ごくごくたまに、ではあったが。
彼の名を聞いたことがあった。




それを語るのは、決まって異形の者達。
妖たちが彼について口にするとき、決まって彼は“すばらしい妖”であるようだった。“優しい”だの、“強い妖力をお持ちだ”だの、そういった類の話。
それは尊敬とも憧れとも取れる話ばかりで。
この辺りの妖が知るほどに余程有名で、そして偉大な、どこぞの山とか森とかの主(ぬし)なんだろうと思っていた。
もっとも、彼を疎ましく思うような質(たち)の悪い妖と言葉を交わすことはなかったので、もちろんそれが偏った意見であるだろうことは想像出来たのだけれど。




あるとき、一人の妖に会ってから、はまさしく飛び上がらんばかりに驚いてしまったのだ。
そう、――――“ナツメサマ”は、人間だったのだから。










分からないんだ








「もし…どなたか……もし…………あの…………――様をご存知ありませんか……もし………」

陽も落ちて辺りに夜の帳が落ちた頃。
は、帰りが遅くなって少し早足で帰路についていた。
自然豊かな、そう形容出来る場所にある家までの道のりは当然、街頭のない道も多い。そして、灯りのない場所にはなぜだか、そういった者達(、、、、、、、)が多く潜むことを、は今までの経験から良く知っていた。
もとから妖が見えて、かつすでにそれに慣れているといっても、やはり急に出てこられれば驚くし、しかも妖は善良な輩ばかりではない。

いつもの暗がりにさしかかったとき、聞こえてきた声に溜息を付きたくなった。


―――いる


何か、普通の人間には見えないような何かが、立っている。
にとって妖は普通の人間と全く同じように目に映る。透けるとか、オーラのようなものがあるとか、そういう気の利いた(、、、、、)ことは一切、ない。そのせいで昔は人間との区別が付かないこともしばしばあったが、今ではその違いが分かるようになった。
なんと言っても妖は人間なら普通しないような姿をしていることが多い。老婆以外で着物姿、その上お面やら紙切れやらを顔に付けていることも多いし、それに妖の着ている着物はどこか和装とは違っている場合が大半だ。
外見から、おおよその当りをつけることはそう難しくない。

今目の前でおろおろしている者も、白と灰の着流しのような服装だった。それにお面とくれば、まあ間違いないと思った。
妖だろうが人間だろうが、誰彼構わず「もし…」と話しかけている。しかしそのほとんどは人間のようで、妖が見えない人間は彼の前を素通りしていく。
その度に肩を落としていたが、しかしとてそこまでお人よしでも妖好きでもない。
他の人間同様、聞こえないフリ(、、)をして前を通り過ぎようとした。

けれど、妖が言うことを聞いて、一瞬足を止めてしまったのがいけなかった。

「ナツメ様をご存知ありませんか……もし……」

“ナツメサマ”?
ん?待て待て、この辺にいるような簡単な奴じゃあないのでは。

一瞬止まったに、妖はすぐさま反応した。

「もし、そこのお方…ナツメ様をご存知ですか?」

ああ、やっちまった。
思ったが、見るに無害そうな妖だし、そこまで邪険するような妖でもなさそうだと判断して、仕方なしには妖の方に顔を向けた。


「(はあ。)いや、名だけなら聞いたことがあるって程度」
「本当ですか?ナツメ様は今どこに?」
「知らん。大体、主(ぬし)とかっていうのは、こんなとこにいないもんなんじゃないの?山とか森とか探せば?」
「人間様、ナツメ様は主様ではありません」
「あれ、違うのか。えーっと、とりあえず人間の町で探すより、よほどその辺の藪の中の方が妖は見つけやすいもんなんだ。ほかを当たってくれ」
「人間様、ナツメ様は人間です。藪の中にはおりません」
「…………………………マジ?」





なぜかそれから家にまで付いて来た妖、葎(むぐら)が言うには、ナツメは友人帳というのを持っているらしい。
なんでも、その愉快な名前の手帳には妖たちの名が書かれていて、名を奪った妖たちを従わせることが出来るのだとか。
それは“友人”とは言わないんじゃあ、とはナツメに言わなければいけない言葉だろう。
葎は自分の名を取られてしまったので、それを取り戻しに来たんだという。
それの手伝いをしてほしいと人間に頼むあたり、よほど切羽詰まっているのだろうか。それとも、人間にとって妖は異形でも、妖にとって人間はそうではないんだろうか。
とにかく、明日知っていそうな人間に聞いてみるからということで、その日は落ち着いた。
葎はまた明日尋ねてくると言って、夜の町に姿を消した。








翌日。

「田沼。ナツメっていう人間に心当たりはないか?この辺の奴とは限らないんだけど、なんかそれっぽいのを見ることが出来るやつみたい…なん、だけど……?」

廊下で見かけた田沼に声をかけると、田沼は驚いたようにを見て、え?と一言。
それにも首を傾げる。田沼は少々驚いた表情のまま口を開く。

、夏目のこと知らないのか?」
「ん?ってか田沼知ってんの?」
「うん」
「有名人?」
「そういうわけじゃないけど。てっきり知り合いかと思ってた」
「あたしとナツメが?」
「うん」
「なんでまた」
「あ、いや、夏目も見えるって言ってたから…」
「それは安直すぎる」
「ハハ…」
「で、ナツメってどこの人間?」
「この近くだよ。というか、俺らと同じ学年、隣の二組」
「………ホントに?案外いるもんなんだな、身近に」
「夏目も最近越してきたんだけどね」



