「……?…!」
首を傾げて一転、辿り着いた答えに
は少々驚いた。反射的に左手が跳ね上がり、変なポーズで静止した。
いや、だって、こんな場所にいるはずがないのだ。
「伊東甲子太郎!…だ」
かなりズレた名前が飛び出してきて、それを向けられた相手は気障な笑みを湛えたまま、ん?と少し首を傾けた。
彼はそんな名前では、ない。
思ったよりも
近くのスーパーまで買い物に出掛けようと適当な格好に上着を引っ掛けて、財布だけ持って歩いていた道の上。庶民的な商店街へと差し掛かる手前のありふれた景色に、明らかに場違いな雰囲気を纏った男を見つけて、思わず彼の名が口をついて出た。
正確には、その役名である。
顔は見たことがある。最近よくテレビで見かける俳優だ。
けど、本名は知らない。
咄嗟に出た名前が、以前国民的ドラマでこの青年がやっていた役名。父が見ているので、
も毎週末にはそのドラマを見ていた。
彼は、
の頭の中では“伊東甲子太郎”だ。
「…不思議な雰囲気、だ」
もちろんその“不思議な雰囲気”なるものは目に見えるわけではないし、証明してみせろ、だとか言われたとしても出来るはずもないのだが。
しかしそう感じてしまうからには、やはり何かしら感じ取ってしまっているのだとは、思う。なかなかにして、変な方向へ厄介な感じの雰囲気だ。
日常の一風景にまぎれて姿を現した青年は、彼の名前をつぶやいた
の声が聞こえたのだろう、辺りをキョロキョロと見渡し、視線が
に行き着くとニコリと笑って見せた。
大概の女性ならばここで胸をトキメかせたり、彼(、)を知っている人であったら黄色い歓声の一つでも上げるに違いない。
けれど残念ながら、
にそんな可愛気を求めてはいけない。
笑顔を向けてくれたのでとりあえず軽く会釈をして、けれどそれ以上留まることをせずに踵を返した。いつも通る道には青年が立っている。真正面からすれ違う気にもなれないので、わざと彼を避けようと慣れた道から1本入った道を行こうと方向転換した。
彼の名前を咄嗟に言ってしまったことをちょっぴり後悔する。
野次馬にはなりたくなかったし、そう思われるのもなんだか癪だからだ。
しかし目を外す直前、メガネにかけた男の手に這う黒い痣を見て
は目を見張った。
見間違いかと思ったが、しかしそのヤモリのような形をしている痣は確かに移動していた。痣は手の甲でくるりと一回転し、そのままするりと袖の中へ消えた。
「(……見なかったことにしよう)」
それを伝えた所でどうなるわけでもない。自分には何も出来ないし、見えないもののことを言った所で信じてもらえるはずもない。
気持ち早足にスーパーの裏手に回った所で、ちょっと、と後ろから声を掛けられた。
これは彼の声だ、いや違うだろうなんで私なんかに、と頭の中で問答する。
もしそうだとしてもこれは自分に向けられた声ではない、そうに違いない。
半分変な汗をかきそうになりながら
はスーパーの入口へ回った。
自動扉が開いて中の喧騒が漏れ聞こえる。とりあえず、今は買い物だ。買い物カゴに手を伸ばしたところで、
「やあ、ちょっとそこでお茶でもしないかい」
手を掴まれた。
の頭には盛大に疑問符が浮かぶ。
―――でも、とりあえず、彼の問いに対する答えは出ている
「…そういう手合いお断りしてます」
もっと自分以外にも誘う人間は大勢いるだろうに。振り返ると、案の定そこには先程の青年が立っていた。
多少迷惑そうな顔をしてみせても、相手は眉一つ動かさない。それどころか変なオーラのオプションまで付けて、再びニコリとした。
――なんだか新しいタイプだ。対応に、困る。
「あれ、今忙しい?」
「残念ながらその通りです。ここ、どこだかご存知ですか」
「スーパーだね。買い物?じゃあ荷物持ちでもするよ」
「結構です。夕飯の支度しなくちゃいけませんので、これで」
波風立たない程度にさっさと歩みを進める。流石に店の中にまで付いては来なかった。
なんなんだ一体。カゴを取って野菜売場へと足を向けた。
冷蔵庫の中身を思い出して品を選びながら、驚きのせいでいつもより早い鼓動をなだめすかす。
いくら何でも田舎の小娘を相手にするようには見えないあの青年が、一体全体、なぜ自分なぞに声をかけて来たのか。
自分が普通の人とは違う点。唯一考えられるとしたら、妖に、あるいは妖が見える特異な体質に関係している、ということ。
ふと思いついた考えに、まさか、と自分で否定した。そんなの、見ただけじゃ分からないだろう。
無数に浮かんだ疑問符を頭から追い出して、今日はシチューにしようかな、とブロッコリーを手に取った。
「荷物、持つよ」
スーパーを出た途端に後ろから掛けられた声に、この人間の存在を早くも忘れかけていた
は一瞬固まってしまった。数秒後、詰まっていた息をゆっくりと吐き出す。
「あの、何を血迷ったのか知りませんが。迷惑です、そういうの―――」
振り返り、初めてまともに青年の方を見る。確かに整った容姿をしている。服のセンスも悪くない。おそらく値段を聞けば思わず溜息をついてしまう位のブランド物を身に纏った男は、どう見ても“好青年”だ。
けれど、今はそれどころではなかった。
彼の隣にいる女が目に映り、
は言葉を飲み込んだ。
――なんでこんな所に、妖が
夕闇が迫っているとは言えまだ辺りは明るい。しかもこの人通りの多いところで妖を見かけるというのは、ひどく珍しい。
長い黒髪の女は青年の横に立っている。人間のように見えなくもないが、額に乗る文様と面妖な顔つき、そして気配がそれを否定している。なにより、
「(髪の毛動いてんだけどっ!)」
に向かって宙を伸びてくる髪の毛はどう見ても人間業じゃない。
青年のことなんて一気に思考から吹っ飛び、
は足を引きずるように数歩後退した。なんだかよく分からないがここから離れた方がよさそうだ。
多くの人の中で騒動を起こすのだけは避けるべきだ。その一心で
は足に力を入れて、走りだそうとした。
「やめなさい瓜姫。女の子に手荒な真似をするもんじゃない」
「…え、」
頭の中で絡まった思考が動きを止めた。
男が声を掛けた。しかも妖に向かって。
妖は動きを止めた。男の声によって。
妖は男を見ている。男も妖を見ている。
―――彼は妖が見えている?
