「私を見たな」
事の始まりは、
が一匹の妖を見たことだった。
背の低い妖は、そう言い放つとにやりと、それはそれは楽しそうに、笑った。
何も違わない、
人間も妖も
どんよりと雲が低く垂れ込める空の下、心なしか足早に人々は道を急ぐ。
そろそろ傘を差したほうがいいだろうか、
が手に引っ掛けた傘をなんとは無しに見ていると、曇天の下、ぽつんと立つそれに気がついた。
次いで言われた言葉に、顔を微かに諌める。
「私を見たな」
「(…出た、これ系のやつ)」
の腰の高さ位までの妖は、
を見上げて、ぼそりと言い放った。
には確かにその妖の姿が見える。
が、見たな、と言われて“はい見ました”と言ってしまっては思うツボだ。
見られて嫌ならこんな所にいないでくれ、と言いたくなるのをこらえて、そこには何もいないかのように妖を避けて進む周りの人間と同じように、
も見えないふりをしてその妖の横をすり抜けた。
こういう性質(たち)の悪そうな妖には関わると面倒だ。
一度は何事もなく横を通り過ぎたが、次の角を曲がると、なぜかそこにはまた、先程の妖が立っていた。
「見たな、お前、私を見たろう」
先ほどから少し進んだ道であるのに、どう先回りしたのか、妖は先ほどと寸分違わぬ格好で同じようなことを言った。同じように、楽しそうに、意地悪そうに、笑う。
「見たな、見たな。
、私を見たな」
「(…うわー、名前知られてる)」
これは本格的に答えてはまずいだろう。
この前の一件以来、八ツ原の住職に教えてもらいながら読経したり神学を学び始めたりしてはいる。が、何かが出来るようになるのは随分と先の話だ。
ここで何か変なまやかしでもかけられたら、逃げきれる自信が
にはない。
再び無視して道を急ぐと、進む先にはまた、妖が立っていた。
見れば先程よりも背が高くなって、
と頭一個分くらいしか違わなくなっている。
なおも無視して横を通り抜け、同じようにまた妖が居て、またその横を通り過ぎる。
何度かそれを繰り返した。
やがて背中に冷や汗をかき始めた頃、ぐい、と腕をひっつかまれて思わずその場に立ち止まる。
「痛っ……!」
引っ張られる方を振り向くと、ニヤリと笑った妖の顔がドアップで目の前に広がった。
やはり先程よりも背が高くなって、
と同じ背丈くらいの妖が、じっと
を見ていた。
「見た、見えた、私もお前の顔が見えたぞ」
口が異様なくらいに裂けて、爪の先のように湾曲した眼が嬉しそうに弧を描く。
長い薄茶色をした髪がぶわりと歪んで波打っている。
「(怖っ…!)」
これが夜だったら、下手なホラー映画よりよっぽど怖い。
は掴まれた袖を振り払って走りだした。まだ日没までには時間があるはずだが、厚い雲のせいであたりは薄暗い。曇天の下を、
は走った。
家に帰るよりも神社か寺に逃げ込んだ方が良さそうだ、そう判断して最寄の神社へと進路を向ける。
「無駄だ、無駄だよ。なあ、遊ぼうじゃないか。時間を忘れて、いつまでも、いつまでも。二人きりの世界で、遊ぼうじゃないか」
恐ろしいことを言いながら、声はつかず離れず
の後を追ってくる。
「(厄日だ…!)」
走りながらいくつかの角を曲がる。4つめの角を曲がった所で、ああこれはもう手遅れかもしれない、と思った。
2度ほど角を曲がると、2つ角を曲がる前の景色がそこに広がっている。確かに神社への道を走っているはずなのに、進む先や曲がった角の先には数瞬前に見たのと同じ景色が広がっている。そうして、同じ所をぐるぐると回っている。
「(これは既に、はめられてるんじゃあ……)」
何度目かになる同じ風景を見て走る。
いつの間にか、道から人が消えていた。知らない道ではない。通学路でもないが、何度か通った事くらいはある道だ。ビルもあるが、民家もある、そんなに大きくはない通り。
道路から車が消えた。
歩道から人が消えた。
周りから、音が消えた。
今までとは別の角を曲がってみても、別の道を走ってみても、結果は同じだった。なぜかまた、同じ角を曲がり、同じ道を走っている。
人は、いない。
これは、このままこれを続けても疲れるだけだ。そう判断して、上がった息を収めるように速度をゆるめ、やがて
その場にゆっくりと立ち止まった。