終礼が終わってから、二組に行くつもりだった。
礼を終えてカバンを担ぐと、校門の所に立っている影に気が付いた。
葎だ。
さすがに低級な彼では中まで入ってこれなかったのだろうか。あーあ、と思いながらもとりあえず二組へ足を向ける。

すでに終礼が終わってしまっていた二組は人もまばらだった。出てきた人たちにどれがナツメかを聞こうと思っていたが、中をのぞいた瞬間に、なんとなく分かった。

彼が夏目だ。

直感とか、そういう類のものはむしろあまり信じる方ではなかったのだが、窓の外の校門に目が釘付けになっている窓側の彼を見て、ああ彼か、と思ってしまった。
確かにそういうつもりで見れば、彼は少し人間とは違うような気が、しないでもない。いや、人間ではあるのだが。
なんというか、ひどく存在が薄いのだ。まるで空気のように。
けれどそれは外側(、、)の話で、中には強く主張する何かがある。例えるなら“力”のようなもの。おそらく只人(タダビト)には感じることの出来ない、何か。矛盾するこの2つのものは、しかしごく当たり前のように見事に調和して、共存している。
とにかく、変な違和感が拭えない。
うまく言えないモヤモヤを抱えたままは出て行く人の波に逆らって教室に足を踏み入れる。

「ナツメ?」

声に反応して、少し驚いた顔で“ナツメ”が振り向く。
同じ学年なので見たこと位はあるが、しっかりと見るのはこれが初めてだ。
とても整った顔をしている。それが第一印象。
色素が薄くて、なんだか女の子みたいだとは思った。

「うん、そうだけど」
「あたし、1組の。あんたを探してる人がいるんだ。多分、今あんたが見てたやつなんだけど」

夏目は一瞬考えたあとで、言われた意味が分かったのか、目を鋭く尖らせた。

「なんのことだ?」

――あれ、と思った。彼がナツメなら葎は見えているはず。的外れなことを言っただろうか。
しかし考えてみれば、いきなりあれが見えるんでしょう的なことを言われても、はいそうですよとは、確かにあまり言いたくない、かも?
それが初対面の人間になら、尚更。だから警戒されてしまったんだろうか。

「あーっと……悪い、言い方間違った。あんたに会ってもらいたいやつがいてさ、それが今学校の前まで来てる、んだけど………」

ナツメの鋭いままの目に、言葉尻が小さくなる。これは明らかに信じていいのかどうかを疑っているような、そんな目だ。

「……。とりあえず教室出ないか。あんたを探してたらしいんだけど、どうやら困ってるみたいなんだ」
「…」

夏目はと一緒に、しかし無言で教室を出た。黙々と歩く彼は、どう対応していいか迷っているみたいに見えた。

の父親は比較的そういうことを受け入れてくれていたから、妖が見えたりするその特異性について、あまり悲観したことはなかった。全く、ではないけれど。
理解者がいるというのは有り難いことで、だからはこの自分の持つ性質をしっかりと受け止めることが出来たし、“普通の”人のように振舞うにはどうすればいいのかを考える精神的余裕もあった。
それでも妖が見えるが故の奇妙な行動をしてしまうことはあるし、それのせいで奇異の目を向けられることもままあることだ。

――彼はどうだろうか

転校を繰り返しているというから転勤族なのかと思いきや、そうではないらしい。彼は身よりがなくて、つまり、孤児(みなしご)なのだという。
だから性格がひねくれてるというわけでもないだろうけれども、先程の反応を見るに、あまりその特異性に関しては良くは思っていなさそうだ。
は自分の浅慮に反省しつつも、今ので彼が気分を害していなきゃいいんだけど、と心の中で独り言つ。
そうする内に校門に辿りつき、葎がこちらに気づいて顔を上げた。

夏目にも葎の姿は見えているのだろう。こちらをじっと見ている妖を見返しているが、あまりいい顔をしていない。
校門に近づくにつれて、歩調を緩め、やがて止まってしまった。

「…」
「葎。案外早くに見つかった、お前の探し人」
「夏目様…名を…名をお返しくだされ…」

その言葉とともに、ざわざわ、と、どこか黒い、いやな雰囲気がひしひしと肌に伝わってきた。
何かが見えるわけではない。でも確かに、“黒い”と表現出来る何かが、葎から感じられる。 あるいは、葎が何かに変わろうとしているのかもしれなかった。
今までは普通の、低級な妖だったのに…?

