体がだるい。
なんだか熱っぽいような気もするし、これは本格的に風邪をひいたかもしれない。
は悪態をつきたいのをこらえて、いつもより熱い息とともに溜息をついた。











世界が狂った日












なんとか全ての授業を終え、はふらつく頭を抱えて席を立った。

、気分悪いのか?」

同じく帰り支度の田沼が、顔色の優れないを見て怪訝そうな声を出す。
無表情なのはいつものことだが、いつにも増して顔は険しく、しかも顔が青白い。少し動くのも億劫だとでも言いたそうな顔をして、ゆったりとが振り返った。

「……、なんかこう、…ダルい。今日はもう帰る…」
「送っていこうか?」
「いい。ついて来るな」
「心配してるのに」
「…お人よしめ。けど、ホント、大丈夫だから」
「、そっか…。お大事に」
「ご丁寧にどうも。また明日な」

いつもより数倍重たく感じるかばんをかついで、なんとかはいつもの帰路を歩き出した。
足を踏み出して地に足が着いたその振動すら、今のには煩わしい。その度に身体が“きつい”と悲鳴を上げているような始末だった。
変な意地を張らずに付いてきてもらえばよかった。そう考える傍らで、は妙な違和感があることに気がついた。






―――いつもの景色が、いつもとは違うもののように感じる






透き通る青が、空の果てまで続いていて。


木々の緑が、いつにも増して青々としていて。


道端に生えている草も花も、なんだか嫌に生き生きとしていて。


風が、とても香しい香りを連れてきているような。


空気が、まるで自分を守るように包み込んでくれているような。





「(風邪のせいだ)」

初めてだった、こんなふうに感じるのは。

急に夏のような日差しが届いた日には、木々が落とす明瞭な影にいつもの景色が違うもののように見えることはある。
けれどこれ(、、)は、明らかに季節感とかそういったものとは趣きを異にするものだ。

違和感に気がついても、原因究明しようと思考を働かせる余裕はなかった。体中が動きたくない、つらい、ダルいと悲鳴を上げている。
ようやく家が見えてきたときには、長旅をして久しぶりに家を見たときのような感慨があった。

バチッ、指先に痛みを知らせる静電気に、けれどついに舌打ちがこぼれる。いつもなら少し驚く程度で済むものでも、今は酷く煩わしかった。数度手を軽く振ってから再び玄関のドアノブに手をかけてドアを開けた。

「(とにかく、横になろう)」

靴を適当に脱ぎ、制服をハンガーにかけると、倒れこむようにベッドに飛び込んだ。












「熱がない?」

翌日、いよいよ本格的に倒れそうなふらふらの状態で、はそれでも学校にいた。

「…いつもより、少し、高いくらい」
「こんなに調子悪そうなのに?」
「あたしだって知るか……」

こんなにダルいのに、こんなに辛いのに、熱はない。
父には気合が足りないだとか言われる始末で、結局うまい口実も見つけられずに、こうして学校に来ている。
保健室で症状を訴えても、昨今の高校生はタルんでいる、と体温計を見て苦笑をもらったのみだった。そりゃそうだ、気分というよりは気合が足りないばかりに保健室に足を向けるのは最早サボりの常套手段。
保健医は医者というよりむしろ相談役で、だからあたしの症状に正しい診断をくだせないんだ、とは熱い息を吐きながら机に突っ伏した。







結局、体育の時間中に見事気を失って倒れたは、放課後、保健室で目を覚ました。







「…………………………………最悪」
「目覚めの一言がそれとは、ご挨拶だな」
「………………田沼」

最早顔を向けるのも面倒になって、声だけを傍らの田沼に向けた。西日がカーテンの隙間から時折、室内に入ってくる。保健室がほんのり色づいていた。
静かな室内で、心配そうにこちらを伺う気配がする。微かに視界に入る田沼の眉間に皺が寄っていた。

「(あたし、相当ひどい顔、してんだろうな)」
「まだきつい?」
「………………………変わらず」
「そっか。さっき保健室の先生がの親父さんに電話したんだけど、親父さん来られないって。タクシー呼ぼうか、って言ってたけどどうする?」
「…………頼む」
「分かった。ちょっと寝てろよ。タクシー来たら起こすから」
「…悪い」

カーテンが開いて閉まる音がして、その向こうで先生と田沼が話す声が小さく聞こえる。
どうして保健室というものは、こうも気持ちを寂しくさせるのか。
きっとそれは保健室だからというよりも、の体調が悪いからだ。
そんなことは自明のことだ。
分かっていたけれど、零れそうになる涙を慌ててつなぎとめ、は硬く硬く、目を閉じた。








