ヤムライハは通りかかった廊下で目に飛び込んで来た光景に、思わず笑みをこぼした。

中庭では、いつも修行の休憩時間や終わった後に集まるアラジン、アリババ、モルジアナの3人に加えて、が一緒になってあーでもない、こうでもない、と修行の成果を語り合ったり学んだものを試してみたりと、見ていて微笑ましくなるくらいに和気あいあいと時間を過ごしている。

今まではどこか違和感を感じていた、弟子たちの間に流れる微妙な雰囲気。
薄々気がついてはいたのだが、ジャーファルからの知らせを聞いてからというもの、どうやらやはりにはアラジンに対して何か“思う所”があるのかもしれない、という微かな疑問が確信に変わっていた。
有りていに言えば、はアラジンが苦手らしかった。
けれどきっと、それだけではない感情もあったに違いないだろう、とヤムライハはジャーファルから知らせを受けてから真剣に考えるようになった。

あのが、アラジンの名前を聞いただけで、王やジャーファルの前で涙を流したというのだから。

それはきっと、今まで耐えて隠していた感情が、知らず溢れ出してしまったのだろうとヤムライハはその段になってようやっと思い至った。
感情を表に出すのが苦手な子だ。
きっと、王やジャーファルの前で泣いてしまったのだって、どうしてだか、もしかしたら気がついていないのかもしれない。

けれど、ジャーファルがしてくれた細やかな取り計らいが、思ったよりも随分大きくに影響したらしかった。
それはがずっと気にしていた、自分が迷惑を掛けた店の女将に会ったことだ。女将に会って、またアリババと少し知り合えたおかげで、はどうやらアラジンとも少しずつ歩み寄る努力を見せるようになった。

それはヤムライハが気が付き、また手を回したことではなかったので、師匠でありながら自分は師匠らしいことは実は何一つ出来ていないのではないかと思ったりもしたが、けれどジャーファルはそんなことはないとも言ってくれた。そうでなければ、はここまでヤムライハのために、心を砕いたりはしないだろう、と。

弟子も師匠も、ともに少しは成長出来たような気がして、そして目の前の景色とあいまって、ヤムライハは久しぶりに安寧とした気持ちになれたと思っていたのだけれど。






14







「………、…なんですって……?」

目の前に座るは、いつも何の感情も乗っていない顔に、少しの緊張を混ぜて、至極真面目にヤムライハを見上げていた。
ヤムライハは大きく目を見開いて、今言われた事を頭の中で反芻した。

“あたしも…アラジンさんと、一緒に……マグノシュタット、へ、……行きたい、です”

から言われた言葉は、ヤムライハには予想だにしていなかった内容だった。
がマグノシュタットに、行く?
アラジンから、彼がマグノシュタットに行くと聞かされた時には、それはこれ以上にない良い選択だと思った。それは、彼がマギであり、けれどそれとは関係なく魔法についての知識欲が並々ならぬものがあって、彼ほどの人物ならば、必ずやかの国で学び、得た知識に依って過去に無いくらいの大魔法使いになるだろうと思ったからだ。
自分の元で学ばせておくには、勿体なさすぎる。
本心からそう思った。

けれど、はどうだろう。

彼女も間違いなくヤムライハにとって可愛い愛弟子であり、友人であり、愛すべき隣人だった。見守っていくべき子供だった。
だから、自分がこれからも、手厚く、手間暇を掛けて、魔法の技術や、そして人としての幸せなども、じっくりと教えていってあげるつもりだった。
けれど、彼女は「マグノシュタットへ行きたい」と言う。

「……、、マグノシュタットがどんな所かは、アラジンから聞いたのね?」

ヤムライハは驚愕の色をなんとか引っ込めて、努めて冷静にの目を見て口を開いた。
驚いて浮いた腰を、再び椅子に落ち着ける。
は変わらず、真面目な顔で頷いた。
真面目な顔と言っても、ほとんど表情はいつもと変わらないけれど、それでもと過ごしてきた時間の中で、その微弱な変化をヤムライハは感じられるようになっていた。
決して長い時間ではないけれど、それでもそれは酷く微弱な感情を感じることが出来るようになるくらいには、短い時間でもなかったのだ。

「あの、あたしなんかが……行っても……何も出来ない、かも……しれない、んです、けど……」

は目線を落として、考えるようにしながら、慎重に言葉を選んでいるようだった。

「でも……あたしも、もっと、何か……出来るようになったら……、ならなきゃ、って……思って……」

ザガンにアラジン達が行ってからこちら、本当に色んなことがあった。その時々に行き当たって、は、あまりに自分の無力であることに愕然とした。
魔法の力は、確かに修行を始めた頃に比べればついてきたかもしれない。
けれど、じゃあ、自分はあれだけの事件がこれだけ身近に起こっていながら、何か役に立てただろうか。

その答えは、否、だった。

自分は、物を知らなさ過ぎる。
それに、力もあまりに足りない。

このままヤムライハの元で地道にゆっくりと修行するのも、決して無駄ではないだろう。今まで以上に、いろんな知識をつけ、魔法の技術も身につくのもおそらく間違いではない。
けれど、それだけではきっとダメなのだ。
それだけではきっと、自分はこの世界に対して無力でいることから抜け出せないのだ。

