結局、その日の修行は散々だった。
自分の作った風のコントロールが狂って、花壇を散々荒らした挙句に自分の魔法でかすり傷を作った。
かすり傷だけでもヤムライハはとても慌てて治療をしてくれて、それが治るとヤムライハは心底ホッとしたように
に笑顔を向けた。
それから、今日はやはり調子が悪そうだからと、先に上がるように勧められた。
なんとか頑張ると
は言ったのだが、ヤムライハがもうこれ以上は修行を許さないと言うので、
は渋々と部屋へと帰ってきた。
マギとの修行は続けるようだったので、それだけが救いだった。
ヤムライハがあんなに楽しみにしているマギとの修行を取り上げてしまっては、あまりにも申し訳がなかった。
厨房での手伝いも今日は禁止されてしまって、
は本当にすることが無くなってしまった。
最近は修行と厨房の手伝いばかりで、部屋には睡眠と取るためだけに帰ってくるのみだったから、部屋ですることもなくぼうっとするのは久しぶりだった。
文字を読むのもまだ苦手だし、かと言って用事も無いのに王宮を歩き回るのは気が引けた。
結局昼寝でもしようと、
は定位置になってしまった部屋の隅に置かれた掛布にくるまって、少し毛足のある絨毯の上で目を閉じた。
遠くで波の音が聞こえているような、そんな気がした。
12
控え目なノックの音で、
は目を覚ました。
まだ半分閉じたままの目で窓の外を見ると、まだ陽は高い所にあった。
なぜ目を覚ましたのか考えた所で、もう一度ノックの音が聞こえた。そうだ、自分はこのノックの音で目を覚ましたんだ、と
は認識した途端に「はい、」と声をあげていた。
自分のような得体の知れない人間の部屋の扉を叩くのが、ヤムライハぐらいしか居ないことを
は知っていた。
ヤムライハがこの部屋を訪れることも珍しいが、こうして訪れるということは、何か急ぎの用事があるのかもしれない。
は飛び起きて扉まで駆け寄って、急いで扉を開けた。
けれど、そこに居たのは予想すらしていなかった人だった。
「や、
!ちょっと町の散策にでも出ないか?」
そこに居たのは、マギを初めて紹介された時に一緒にいた青年だった。名前は、なんと言うのだったか。
「えっと……あなたは……」
「俺はアリババ。アラジンの友達さ」
「アリババ、さん……えっと、どうして……?」
どうして、自分なんかを誘うのだろう。
町へ散策に出掛けるのなら、マギや一緒にいた女の子と行けばいいのに。
それが顔に出ていたのが、アリババは笑いながら口を開く。
「うん、実を言うとジャーファルさんに頼まれたんだ。
が気晴らしを出来るように、ちょっと町にでもさそってみてくれないかって」
「……町に……ですか」
はこの王宮へ来てから、あのひと騒動あった時を除いて、まだ町に降りたことは無かった。
それがどうして急に、町へ降りるなどと。
もしかしたら、ジャーファルが昨日の事を気にかけて気を使ってくれたのかもしれない、とも思う。
ジャーファルやヤムライハは忙しいだろうし、弟子仲間のアラジンとは少し気まずいし、だからこのアリババという青年なのだろうか。
「あ、もしかして体調が悪いとか?」
「いえ、特には……」
「じゃあ、一緒に行こう。珍しいものでも食って、のんびりするのもたまには良いと思うぜ!」
「えっと……」
どうしようか。
行かない理由も、行く理由も、
には無かった。
彼は悪い人には見えなかったから、厚意を無下に断るのも気が引けた。かと言って、ほとんど見ず知らずの人と町に降りても、自分はどうすればいいのか分からない。
は逡巡して、けれど部屋の中にあるある物に目が留まって、
は数度瞬いた。
そうだ、これはいい機会かもしれない。
「……行きます」
「お、良かった。じゃ早速行こうぜ!」
「……はい」
は数少ない自分の持ち物の中から、少し重量のある袋を懐に入れると、アリババに付いて外に出た。
向かったのはバザールや国営商館など、この国でも特に賑わっている場所ばかりだった。
珍しい物を見てはアリババが楽しそうにそれを見せてくれたり、美味しそうなものは
に食べさせようとする。
どうやら少しはジャーファルから路銀をもらっているらしく、アリババは美味しそうな果物を見かける度に、
にこれはどうか、あれはいいんじゃないか、と声をかけた。
とてもじゃないが、ジャーファルのお金を使うわけにもいかず、
は心苦しいながらも何度もその勧めを断った。それだというのに、アリババは全く嫌な顔をせずに、始終楽しそうに
を色んな場所へ連れ回した。
よく出来た人だな、といくつも年上の青年を見上げる。
その内日も暮れそうな頃になって、町のだいぶ下層の方まで降りてきていた所で、アリババがそろそろ引き返そうか、と踵を返した時だった。
「あの、アリババ……さん」
「ん、どうした?」
今日はほとんど一方的にアリババが話しているばかりだったのに、珍しく
から話しかけて来て、アリババはそれでも常と変わらずに少し微笑んで
を振り返った。