「面倒だな……。ちょっと、妖。出てきなよ」
「捕まえてごらん。鬼ごっこだ!」
ひらり、衣を翻して、いつの間にか
の傘を差した妖が
の視界をかすめていく。
「あ、いつの間に…」
持っていた傘が、無くなっている。先ほど袖を掴まれた時だろうか。
ぴょん、妖が前方で軽く跳ねると宙でその姿が消える。
かと思えば、背後で着地するような音が聞こえ、振り向くとにやりと笑った妖がいる。それを追いかけ始めると、また跳ねた妖は宙で消え、明後日の方向にふわりと現れる。
ふわり、ふわり。
消える妖を追うように、綺麗ないろの羽織が舞う。残像を残して、消える。
すでに雨が降りだして、
は雫が落ち始めた自分の髪を煩わしそうに掻き上げた。
「はあ、はぁ………どうすりゃいいの」
すでに小一時間はそんなことを続けただろうか。
色々呼びかけたり方法を変えたりしたが、結果はどれも一緒だった。
いい加減なんだか追いかけるのも面倒になって、再び宙で消えた妖の残像を見ながら
はついに立ち止まって、膝に手をついて独りごちた。
上がった息を沈めながら、現れては消え、消えてはまた現れる妖を眼の端で追う。
何か糸口を見つけないと、本当に“いつまでも”この妖と同じことを繰り返すハメになりそうだ。
「ぎゃっ」
もう何度目か数えていないが、またこれまでのようにふわりと残像が消えたかと思うと、一瞬の短い叫び。
妖の声だ。
これまでにはなかった変化に、何事だろうと
は声の方を振り向いた。声が上がった方には何もいない。続いて視線を巡らせて、視線が何かを捉える前にまた、別の声が
に呼びかけた。
「何かと思えば」
ほぼ一回転して、今度は新たな声に視線が辿り着く。
女が立っている。
きらびやかな着物を纏った、髪を結った顔立ちの綺麗な女だ。
どこから来たのか、いつからそこにいるのか。
「見事にはめられちまって」
そう言ってキセルを一度吸って、優雅に紫煙をはき出した。
は女をしばし黙って見つめた。
これが人間か妖か判断がつかなかったからだ。
和装だが、見事に着こなしていて違和感はない。顔を布や紙で覆っているわけではない。ただ、髪で片目が隠れている。
立ち居振る舞いは上品な感じがするし、人間のような気も、妖のような気も、する。
紅を引いた唇が、少し面白そうに笑みの形をつくる。ふわりと笑んだ。
「お前、いつまでここで遊んでいる気だい」
「…遊んでるように見えるんだったらお姉さんすごいよ」
「おや、面白みのない。言葉遊びにも付き合ってくれないのかい」
「この状況でそれを言われてもね。お姉さん何者?人間?」
妖か、と聞かなかったのは、もしかしたら名取や名取から聞いた人たちのように、この人も“見える人”かもしれないと思ったからだ。
もし人間だったら、“妖か”と聞かれて気分を害すかもしれない。
「せっかちだね。見てのとおり、妖さ」
心配はどうやら杞憂に終わった。
何が見ての通りなのか分からないが、その返答を聞いてどこかで“やはり”と思う自分に苦笑する。
なんとなく、やはり、違うと思ったのだ。
どこか、違う。人間と。
何が違うのかは、よく分からないのだけれども。
「まあいいや。知ってたらここから抜けられる方法教えてくんない?なんか、あの妖すごい嫌なヤツなんだけど」
「もういないさ」
「いない?」
そういえば、先ほど妖の間の抜けた声が聞こえていた。
それはこの女を見る直前だった。
相変わらず、人間のいない簡素な街と化している空間だが、確かに、先ほどの妖は姿を消した。
「追っ払ったからさ、私が」
「…」
果たして妖というものは、代価なしに人間を助けたりするものだろうか。
それを言えば、夏目のペットにだって同じことが言えるのだけれども。斑は
に代償を求めることはしなかったが、この女の妖が斑と同じとは限らない。
“妖から守ってくれた”ことが、更なる受難の入り口のような気がして、
は思わず口をつぐんだ。
それを見て、妖が声をあげて笑った。
「あはは、別に取って食いやしないよ。私はそんなに悪趣味じゃない」
言うと、女の妖は静かな足取りで
に近づいて来た。
思わず数歩後ずさる。
「な、なに?」
「出たいんだろう、ここから。術を解いてやるよ」
警戒している
