は仄かに笑って、嬉しそうに、安心したように、涙を零した。
なぜ涙が出るのかはきっと分かっていないのだろう。
けれど生前と何一つ変わらない笑顔で笑っていた。
夜トは涙が零れそうになるのを必死に縫い止めてから、ニッと笑い返した。
今まで得ることの出来なかった楽しみや喜びを、がこれから得る事を願いながら。









2014/11/07

どんなに願っても 05