陽がだいぶ傾いて、空が綺麗に夕焼けを演出する。
保健室の先生は先に行ってタクシーの運転手にお金を払ったり行き先を告げたりしている。あとからさんを連れてきて、と言われた田沼がを起こすと、はこの世の終わりを見たような目で数回瞬きをして、それからもっそりと起き上がった。
夕焼けの下を、は田沼の腕を掴んで歩いた。もうすでに一人ではふらふらで真っ直ぐに歩けなかった。タクシーまでゆっくりと歩きながら、田沼はひどく言いづらそうに、あのさ、と口を開く。

の症状、ちょっと変だろ?」

変な聞き方だ、と思う。
しかし、言いたいことは分かる。
熱はない。
風邪のようでもなければ、持病があるわけでも、その他の病気の兆候があるわけでもない。

加えて、なんだか妙な感覚がする。
五感で感じるすべてが、何か、変だ。
妙な感覚があることは田沼に話した。
体調が悪いからいつもとはいろんな物に対する感じ方が違う、それは確かに筋が通っているように思える。しかし、得てして特異な体質の人間には、それだけでは説明が付かない事象というものが多くあるから面倒なのだ。
どうやら田沼は、そのことを言っているらしい。

「悪いとは思ったんだけど夏目に聞いてみたんだ。もしかしたら妖か何かに当てられたんじゃないかって思ったから、夏目なら何か分かるかと思って」

田沼自身、妖にあてられて熱を出したり体調を崩すこともある。
だから、今回が変な体調の崩し方をして、田沼は訝ったのだ。もしかしたら何か妖に関係があるのでは、と。

「夏目は分からないって言ってたけど、もし良くならないようだったら原因探してみるし、夏目も知り合いに聴いてみるとも言ってたよ。とにかく何かあったらすぐに言えよ」


――あんたどこまでお人よしなんだ


喉まで出掛かった言葉をは呑み込んで、代わりに「ありがとう」とつぶやくように言った。
田沼は素直に言われたことに苦笑して、(だって普段では絶対に有り得ないのだ)、しかし気遣うように、大丈夫だから、との頭をやさしく撫でた。
タクシーに乗り込むと、タクシーが走り出すのを待たずに、の意識はすとん、と暗闇の底へと落ちていった。











“ダメだッッ!”


意識の中で叫んだのかそれとも声に出したのか、その声が自分のものか他人のものか、それすらも分からないまま、その言葉にの意識は一気に覚醒した。


息が苦しい。
動機がひどくて、めまいがする。
喉も、
額も、
臓腑も、
体も、
どこもかしこも焼けるように熱い。
ひどく汗をかいている。
呼吸が速い。

自身の異常を認識すると同時に、激しい音が車内に響く。

「ひぃッ!」

おじさんの声が聞こえて初めて、はここがタクシーの中であることに思い至った。
見れば白い布を被った後部座席の上でキラキラと何かが光っていた。
頬に小さな痛みをいくつか感じて、キラキラに触れようと手を伸ばすと指先にも小さな痛みが走る。それがガラス片であると理解する前に、今度は車が大きなブレーキ音と共に止まった。

もう自分の状況を判断することも出来なくて、けれどとりあえず何かに掻き立てられるようにはドアを開け、歩道に転がり出た。
窓ガラスが粉々に砕けて風通しの良くなったタクシーを振り返るような余裕は、にはない。

胸が苦しい。
息がしづらい。

頭の中で何かがぐるぐると渦巻いて、思考が混乱する。
片方の手で胸を鷲掴む。何も変わらない、分かっている、けれど胸が苦しい。
痛みから逃げようと、足は少しずつ道を走り始めていた。
学校から少し離れてはいるようだが、まだ家までには少し距離がある。見慣れた公園が視界に入り、は逃げ込むように公園へと足を向けた。