を見ながら妖は面白そうに、少し意地悪そうに笑う。けれど、先ほどの妖のように嫌な感じはない。
純粋に、
の反応が面白くて笑みが自然に唇に乗った、そんな笑みだった。
「…術?」
「ほら、傘。持ち物を盗られただろう。それが一つめの要因。それと、右手を出しな」
いつの間に持っていたのもか、差し出された傘を受け取り、
は逡巡した後、恐る恐るといった風情で右手を出した。
妖は、それを面白いものを見るように笑って見ている。それが何だか酌ではあったが、しかし、
をこのような状況に追い込んだのも“妖”だ。同じ種類のものに警戒してしまうのは致し方ないことだろう。
そう言い聞かせて、
は妖の反応に敢えて何も言わなかった。
右手を出すと、くい、と腕を引っ張られ、妖は少し首を巡らせて
の背後を覗き込むようにした。
「これが、あの妖が付けた“印”さね」
ちょうど、右腕の肘から二の腕にかけてくらいだろうか。女の妖がそのあたりに手のひらをかざして数瞬、何かの模様が、服から剥がれるように浮かび上がる。それを女の妖が面白そうに
に見せる。どういった原理なのか知らないが、手に触れているわけではないのに、手の平に乗っかるように模様が浮いている。ちょうど透明のボールに模様が入って、あたかも透明なボールをその女の妖が持っているかのようだった。
模様は幾何学的であるのに、どこか水蒸気にさらされているように、時折歪む。線が途切れては、また元の形に戻る。
「“いん”…?」
そういえば、先ほどの妖に掴まれたのもこの辺の袖だった、と
は思い起こす。腕の裏側の方だったから、しるしに気がつかなかった。
どん、
急に肩が人にぶつかって、すみません、
は咄嗟につぶやいて、次いで周りに人がいることに軽く眼を見開く。
人が、と知れず声が漏れた。
「人が街に戻ってきてる」
「あんたが、街に戻って来たんだよ」
「、…。…印を取ったから、か?」
「そうさ」
「…」
女の妖がふう、と息を吹きかけると、手のひらに浮いていた印が、風に吹き消されるように消えた。
「…。なんで、私を助けた」
「可愛げのない。どうして素直に喜べないんだい」
「………………」
素直に喜んでいいものか。
相手を見極めるように女の妖を見る。またキセルをふかし始めた妖も、じっと
を見返した。
一方は探るように、一方は品定めするように、長いような一瞬が過ぎた。
そして先に、ふ、と口元を緩め場の空気を崩したのは、女の妖の方だった。
「ふふ、いい眼だ。人間は嫌いじゃないよ。あんたみたいなのは、特にね。でも腑に落ちないってんなら、一つ借りってことにしといてやるさ」
「借り…って、随分とアバウトな」
それだけか、
はそう聞こうとして、ちょっと迷って、やっぱりやめておいた。
それじゃあもう一つ、などと面倒が増えてもたまらない。
「気が向いた時にでも返しに来てくれればいい」
そう言うと妖は踵を返して、雑踏の中を歩き出した。
もう話は終わりだと、もう用事は終ったと言わんばかりで。
そうしてようやく、
の中に、本当にこの女の妖は自分を助けに来ただけなのかもしれないという思いが湧いてきた。
そうなのだとしたら、わざわざ助けてくれたのだとしたら、自分はとんでもなく失礼な態度を取ったのではないだろうか。
は焦燥感から咄嗟に声を上げていた。
「あ、待って!……え、っと……あんた、名前は?」
「ヒノエ、さ」
お前は、と視線で促される。
「あたしは、
。
だ、ヒノエ」
「そうかい。
、達者にね」
「うん、その、なんだ、ありがとう!助かったよ」
ヒノエは既に小さくなっていて、人ごみにまぎれてすぐにでも見えなくなりそうだ。
が声を大きくして礼を言うと、軽く振り返ったヒノエは紅を引いた唇に綺麗な曲線を載せ、それは優雅に微笑んだ。
「どういたしまして」
微かに動いた唇は、そう言っていた気がする。
声は既に、ほとんど聞こえなかったけれども。
人間も妖も、変わらない。良い奴も、悪い奴も、いる。
だから、見極める眼が必要だ。
それがどんな相手であるのかを。
「………。…、いい妖だったな」
もっとちゃんと礼を言うべきだった。
次はいつ、会えるだろうか。
往来の中で、
はぽつり、つぶやいた。
2011/02/28