新しい、イノチ <後>
ヒサギはやはり父には見えていないようで、ヒサギは水のみで食事は摂らないし、家で一緒に暮らす分にはあまり問題はなかった。
昼間は一緒に学校に行き、授業中はヒサギは屋上で授業が終わるのを待ち、放課後に二人一緒に帰る。
そんな日々にやっと慣れて来たある日の事だった。
ヒサギと暮らし始めてから、そろそろ1ヶ月になろうかというある日の帰り道。
「ヒサギ、お待たせ。帰ろうか」
「はい!」
最近では授業が終わる頃合いが分かってきたらしく、廊下に人がいない終礼の時間帯を狙ってヒサギは屋上から下り、校門の近くで
を待つようになっていた。
「今日はいかがでござりましたか?」
「うん、普通通り。でもテストが近いから、そろそろ範囲とか気にしだして面倒だなぁ」
「さようでござりますか!」
どんな話をしても、ヒサギはとても楽しそうに
の話を聞く。
そんなヒサギの反応に、
も悪い気はしなかった。
他愛ない話をしながら、家までの行程も半分程を過ぎ、そろそろ人通りも減ってきた細い道に差し掛かった時だった。
「うまそうだぁ」
後ろから聞こえて来た湿った声に、咄嗟に
は振り向いた。
そこには、長い毛むくじゃらの猿のような妖が立っていた。毛の色は灰色、目は金色に光り、研がれたような鋭い牙が大きな口から覗いている。
すぐに妖だと分かったのは、その猿には角があり、しかも、通常の猿やゴリラと言った動物とはおよそ似ても似つかない大きさをしていたからだ。160cmはある
ですらも、少し見上げる程の大きさだった。
「人間。その花を置いていけ」
咄嗟に何のことか分からなかったが、花がヒサギの事を指しているのだと理解した。
「嫌だね。花ならそこら中に植わってるだろ」
言いながら、
はヒサギを庇うようにしてじりじりと後退った。
話は出来るようだが、話が通じる妖ではなさそうだと思ったからだ。
明らかに、あれは捕食者の目つきだ。
逆らえば容赦なく襲いかかって来る。そんなしたくもない確信が、あった。
「その花がいい。妖力がたんまり詰まっていて、甘い蜜の匂いがする。人間、その花を置いていけ」
「嫌だって言ってるだろ!」
が言った瞬間、大猿の妖は手を振り上げた。
「ヒサギ、走れ!」
「
様…!」
ヒサギの手を引いて走りだす。
ドスン、大猿の手が地面を叩く音が響いた。
仕留め損ねた事を大猿が気がつくと、大猿は二人を追いかけ始めた。
大猿の歩くスピード自体はそんなに早くない。二人が走って逃げる間にも、大猿との間はぐんぐんと広がった。
撒くのは簡単な事のように思われた。
けれど逃げる二人の後方で、ズン、と重い音がしたかと思うと、次には高く飛翔した大猿が二人の目の前に降り立った。
「待て、逃さぬぞ」
「(さすが猿…!)」
心の中で軽く感心しながらも、
は方向転換をして再び走りだす。
「こっちだ、ヒサギ!」
「は、はいっ…!」
もあまり体力に自信がある方ではなかったが、ヒサギは
よりも更に、息を切らしてつらそうだった。
増して、着物のような服装をしている事もあって、ついにはヒサギは躓いて地に転げた。
「ヒサギ!」
助け起こそうと
が戻っている隙に、大猿は再び大きく飛翔して、二人のすぐ側へと降り立った。
「ちっ…!」
逃げ切れない、ヒサギを見てそう判断した
は大猿に向かって低く構え、素早く不動明王印を結んだ。
「ナウ――」