葎の様子に、はこれまた葎が彼を「恨んでいる」可能性についても忘れていたことに気が付いた。
今まで夏目について悪く言うものはいなかった。だから、夏目は、少なくとも妖にとっては“いい人間”なのだろうと疑わなかった。
でも、もし自分が名を奪われて、いつ命が消えるとも分からない状況に陥ったなら?そして、自分の命運を別の誰かが握っているのだとしたら?
恨んでいても、おかしくは、ない。
ざわりざわりと濁った空気が少しずつ辺りを侵食する。葎を中心に広がるそれが、あたかもこちらに向かってきているようで。

「やめろ葎。あんたがどう思ってるかは知らないけど、危害を加えるつもりならあたしは止めるからな。必要なら話を聞いてやる。手伝ってもやる。だから、落ち着け」

夏目との間に立って、なんとか葎から“黒い”何かを取り払おうとは口を開いた。
目を細めて空気を睨む。葎は何も言わない。言葉も忘れてしまったのだろうか。
睨み合ったのは一瞬のようでもあるし、しかし長い時間のようにも感じられた。実際にはほんの少しの間だったかもしれない。

「葎!」

びくり、の声に反応して葎の動きが止まる。
止まったかと思うと、少しずつ葎に変化が起こり始めた。葎は見開いていた目を少しずつ穏やかなものに変えていき、それと比例して濁った空気が収束していく。やがて、葎は会ったときのように“普通の”低級な妖に戻っていた。
しかられた犬のように、沸き立っていた黒いものがしぼんだのが分かる。
それを見ては一つ溜息を落とした。自分が災いを連れてきたとあっては目も当てられない。その事態はひとまず免れたと思って良さそうだ。

「すまん、夏目。あたしもよくは知らないんだけど、とりあえず問題がないようなら名を返してやってくんないか?なんか、相当参ってるみたいなんで」

が言うと、夏目は少し驚いたように目を瞠って、それからちょっと歩こうかと言った。
葎は静かに後を付いてきた。







名を返した夏目は、酷く疲れたように溜息をついて、それから「悪かったな」と一言つぶやいた。すでに消えてしまった葎の影を追うように、夏目の目が遠い何かを見ていた。
葎が消えたあとの人気のない公園は、不思議とその寂れた様子を更に物悲しいものに見せた。人目を気にしてこんな小さな公園まで来たのは、もちろん名を返すところを人の往来があるような所で出来ないからだろうとは思うが、けれどその真意は別の所にあるのかもしれない。
ひどく寂しさの満ちた公園に、はすこし泣きたいような気分になった。

「別に、どーってことないけどね。てか、今更私が言うのも何だけど、よかったの?あんたが名を奪ったんでしょ。簡単に返しちゃったけど」

“友人帳”と書かれた少し古びた冊子をかばんにしまいながら、夏目は困ったように苦笑した。

「あれはもともと祖母のものなんだ。祖母が名を集めて回ってたらしくって…。わけあって、俺が返して回ってる」
「ご苦労なことで。……夏目、大丈夫か?なんか疲れた顔してる」
「……名を返した後はこうなんだ」

ふう、と溜息をつきながら、夏目はこめかみをしきりにこすっていた。
今見たことが、妖が見えるにとっても多少変わった出来事で、なんだか不思議だと思った。漫画に出てくるような"祈祷師"とか"陰陽師"とか"退治屋"とか、オカルトじみた人種が使う[術]とかそういう類のものみたいだと思ったが、それが本当に存在するのかどうか、は知らない。
それに名が大切だ、というのは聴いたことがあったが、それが命さえをも縛るものだとは思いもよらなかった。しかも、数多の妖の名を連ねたものを、同級生の白くて細っこい男の子が持っているのは、ひどく奇妙なことに思われた。

「夏目は、なんていうか、詳しいのか?そういうの」
「そういうの?」
「なんていうか、呪術とか式とか……なんかとりあえずそういった系のこと」
「いや、ほとんど知らないな。ほんの少し、以前人から聞いてやったことがある程度」

ということは、存在しているのか。しかもやったことがあるなんて、少し意外だった。

「そういう君は拝み屋か何か?えーっと、さん?」
でいいよ。あたしは変な妖らしきものを見ちゃう、ただのしがない女子高生さ」
「じゃあさっきのあれは?」

あれ?と首を傾げてみるも、心辺りがない。
本当に見えてしまうだけで何が出来るわけでもないは、自分が拝み屋なのかと聞かれて正直、的外れだ、と思った。
けれど、さっきのあれ、とは?

「何て言ったっけ。ああそう、清めの一波みたいな、なんかをしただろ」
「……何のことだ」
「葎が怨念に包まれそうになったときだよ。睨みを利かせて、黒い霧みたいなのを取っ払ったじゃないか」
「それは夏目じゃないのか?」
「俺はそんなこと出来ない。…もしかして、無自覚なのか?」

無自覚もなにも、そんなことをした記憶がない。いや、だから無自覚なのだろうが。

「実はあたし、すごいヤツ?」
「…なんだそれ」

くすくす夏目が笑うので、わけが分からないながらも、なんだか笑えてきた。
どうやら自分は見えるのではなく、中途半端に見えているらしい。




これが、夏目との、出会いだった。





2008/04/20

不思議だ 05