「このまま、じゃ……ダメだって、思った……んです。外の、世界を……知りたい。……知らなきゃ、って……思って……」

辿々しい言葉で、はその事をヤムライハに伝えた。
ヤムライハは丁寧に相槌を打って、噛みしめるように聞いていた。けれど、が話し終わってから出来た、いつもには無い嫌に長い沈黙の後、ヤムライハは一言だけ、呟やくように言葉を吐き出した。

「……また明日……お話しをしましょう」

そう言われて、は緊張した顔に怯えと、寂しさと、悲しさと、よく分からない感情を混ぜて、けれどそれを口に出すでもなく、しっかりと頷いて、

「また明日、来ます」

は静かに部屋を出ていった。








寂しげに伏せられたヤムライハの顔を思い出しながら、は自室の部屋から夜空を眺めていた。
大好きで、尊敬するお師匠様。
アラジンにばかりかまけていたことを、目に涙を溜めて謝ってきた姿が思い出された。そんなこと全然ないです、とその時は言ったけれど、もつられて泣いてしまいそうだった。
そんなに思ってくれることが嬉しすぎて、悲しすぎて、泣いてしまいそうだった。
本当に優しくて、親切で、は未だにどうしてヤムライハが自分にそんなに親身になってくれるのかが分からない。
申し訳なくもあり、けれどとても有り難いと思えるようになった。

マグノシュタットへ行く事を伝えるのは、なんだか申し訳ない気分になった。
これだけよくしてもらっているのに、それを跳ね除けて出ていくのか、そんなふうに言われるのではないかと思った。

けれど、けれど。

自分はこのままではいけないと思ったから。
このままではきっと、世界にはびこる、マギや王が歯向かおうとしているまだ自分の知らない未知の“何か”、それと対峙した時に、自分は何も出来ないままになってしまうと思ったから。
それでは、きっと誰も、誰も、シンドリアの人々どころかヤムライハ一人守ることすら出来ないから。

は決意した。
自分を拾って居場所を与えてくれた国や人を守る、そのために必要な力を得る最大限の努力を惜しまない。
その、決意を。

ヤムライハの寂しげに伏せられた顔が、の瞼の裏からはがれなかった。それどころか、どうしてか、ヤムライハに出会ってから今までの事が絶え間なく思い出されて、その日は結局、一睡も出来ないまま朝を迎えた。










翌日、がヤムライハのもとを訪れると、ヤムライハはに付いてくるように言って、とある場所を訪れた。
そこは、が修行を始めたその日に、がヤムライハに連れられて来た武器庫だった。

。これを、あなたに」

は、手渡された物をまじまじと見つめた。
杖だった。
町でのへの報復事件の際、それまでが使っていた杖は粉々に砕かれてしまった。そのため、新しい杖を武器庫から適当にもらって使っていたのだが。
手渡されたそれは、今まで使っていた杖よりも少し大きくて、杖の上の先端は、大きな真珠のようなものがはめ込まれていた。

「これ、って……」
「私が以前使っていた杖よ。今の杖を使うようになってからは、手入れしてからずっとここに置いてあったんだけど。……あなたに、使ってほしくて」
「……、いいんですか」

そんなにステキなものをあたしがもらっても、いいんですか。
マグノシュタットに行っても、いいんですか。

いろんな気持ちがないまぜになった疑問だったけれど、ヤムライハは穏やかに笑って首肯した。

「もちろんよ」

ヤムライハはそう言うと、をゆっくりと抱きしめた。

「マグノシュタットは、魔法を学ぼうとする者にとっては最高の場所よ。保証するわ。――けれど、危険な場所であることにも変わりはないの。だから、……気をつけて。………必ず、戻ってきてちょうだい」

言葉尻が震えていて、それだけでは酷く申し訳ない気分になった。
けれども同時に、固めた決意を新たにした。
もう、分かっていた。
きっとヤムライハが声を震わせてまでいるのは、それは、のためなのだと。
を思って、心を痛めてくれているのだと。

「必ず、…帰って来ます。この国に。お師匠様のもとに。だから………だから、……待っていて、くれると……嬉しいです」

待っていて、そんな事を自分で言える日が再び訪れるなんて、は思いもしなかった。
それを、怖がらずに言える日が来るなんて、思いもしなかった。

そしてきっと、それに返ってくる言葉は、の思い描いたものに違いないのだ。

「待っているわ。きっと、帰っていらっしゃい」
「――はい!」

この国に居た時間は、これから歩いて行く長い人生の中ではまだほんのちっぽけな時間なのだろう。
けれども、自分が幸運にも得た、この真綿に包まれたような優しい場所を、はこれからも守っていこうと誓った。
何より、この心優しい、親切で大好きなお師匠様を守れるくらい強くなろうと、は思った。



それから数日して、は女将やお世話になった人々に少しの間の別れを告げて、アラジン、モルジアナ、アリババらと共に、かの国へと旅立って行った。







2017/02/05

ありがとうございました。

渇いた、大地 14