「ジャーファルさま…!」

昼食時、今しがた食べ終えてフォークとナイフを皿の上に乗せたのを見計らったように、ジャーファルは声を掛けられた。振り返って見てみると、そこには予想外の人物が立っていて、ジャーファルはほんの少し目を瞬かせる。
少し距離を置いて立って居たのは、まるで王やジャーファルの視界に入ることさえも避けようとしているのではないか、と訝りたくなるくらいジャーファルの前には姿を見せない、だった。
顔を俯けたまま、けれど身体の横にある両の手の拳はしっかりと握られていて、どうにかジャーファルに「何か」を伝えようとしているのだろう、とジャーファルはを見て思った。

「どうしましたか」

なるべく優しく聞こえるように心がけながら、殊更気をつけて声を出す。
は何度か口を開いたり閉じたりしたが、やがて恐る恐るといったふうにそろり、と目線をジャーファルへ寄越した。

「お手隙の、さい、に……ちょっとだけ、お時間、いただけませ、んか……」

それだけ言うと、またさっと視線を床へと逃がす。
ジャーファルは一瞬目を瞬いて、それからなるべくゆっくりと言葉を紡いだ。

「ええ、構いませんよ」

その声に、明らかには肩の力を抜いて安堵したようだった。
は深く一礼すると、くるりと向きを変えて厨房の方へ走っていった。





13






以前、と話したことのある厨房横の部屋をジャーファルが覗くと、はそわそわと落ち着かない様子で部屋の中を歩き回っていた。顔を覗かせたジャーファルに気がつくと、一瞬驚いたように立ち止まって、すぐさま駆け足で寄ってくる。

「ありがとうございました」

すると先ほどそうしたように、ジャーファルの手前で急停止してから深く礼をして、感謝の言葉を口にした。
そのまま何か続けようとするに、とにかく座って話をしようと机へと促すと、は恐縮しながらも素直に従った。

「町は楽しかったですか」

そう切り出すと、はまっすぐとジャーファルを見て、はい、とはっきりと応えた。

「(おや……)」

普段もごもごと言葉を口にすることが多いのそのはっきりとした答えに、ジャーファルは珍しいと思った。
どうやら本当に町は楽しかったようだ。

「あの、えっと……実は、あたしが働いてた店の……女将さんに会ったんです」

は再び視線を彷徨わせながら、けれども頑張って言葉を探しているのか、いつもには無い様子で言葉が出てくる。
ジャーファルはアリババから昨日の事は報告を受けて知っていたが、本人の口から楽しそうに報告をされると、なんだかこちらまで嬉しくなってきてしまった。

「良かったですね、また会うことが出来て」
「……はい!」

は目線は床に落としたまま、けれどもはっきりと頷いた。
表情は相変わらず乏しいのだが、それでも確かに、嬉しいという気持ちがその声音や少し上気した頬からは伝わってきて、ジャーファルはの頭を優しく撫でてやった。
は驚いたように一瞬身体を固くしたが、それからそろりとジャーファルを見上げた。

は頑張りすぎなのです」
「……?」
「それに全く子どもらしくない」
「……すみません」
「ええ、しっかり反省してください。反省して、もっとわがままを言いなさい」
「……、……わがまま………?」
「そうです。自分がどうしたいか、相手にどうして欲しいのか。言い過ぎはもちろん良くありませんが、全く言わないのも問題です」
「……?」
「言っている意味が分かりますか?」
「……すみません」

謝りながら、は小さく首を横に振った。
には、いまいちジャーファルの言うことは分からなかった。
自分のしたいことを我慢する、それは食べるものにも困るような生活においては当たり前だったし、何かわがままを言うということは、即ち母を困らせることに他ならなかった。
きっと小さい頃はわがままを言って困らせた事もあっただろう。
けれどそれは、少しの分別がつくようになる頃には、戦争難民として各地を転々とする中で自分の首を締めることだと理解するようになった。
だからわがままはにとっては完全悪で、それをするのはまだ分別のつかない子供にのみ許された特権だと信じて疑わなかった。
それだというのに、ジャーファルは進んでわがままを言いなさい、と言う。

「あれをしたい、これをしたい、と思うことは、自分を前へと進める推進力になります。時にそれは前進の妨げになることもあるかもしれませんが、その全てを殺してしまっては、人間は進む道標を失います」
「……はい……」
「今は理解出来なくてもいいです。ですが、今度からは自分がこうしたい、と思ったことは、少しでもいいのです。口に出してごらんなさい」
「…少しでも……?……、分かりました」