「あの……一つ、お願いを……聞いて、もらえませんか…」
「お、珍しい!いいぜ、俺が出来ることだったら!」
「はい、あの……これ、を……あるお店に届けて欲しいんです」
そう言って
が取り出したのは、部屋から持ちだした少し重量のある袋だ。
中には小銭がたくさん入っている。
「これは?」
「……あたしが……厨房の手伝いをした時に、もらった…お駄賃です」
は厨房の手伝いをしてもらった駄賃を、全て使わずに取っていた。
それはある一つの思いからだ。
「あたしが迷惑をかけたお店に、と思って……」
酷くバツが悪そうな顔をして、けれどそれを悟られまいと
は俯き加減にどこか目をうろうろさせている。
「全然大した額じゃ……ないので…こんなんじゃなんにもならないって、分かっては……いるんですけど。……せめてもの償いをと、思って……。多分、あたしが行っても、門前払いでしょうから……」
そう言って、
はアリババにその小銭が入った袋を差し出した。
が以前働いていた店は、国の助けもあって再建され、また以前のように定食屋兼飲み屋をやっていると聞いている。
が貯めた駄賃だってそんなに大した量はないのだが、せめて少しでも何か、したかった。
欲を言えば、女将さんにだって会いたかった。
けれどそれは、叶わない願いだと分かっている。
自分が行ったって気味悪がられて追い払われるだけだ。そんな事は目に見えている。
だからせめて、このお金だけでも届けてもらおうと思ったのだ。
「それは、もちろん俺が行ってもいいんだけど……
、本当は
だってその店の人に会いたいんじゃないのか?なら、
が届けた方がきっと良いと思うんだ」
アリババは少し考えたようにしていたが、袋を受け取る事をせずに、
を真正面から見て言った。
アリババも、彼女がどうして王宮で魔法の修行をしているのか、一応ジャーファルから聞いて事の経緯は知っていた。だから強くは言えないのだが、けれど、それは彼女が行った方がいいような気がしたのだ。
「いいえ……あたしは、大変な事をしでかしてしまったから……だから、合わせる顔がないんです。……お願いします」
「でも……でもさ、
…!」
「……お願いします…」
そう言って頭を下げられては、アリババはもう何も言えなかった。
「……分かった、俺で良ければ届けて来るよ。何か伝える事はあるか?」
「…………“すみませんでした”と……そう、伝えて…下さい」
アリババは
から袋を受け取って店の場所を聞くと、
にここで待っておくように言って、店の方へと姿を消した。
は小さな広場の隅っこに座り込んで、夕暮れに赤く染まった町を見渡した。
買い物に忙しなく行き交う人々、道に飛び交う露天の店員の元気そうな声、人々の明るい笑顔。
それらが酷く遠いもののように感じた。
自分はそういうものを守るために力の使い方を学んでいるはずなのに、到底そんな事は出来ないのではないかという気になってきてしまう。
守れるだろうか、自分に。
守りたい、この景色を。
けれど自分には無理なのではないか。
知らず、兄弟弟子であるマギの事を考える。
無意識の内に彼と自分を比べてしまっていた。
彼なんかと比べると、自分はあまりにちっぽけに思えてならなかったからだ。
そんなことを悶々と考えていると、アリババが消えた路地から再び現れた。
けれど、今度は一人ではなくて。
は咄嗟に立ち上がって、ここから立ち去るべきか、どこかに隠れるべきか、明らかに狼狽した様子だった。
そうこうしている内にアリババは一人の女性を連れて
のもとに辿り着いた。
一瞬女性と目が合ったが、
はその顔を見上げて居られずに、俯いた。
そうして逃げられない、逃げるべきではないことを悟って、腹をくくって深く深く頭を下げた。
「女将さん……すみません、でした……」
アリババが連れてきた女性は、
が以前働いていた店の女将だった。
手には先程
がアリババに渡したはずの小袋がある。
「
ちゃん…」
女将は第一声に
の名を呼んだ後、しばらく何か考えているのか口を開かず、二人の間に重たい沈黙がおりた。
次に何を言われるのかと、
が冷や汗をかきながら地面を睨んでいると、女将がもう一度
の名を呼んだ。
その女将の声に、
は咄嗟に顔を上げた。その声が、今にも泣き出しそうに震えていたからだ。
案の定、見上げた先の女将は、目に涙をいっぱい溜めていた。
「元気そうで良かった…!」
そう言って、数歩の距離を一気に縮めて、女将は
を抱きしめた。
はその事実に硬直した。
罵られはしても、こうして元気な姿を喜んでくれるなんて、思ってもみなかった。
「会いたかったわ…!」
女将さんはそう言って涙をこぼし、
を力強く抱きしめた。
は最初、信じられないものを見るかのように目を見開いていたが、少しして恐る恐る女将の身体を抱きしめ返した。
それから、くしゃり、と顔を歪める。
「あたしも……、……あたしもです……!」
そうしてしばらく、二人は静かに抱きしめ合った。
2016/05/15