「はぁ、はぁ……な、に、これ……」

苦しい。
苦しい。
この痛みは、なんなんだ。
いくら空気を吸っても足りない。
頭を振っても、ますます熱が身体に集まる気すら、する。

「(も、まじ、わけわからん)」

膝を折って、すがるようにベンチに手を突いて地面に座り込んだ。
大きく息を吸い、はいて、また吸った。

空気が甘い。
熱いのに、なぜか香しい。
風が渦巻く。
夕焼けが血のように紅い。
むせ返るような暗い緑が迫る。

「(ちょ、もう、ダメだ…)」

“誰か”、声にならない声を上げる。
夕暮れの公園には、幸か不幸か、誰もいない。
誰か、助けを求める声に、応えるものはない。

目線をさげて、はっとした。

片方の手は制服の胸の辺りを掴んでいる。もう片方の、地面に着いた手の下。草や小さな花が、着いたの手を中心に、枯れていく。

「っ!」

慌てて手を離す。
重たい頭をめぐらせてみれば、手の下だけではない、自分の座ったところ、ベンチの近くの木すら少しずつ茶色に染まり、やがて枯れて葉を落とし、焦げたような黒に変わり、枝が細り、木が腐っていく。
ぽとり、近くに虫が落ちた。蝶、とかげ、生きているものが、木々と一緒に黒く変わっていた。

「なんだよ、これ………」

状況が、混乱する頭に拍車をかける。
何が起こっているのかわからない。
自分の状況も。
苦しい体も。
自分を中心に広がる黒い“何か”も。

ぶんぶんと頭を振る。
夢だとは思えない、夢じゃないのは分かっている、けれど現実にだって見えないのだ。
頭を振っても目をこすっても消えず、確実に広がっていく“闇”に、侵食される景色に、の頭はいよいよ混乱した。
景色が色を失っていく。
急激に生気が無くなっていく草木、花々、虫、生きるものが全て、の周りから居なくなっていく。

「わけ分かんないって……、止まれ、………止まれ、よ………」

頭がおかしくなってしまいそうだ。
は、小さく蹲って頭を抱えた。耳を塞ぐ。小さく小さく、背を丸めた。

どうにも出来ない。
自分が分からない。
これは自分がしているのか。
妖の仕業か。
何かに巻き込まれたのか。
ここは、これは、この状況は、なんなんだ。

!」
「ち、暴走しおって!」
「あ、先生…!」
「夏目、小僧、下がっていろ!」

小さく小さくなったに、声が届いた。
少し遠い。けれど、こちらに向けられていることは分かる。
声は3つだ。2つはよく知ってる。

「気を沈めんか、小娘!」

知らない一つの声が叫ぶ。そして、急激に近づいてきた。
ざわり、まるで近づく者を拒むように、を取り巻いていた闇が蠢(うごめ)いた。

ダメだ、あたしに近づいたら…

「近、づいたら…、ダメだ!」

無我夢中で叫んだ。
何かがの声に応えるように膨らんだ。
その何かは、きっとを取り巻く闇だった。
しかし残りの一つの声は、膨らんだ闇も意に介さずに向かってきた。近い。

「ええい、ごちゃごちゃと!」


バシッ!


大きな光が翻った。
目の前が金色の光に包まれて、辺り一帯が光の渦になる。

「(え…)」

金色の渦が、ぐわ、と広がって。
そのまま、黒い闇をものすごい勢いで吸い込み始めた。
どのくらいの時間かは分からないが、恐らくそんなに長い時間じゃない。
金色の渦に呑み込まれ、黒い闇が霧のように散り散りになり、やがて小さくなっていく。闇が消えても草木が元に戻ることはなかったが、しかしこれまでの侵食は止まったようだった。

広がっていた闇が霧散して、同時に金色の渦も姿を消し、後には、こちらを見る田沼と夏目、それに、白い美しい妖がいた。

「…は、はぁ…、は……」

息が苦しい。
けれど、先ほどの息苦しさとは違う。既に、息が出来ないほどの苦しさはなくなっていた。そういえば、熱っぽさも消えている。
この短い間に何が起こったのか、わからない。

分からないことだらけだった。

!」
「大丈夫か!」

白い妖は目を細めて、こちらを見下ろしている。けれど何も言わない。
田沼と夏目が駆けてくる。
二人が視界の中に入ってきて、こちらに向かってきて、に声をかける。


―――世界に、色が、戻ってきた。


「田沼、夏目…」

涙が一筋、頬を伝った。

「も、まじ…、ダメだと、思っ…」
「大丈夫、もう大丈夫」
「よかった、間に合って」
「うん、………うん…」

それから、白い妖の助言で、は田沼の父が住職も勤める寺へと身を寄せた。
まだ完全には落ちついていない、らしいのだ。もうここまで悪化することはないにしても、また周りに影響があるかもしれないから、と。
今回は白い妖が、その瘴気(、、)を取り払ってくれたらしかった。
住職のもとにいれば、いくらか身の穢れも清められると白い妖は言った。

事情を聞いて、田沼の父は快くを受け入れた。







その日、は泥沼のように眠り、三日三晩、眠り続けた。














2010/11/07

たまには少しテイストを変えて。

不思議だ 10-1