というか、今の様子では、まるで。
「これが見えるのかな、やっぱり」
青年は的確に女の妖を指さした。
不覚にも、
は素直に頷いてしまった。
女の妖は申し訳ありませんと一言つぶやいて、そのままドロンと消えてしまった。その後結局、青年に荷物を持ってもらいながら、二人は商店街の休憩場所に腰を落ち着けていた。広場は家路に急ぐ人や夕飯の買い物をする主婦で賑わっている。
「
、です。えーっと………。伊東さんは何しにこの町に?」
「それは役名。私は名取周一」
「(そんな名前だったんだ…。)…名取さんはなぜこの町に?」
先程ちらりと考えた思考が意外にも的を得ていた事に嘆息したくなる。そんな予想は当たらなくていいのに、と。
どうやら、見る人から見れば、同類は見ただけで分かるらしい。
「町へはこの前の取材でお世話になった人に挨拶に来ただけなんだ」
「――そう言えばついこの間、ロケでなんとかいう俳優が来てるって噂になってましたね」
この人だったのか。
やっと合点がいったというように
が言うと、うん、と名取は笑った。
――そっちのがよっぽど自然なのに
思ったが口には出さないでおく。
「で、田舎の小娘捕まえてどうしようってんです?」
「人聞きが悪いなあ。君が不思議な妖力を持ってるもんだから、つい、ね」
「新手のナンパですか」
「あはは、違う違う。単に、話しがしてみたいと思っただけさ。君も、見えるんだろう?」
「…まあ、はい、多分。一応」
真っ直ぐに言われると返ってどう答えればいいのかに迷ってしまう。
見えるのか、その問いの答えは確かに、Yesだ。けれども全く知らない人間に、仲間を見つけたことを喜ぶかのようにそう問われると、なんだか、素直にはいそうですとは答えにくくなった。
自分は田沼や夏目にそう言ったくせに、いざ相手に言われるとなぜだか妙に言葉に窮してしまう。つまるところ、気恥ずかしいのだ。
「その、名取さんも妖……見えるんですよね」
「うん」
はっきりと言い切ったその言葉に、微かばかり目を細める。
いくらも長く生きているこの人は、その力とうまく付き合って生きているんだろう。こうして仲間を探せるくらいには慣れている。それが彼の普通なのかもしれない。
だからわざわざ自分などに声をかけてくれたのだろうか。仲間を見つけたから、わざわざ追いかけて、外で待っていてくれた―――
は、先程の自分の態度を少しばかり後悔した。
「私は裏稼業で妖祓いをしていてね」
「、あっ…」
妖祓い?
一瞬、耳を疑った。
そんなものが存在するのか。本当に。しかも、裏稼業って。
「え、じゃあさっきの妖は?」
妖祓いが傍に妖を連れているのはおかしくないか?
そう
は思ったのだが、その考えはどうやら正しくない。
「あれは式さ。私が使役する妖だよ」
「式…使役?」
「君は式を知ってる?」
「小説とか映画とかの知識ですけど…」
自己紹介がてらに彼が話してくれた内容は、驚きの連続だった。
それは妖の話だけに留まらず、妖祓いと呼ばれる人たちのことや、その会合があること、妖を式に下すということ、紙を使った術のことなど、多岐に渡った。
思ったよりも話しやすい名取の性格に、
は思わず色んなことを尋ねていた。
ナンパ男だと思った青年は、見かけ通り(、、、、、)、紳士だった。同類の、しかも目下の子供を見つけてそれを気にかけ、色々と教えたりお節介を焼く程度には、思ったよりも、親切でもある。
仲間や友達というよりは、頼りになる近所の兄ちゃんのようだと
は思った。
「驚いたかい?」
「そんな世界があった、のは……、驚きました」
「もし興味があるなら教えてあげるよ。身を守る術は知っておくべきだ」
「はあ…。まあ、今まで大した事件に巻き込まれたこともないんで、あんまり必要性は感じませんけど。でも…」
「ん?」
「それを知るのは、面白そう、かも」
「そっか」
「はい」
話しもほどほどに、まだ仕事だとかで早々に名取は帰っていった。
名取周一。もう会うことはないだろう。ああは言ってくれたけれども彼は社会人で、忙しい人であるはずだ。携帯の番号も交換しなかったし、連絡先も知らない。本来ならば交流を持つような立場の人でもない。
ああチクショウ、なんだか楽しかったじゃないか。手を振って遠ざかる名取の背中を見ながら、名残惜しい、なんて思ってしまったのは絶対に秘密だ。
思ってもみない再開に
が再び驚くことになるのは、そう遠くない未来の話。
2010/02/21
伊東甲子太郎は大○ドラマで数年前に出てた人。