真言を唱えようとした刹那、
の細い首を大猿の手が掴んだ。そのまま簡単に持ち上げられ、
の足が宙に浮く。
「ぐ…っ!」
「
様!」
「ちょこまかと小さい人間が。まずは、お前からだ」
「
様ぁっ!!」
「(痛ってぇ、ちょ、首千切れる、千切れるから…!)」
声も出らず、助けも呼べない。
ぎりぎりと締め上げる大猿の汗ばんだ手に、
の意識も遠のきかけた。
抵抗して暴れていた
の腕が、意志に反してぱたりと落ちた。
下でヒサギが泣き叫んでいるのが聞こえる。
馬鹿、早く逃げればいいのに。
同時に
は思った。
ここでもし自分が食われれば……
―――次はヒサギだ
そう思った瞬間に、何かが弾けた。
カ、と何かが光った。それは、
を中心に放たれた光だった。
「ぎゃっ!」
大猿の叫び声。
途端に
は大猿の手から開放されて、地面に不時着してからむせ返った。
「ごほっ…、は、はぁ…」
「
様!」
「来るな、ヒサギ!隠れてろ!」
地面に降り立った
に駆け寄ろうとするヒサギを制して、
は大猿を見上げた。
「(何が起こった…?)」
大猿の片方の腕の、肘から先が無くなっていた。腕が無くなった部分から血が滴り落ちる。
あれは、あの腕は、先程まで
を掴んでいた方の腕だ。
大猿は痛い痛いと喚きながら、残った方の腕をぶんぶんと振り回した。
は大猿から距離を置いてその様子を伺っていた。
やがて、大猿は観念したのか、肩を落として山の方向へと逃げていった。
完全に大猿の姿が見えなくなったのを確認して、今度こそヒサギが
に駆け寄ってくる。
目から大粒の涙を流しながら、
にすがりついた。
「
様、申し訳ござりません。あれはわたくしを狙っていたのに…!
様にお怪我をさせるなど、わたくしは…!」
「怪我?…ああ、ホントだ。大丈夫だよ、これくらい。ちょっとかすっただけ」
見れば、確かに腕には切り傷のような線が入っていた。
手首から肘に掛けて、長い切り傷だった。血は出ているが、傷は思うほど深くない。
おそらく腕から逃れる時にでも大猿の爪がかすったのだろう。
「
様、申し訳ござりません、申し訳…!」
「大丈夫だって、ヒサギ。こんなんすぐ治るよ」
「…、…」
ヒサギの紅色の涙に濡れた瞳をしかと見ながら、
は苦笑を浮かべた。
こんなに泣いて。
「ま、ヒサギが無事だったんだから、そっちの方が大事でしょ。ヒサギが謝る必要なんか全然無い無い。……無事で良かったよ、ヒサギ」
「……はい。ありがとうござります、我が君…!」
明るく振る舞う
のその様子に、ヒサギも少し、笑顔を見せた。
けれど、家に帰ってから
が熱を出すと、ヒサギはまた顔を曇らせた。
どうやら傷が熱を持ったものらしい。もしかしたら大猿の気に当てられたのかもしれないが、そこまでは分からなかった。
傷の処置をしてからも、
はその日、熱で一晩中うなされていた。
ヒサギはその横で、暗い顔をしながらも、
を気にかけずっと横で看病していた。
学校も休み、やっとのこと回復をした日の朝。
2日ぶりの学校だ。
が顔を洗って部屋へ戻ってくると、部屋には、誰も居なくなっていた。
先程までは居たはずのヒサギが居ない。
「ヒサギ…?」
嫌な予感がした。
は顔を拭いたタオルも肩にかけたまま、家を飛び出した。
きっとそう遠くは行っていないはずだ。
案の定、森へと続く道のりでヒサギを見つけた。
「ヒサギ!」
「…!
