変な奴が越してきた。
奴は、人間だ。
――――多分。
根拠は、とりあえず、他の人間にも見えているようだということ、一応生徒みたいだということ、奴が八ツ原の新しい住職の息子であるらしいこと。
奴は変だ。というより、
は彼が気に入らなかった。
間が悪かった
一度軽く言葉を交わしただけだった。
確か、教室の入り口でぶつかりそうになって、悪い、と言われたので、別に、と、そう応えただけ。会話とも言い難い言葉のやり取りで、彼は酷く気分を害したように、すぐに顔をそらして廊下へと走り去った。
それだけならまだ別に、他の人間と同じように、また自分を変な目で見る大衆の一人だという認識で終わっていたかもしれない。
しかし、ことあるごとに、彼は
を見かけると血相を変えて、どこか驚くように、半ば恐れるように眼を見開き、そしてぱっと目を逸らす。時に、逃げる。
もう幾度もこう、あからさまな態度を取られると、さすがに
も彼のことを“奴”と呼びたくなるというものだ。
言い出すとキリがない彼女の立場上、やめてくれだの私が気に入らないのかだの、そう言った文句が口に上ることはない。それをやるだけ不毛だと、もう知っている。
けれども彼に対する文句が彼女の不意をついて口から出たのは、間が、悪かったのだ。
それは明確かつ、簡単で、そして酷くつまらない理由だった。
の機嫌は絶不調だった。
「なんで目、逸らすわけ」
男手一つで育ててくれた父に多大なる感謝はしているつもりだったが、多感な今の時期に、口げんかをした。つまり家の中の雰囲気は二日前から、親戚の訃報を聞かされた家の中のような妙に静かで、空気が粟立ったような嫌な色を帯びているわけだ。
その上、今朝は父が起こしてくれずに寝坊して朝食を食べ損ね、通学路をダッシュしている最中に妖の何かの行列らしきものに道を塞がれ、遅刻した(行列を横切れなかったのは
の良心からか、歩いていた妖集団が首なしの武士のような集団だったからか)。おまけに反省文を書かされる羽目になり、今日はそれが終わるまでは職員室からは出してもらえない。
運悪く、今が遅刻・服装の乱れ取締り強化月間とやらだから、だ。
間が、悪かったのだ。
今しがた合った目を瞬時に逸らして回れ右した奴に、
は不快な声音を隠すことすらせずに問いかけた。
奴はびくりと怯えたように肩をすくませ、恐る恐る振り返る。
と目が合うと、蛇に睨まれたカエルのように縮こまる。すぐにまた目を逸らし、にじりにじりと後ずさりした。
「あたしがそんなに不気味?」
腕組をした
はまるで親分が子分を叱り付けるかのようだった。
問いかけられた彼は、微かに首を横に振ったが、あまりに力ないそれに、
は今更ながら相当これに怖がられていることを悟った。
一つ大きく深呼吸をして、とにかく自分の中のとげとげして逆立っているものをなだめるように努めた。
コレじゃあ埒が明かないことを、これまた今更ながら、思い出したのだ。
「ごめん、悪かった。忘れて」
くるり、向きを変えてそのまま廊下を、今来た方向へ戻り始めた。本気でこのまま家に帰ろうかと考えた、矢先。
「人間…?」
黒髪の彼から呟かれた言葉に、
は勢いよく振り返った。
ひっ
効果音をつけるならまさにその通りのような反応を示した彼に、
はなるべく丁寧に口を開いた。
「あんた、あたしが、妖か何かだと、思ってたわけ?」
「…だって、いつも一人だった、し…」
ああ要するに、人間が周りにいないから、もしかしたら
は周りの人間には見えていなくて、自分だけに見える妖か何かかと思っていた、とでも言いたいわけか。
一人、その言葉にズキッと何かが軋む音がしたけれど、
は聞こえない振りをした。そんなものに一々構っていたら、それこそ埒が明かない。
「そ、れに、変な空気…、持ってるだろ、おまえ」
段々平静を取り戻したのか、奴はちょっとずつ自分の言葉が口をついて出るようになったようだった。
「そーうか、あんたの中で、妖ってのは出席の時に返事を返すものなんだ?」
「いや……」
「…てか、それが分かる時点であんたも結構、変だと思うんだけど?」
「…」
「あんたも見えるんだ。だからあたしのこと、妖と思って避けてたの?」
「俺は、見えないよ」
「は?」
「見えない。けど、稀にそれっぽい変なものを感じることがあって、たまに当てられて身体を壊すんだ。あんたからは、何か変な気配がしてたから……。…ごめん、怖かったんだ。正直言うと」
つまり、奴はそういったものの類には敏感なだけ、なのか。
そんな奴に、怖かった、言われてズシンと心臓の重さが更に増した気がした。妖や妖の見えない世間一般の大衆に言われるまでならまだしも、見えないにしても少しは感じることの出来るいわゆる”仲間”とも呼べる人間に、“怖い”と言われるのは、結構堪えた。
「あ、ごめん、でも、何か今はもう平気っていうか…。話したら、あんたが結構普通だって分かったから」
「
」
「あ、ごめん。
さん」
「
でいい。あんたは、確か…」
「田沼。田沼要」
「田沼、ね」
はあー
大きく息を吐き出して、とにかく気持ちを落ち着けようと思った。
おそらく自分のように見える、もしくは感じることのある奴くらい、いるだろうとは思っていた。
自分が見えるくらいなのだから、自分のような奴がいてもおかしくないと思ったのだ。世界でただ一人、自分だけがこんな、ある意味特殊な環境にいるのだと思うほど、
の世界はもうそんなに狭くはなかった。実際こうして今目の前にもいる。
けれど、実際に会うのは初めてで。
自分の目で見て“そういった人間”に話をしてみるというのは、案外、心の救いになり得るのかもしれないと、
は微かに思った。
自分と同じ、少なくとも似ている境遇で、育ったのだから。
しかし、感動的とは言わないが、もっとこうスムーズで、心を許せる友と出会うような、なんというか、せっかくなら“キレイ”な出会いがしたかったのだ。
それを、
の第一印象は“怖い”?
目も当てられない。
けれどそれを考えて、こうして今、目の前にその“同類”らしきモノに会えたという事実があることだけでも喜ぶとしよう、と
は心の中でつぶやいた。
「
は見える…のか?」
「かもね。あたしもよく分からんよ、実際」
「俺は」
続けようとした言葉は時刻を知らせるチャイムに遮られて、続かなかった。
「あ、俺今から職員室。悪い、もっとちゃんと話ししたいんだけど…」
「?」
実はいろいろ、話してみたいことがあった。聞いてみたいことがあった。奴もそうなのかもしれない。
自分だけの世界だったもの。
初めて世界を共有できるかもしれない人間との出会い。
田沼は時計を確認して慌てていた、しかし職員室に用事があるのは自分も一緒。
「あたしも今から職員室。もしかして田沼、今日遅刻した?」
「
も?」
「あらま。変なところでも同類なわけね」
「みたいだな」
どちらともなく一緒に歩き出して、二人は職員室へ向かった。
急がなくてもいい。
まだ時間はたくさんあるから。色んな話をしてみよう。奴は、彼は何と言うだろうか。
父ですら、知っていても信じているかは定かではない
のして来た体験に、彼は頷いてくれるだろうか。
の変わらぬぶっきらぼうな口調に反して、少しばかり足取りが軽いのは、決して見間違いではないはずで。
2008/04/20