納得したような、よく分からなさそうな顔をしていたが、はジャーファルの目を見てしっかりと頷いた。
それからジャーファルは、から昨日の町のこと、女将と話した事、アリババとどんな話をしたのかなど、少し時間をかけてと話をした。
突然が饒舌になるようなことは無かったが、それでもいつもに比べたらは、珍しく積極的に口を開こうとしていた。

「あの……アリババ、さんにも……お礼……どうしたら、いいでしょうか…………」

話が一段落ついた所で、は何か考えるように視線を右往左往させてから、ぼそりとジャーファルに切り出した。
昨日は結局女将に会った後、アリババと王宮に帰って来てからは御礼の言葉を伝えたのみで、それきり別れてしまった。何かアリババにもお礼を言いたい所だが、生憎とにはアリババにしてやれることなんて到底見当もつかない。
それでも、少しの疑問でもジャーファルに対して言葉にするようになって、ジャーファルはの小さいけれど、確かな変化に柔らかい笑みを浮かべた。

「それならば、こういうのはいかがでしょう」
「……?」

ジャーファルの提案に、は最初は戸惑った様子だったが、結局はやってみます、と力強く頷いた。
休憩室からジャーファルが去り際、はジャーファルに深く頭を下げて見送っていた。それを背後に見やって、これは王にいい報告が出来そうだ、と心なしかジャーファルの心も軽くなった。










「アリババ、さん……!」

修行が終わってから、アリババはちょうど赤蟹塔を降りてきた所だった。柱の影から顔を出すようにしてアリババを呼び止めたのは、つい数日前に一緒に町に降りただった。
その手には何やら、ハンカチをかぶったカゴを持っている。

「ああ、!ちょっとぶりだな。どうした?」

アリババが寄っていくと、何にそんなに緊張しているのかと思うほど、いつにも増して緊張した面持ちのが目をうろうろさせている。
何かあったのだろうかとアリババは勘ぐってしまうほどだったが、しかしがそれを知らせに来るというのも変な話だ。アリババは静かにが口を開くのを待った。

「………あ、えっと……その……いまから休憩、ですか…?」
「え?うん、そうだけど……?」

聞かれた内容は世間話の域を出ないもので、アリババは不思議に思いながらも首を縦に振った。

「えっと………これ、差し入れ………なんですが……あ、この前のお礼、………です……」
「あ、あー!えっと、なるほど!」

が差し出すカゴを見て、合点が行った。
なるほど、この芳しい匂いをさせているカゴが差し入れなのだろう。
なかなかどうして人付き合いの苦手そうなのに、わざわざは差し入れと称してこの間のお礼を持ってきてくれたということだろうか。

「ありがとう!中、見てみていいか?」
「えっと……はい……」

アリババはからカゴを受け取って、ハンカチをそっと外した。
下から現れたのは、美味しそうなクッキーと、ボトルに入った果実ジュースのようだった。

「すげーな!もしかしてこれが作ったのか?」
「あ、えと、あの、厨房の方に……たくさん手伝って、もらって……それで」
「それでが用意してくれたんだ?」
「あの………はい……」

は酷く落ち着かない様子で、けれど小さく首を縦に振った。

「そっか、サンキュな!すっげー嬉しいよ!」

アリババのまるで太陽のような笑顔を向けられて、はほっと一安心したように少しだけ、肩の力を抜いた。

「よかった…です……」
「うん!あ、これからアラジン達と落ち合うんだけど、よかったら一緒に行かないか?一緒に食べようぜ」

アラジン、その言葉に一瞬肩を揺らしたを見て、アリババは慌てて再度口を開く。

「あ、いや、もちろん嫌だったらいいんだけど…」
「……行きます」
「…え?」

てっきり、遠慮します、という返事が返ってくると思っていただけに、アリババは少し間の抜けた声を返した。
けれど今はは視線をしっかりとアリババに向けて、もう一度「行きます」とはっきりと告げた。

「あーっと……無理、しなくていいんだぜ」
「いいえ。マギ……、アラジンさん、とも……お話ししたいと、思って……ました……から」

そう言っては、意を決したように言う。
それならば、とアリババはまた笑みをこぼした。

「そっか、良かった。じゃあ、一緒におやつタイムだな」
「………はい…」

そうして二人は連れ立って歩き出した。










2017/01/22

渇いた、大地 13