様!」
けれどヒサギは、いつものように
に寄ってくることはせず、2・3歩
との距離を空けた。
「どこへ行くんだ」
「…今まで、お世話になりました、
様。わたくしは、これから森で暮らそうと思います」
「どうして」
「……。…あれは、わたくしを狙っていた。これからも狙われるかもしれない。けれど、わたくしでは
様をお守りすることが出来ない…わたくしが一緒にいる事で、また、貴女様に害が及ぶやもしれません。それは耐えられない…ですから、わたくしは森で生きようと思うのです」
「……。……全く、そんなこったろうと思ったよ」
は深々と息を吐いて、努めて明るく言った。
このどこまでも親愛の情を寄せてくれる小さな妖は、
を第一と考える。それ故にこの選択をしたのだろうことは想像に難くない。
自分一人の命を守る術すら持たないヒサギは、もしまた妖に襲われればひとたまりもないだろう。
それでも、ヒサギと一緒に居ることで
に害が及ぶなら、躊躇わずに
の側を離れる事を選んだ。
「どうやらあんたは妖から見るととても美味しいように見えるらしいし、正直、また狙われでもしたらあたしだってあんたを守ってやる自信はない。けどさ、だから一人で生きるってのは違うよ。ヒサギ、あたしも馬鹿じゃない。ちょっとは考えがあるんだ」
「考え……で、ござりますか?」
目に大粒の涙を溜めたヒサギが、おそるおそると言った風に顔をあげる。
は、そんなヒサギの不安を払拭するように、にかっと笑った。
「で、俺に相談ってわけか」
学校の帰り道、
は夏目と一緒に帰りながら、事のあらましを聞かせ、どうにか出来ないかと助言を求めた。
考えがあるとは言ったものの、知識も人脈も乏しい
には、とりあえず夏目に聞いてみるくらいしか手立てがなかった。
蛇の道は蛇、妖に関してはおそらく
よりも詳しい夏目に相談に乗ってもらったのだ。
「そ。あたしだってまだ自分自身すら守れないから、一緒に居られるようにする方法があればベスト、それが無くても、一人でヒサギを放り出さずに済む方法を考えたい。夏目の人脈ならぬ妖脈でなんとかならないか?」
「うーん…そうだなぁ、とりあえず先生に聞いてみるか。俺だけじゃ何とも言えないし。で、後ろの子がその?」
「そう、ヒサギだ。ヒサギ、これは夏目だ。ちょっと変わった人間だけど、いい奴だよ。ご挨拶しようか」
「変わった人間なのはお互い様だろ」
「まあそう言うなよ」
の後ろに隠れて様子を伺っていたヒサギは
に言われると、はい、と素直に返事をして
の後ろから出てきた。
「
ヒサギと申します。何卒、よろしくお願い申し上げます」
そう言って、ぺこりと頭を下げる。
「え、これは、えっと、どうも」
あまりに礼儀正しいので、夏目もなんだか照れくさくなって、恐縮して頭を下げた。
「なんか、
と一緒にいるとは思えないほどおしとやかだな」
「余計なお世話だ」
七辻屋まで来ると、夏目は一旦にゃんこ先生を呼んでくる、と家へ向かって帰っていった。
それから少しして夏目がにゃんこ先生を連れて戻ってくると、
はにゃんこ先生にも同じ話をした。
「私に助言を求めるなど、安くはないぞ小娘」
「好きなだけ食べていいよ、ここの七辻屋のまんじゅう」
「話が早いな」
にゃんこ先生がこの七辻屋のまんじゅうが大好きだということはリサーチ済みだったので、まんじゅうを餌にダメ元で頼んでみれば、食い物に釣られて上機嫌なにゃんこ先生から快く協力を得ることが出来た。
「おそらく花を好んで食べる妖だな。これだけうまそうな匂いを放っていれば、そりゃあ花を普段食わない妖すら寄ってくるだろう。このヒサギとやらも、人間が間違えて妖となる素養を持った花を一緒に混ぜた内の一匹というとこだろう」
妖になる素養を持った花、そんなものがあること自体が不思議でならないが、それよりもにゃんこ先生が言った別の言葉に
は反応した。
「ヒサギは妖から見るとそんなにうまそう…なのか?」
「ああ、七辻屋のまんじゅうくらいウマそうだ」
「それは……、分かりやすい例えをどうも」
店先の腰掛けで相当な勢いで食べるにゃんこ先生を見ながら、
は複雑な心境になった。
これは、思ったよりも事は複雑かもしれない。
「小娘、お前はどのくらい護身を使えるようになった」
「ほとんど使えない。この前のだって、実は何が起こったかよくわかってない」
この前というのは、大猿に襲われた時の事だ。
なんとか窮地を脱することは出来たが、正直何が起こったのか、あれは
が起こしたのか、詳しい事は何一つ分かっていなかった。
「であれば、共に居ればまたどこぞの妖の腹に仲良く入るのも時間の問題だな」
「そうならない為に助言を求めてるんだけど」
「ふん、そうだな。ヒサギを誰か妖のもとに置けばいい。そこで身を守る術でも教えてもらうんだな」
「………、そうか…。そうだな。人間のあたしと一緒に修行は出来ないよな」
「当たり前だ。もとより人間のお前には妖の世界の事など教えてやれんだろう。ならば、どこぞの妖に任せる方がこいつのためと言うものだ」
「―――そっか……。うん、そうか……。誰か心当たりはないか、猫助?」
「ふん、そこまで面倒見きれるか」
「そう言わずに」
「あ、
、ヒノエなんかどうだ?
も知ってるし、安心だろ?」
「!そうか、その手があった。そうと分かれば善は急げだ。ヒノエってどこにいるか知ってるか、夏目?」
「うーん、どこか一つの場所にいるわけじゃなさそうだしな…にゃんこ先生、なんとかならないか?」
「全く、世話の焼ける奴らだ。七辻屋のまんじゅう持ち帰りだぞ」
「はいはい、了解」
にゃんこ先生はそう言って咀嚼していた七辻屋のまんじゅうを飲み下すと、どろん、と大きな煙を上げて姿を変えた。
「ちょっと行って呼んで来てやる」
「ありがとう先生」
斑が飛び立っていく姿を見つめながら、そういえばあの妖の姿を見るのは2度目だったな、と思う。
なんて美しい姿なのか。
妖を美しいと思うなんて、とも思いもしたが、しかしヒサギだってとても愛らしい姿をしている。
「…不思議だな」
ぽつり、言った言葉に、横に座っていたヒサギが不思議そうに顔を上げる。
「
様?」
「うん、いや。なんでもない」
「そうでござりますか?」
まだ
と共に居られる事を喜んでいるヒサギだが、それでも別れの時が近づいていることを感じているのか、いつもの覇気は薄れていた。
「大丈夫、ヒサギ。毎日一緒には居られなくなるけど、今生の別れってわけじゃない。気が向いた時にでも、遊びにおいで」
「……はい!ヒサギは、がんばって強くなります。
様をお守り出来るくらいに強くなります!」
「そっか。じゃああたしも負けないようにがんばんないとなぁ」
「…はい!」
しばらくして、斑の背に乗ってヒノエがやって来た。
事情を説明すると、ヒノエはヒサギの世話を見ることを快く引き受けてくれた。
「……
様!また、またきっと会いに来ます!」
「ああ。元気でな」
「
様も…
様も、どうか、お元気で!」
最後は目に一杯涙を溜めながらも、ヒサギは笑って別れを言った。静かにヒノエの後ろに付いて歩き、やがて森へと姿を消した。
は笑顔で二人を見送った。
はにゃんこ先生に七辻屋のまんじゅうお持ち帰りを渡し、ついでに夏目にも礼としてまんじゅうを渡した。
夏目とにゃんこ先生には改めて礼を言いながら、その場で別れた。
なんだかとても長い1日だった。
家に帰って部屋に入ると、どっと疲れが押し寄せてくる。
いや、それよりも。
「(この部屋…こんなに広かったのか)」
ここ1ヶ月ほど2人で過ごした自分の部屋。
片方がいなくなると、それまでは一人が普通だったはずなのに、なぜか部屋が広く思えてしまう。
大変な事になった、最初はそう思ったけれども、けれど2人で過ごした時間は決して大変などではなかった。
むしろ妹が、初めてのきょうだいが出来た気がして、
は嬉しかった。
嬉しかったのだ。
「(…ヒサギ、あたしもがんばるよ)」
強くなろう。
自分と、自分と共に居てくれる誰かを守れるように。
心の奥深くで、強く思った。
ユリの香りがほのかに残る部屋で、それから
は、少しだけ泣いた。
2013/09/14