怪我が完治するまでには3ヶ月の時間を擁し、怪我が治った頃には気がつけば、
が王宮に来てから1年以上が経っていた。
怪我が完治してからは、
に少し、変化が訪れていた。
それは小さな変化だったけれども、確実に
の気持ちを有り様を変えていた。
ヤムライハに更に心を開くようになり、時折ヤムライハに笑顔を見せるようになった。
「あたし“なんか”」とは言わなくなった。
さらには、自分が傷つくことを厭わなかった
が、自分を大事にするようになった。
自分が傷つけば悲しむ人間がいることを、どうやら学んだらしい。
以前にも増して修行に熱心に励むようになり、空いた時間には厨房の手伝いなども以前より長く行っているようだった。
そんな折りだった。
新しい客人が王宮にやってきた。
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の全く知らない所で、どうやらシンドバッド王始め国の重役のお歴々は外交問題解決のためあちらこちらと飛び回っていて、王はまだ帰らないらしい。
新しい客人が来たと知ったヤムライハは、目に見えてワクワクどきどきしていて、人の感情の機微に疎い
が傍目から見てもそれが容易に知れるほど分かりやすかった。
これはヤムライハが魔法関係で何かいいことを思いついたり見つけたりした時の顔だと、
はこれまでの経験から学んでいたので、
もさして気にはしていなかった。
邪魔さえしなければその内過ぎ去るのがこれまでの常だったので、この時もそうだろうと思ったのだ。
けれどそれから半年程が経った時、今回は事情がいつもとは異なることを
は知ることになる。
「
、今日から一緒に修行をすることになったアラジンよ!」
ヤムライハは、それはそれは嬉しそうに、それはそれは誇らしそうに、
にそう言った。
「よろしく、
さん!」
「………よろしく……お願いします、アラジン、さん…」
自分と同じくらいの背丈の少年だった。
王宮で数回見かけた事はあったが、大人しい印象しかなかった。けれど、今はその印象とは180度打って変わって、とても溌剌とした元気な印象を受ける。
何があったのかは知らないが、半年の期間を置いてからの修行なのだから、この半年に何かあったのかもしれない。
と握手をして、隣に居たアリババ、モルジアナと名乗る男女とも握手を交わす。
その後、彼がヤムライハから言われた「全力の魔法」をしてみせるのを、
も至近距離で見ていた。
授業で習ったことのある、“マギ”であるという少年。
パッと見はそんな凄い人であるようには
には見えなかった。けれどそれは外見だけの話で、確かに、その周りを飛び交うルフは見たことの無い流れをしていた。
そして、それはその異常なまでの魔力で以って放たれた魔法を見て、確信に変わる。
これは、この人は、別次元の人間だ、と。
がこの1年半をかけて培って来たものなんて本当にちっぽけに見えるくらいに、その何十倍もの力や技を、アラジンは修行を始める前から既に持っていた。
ヤムライハがこれだけ傾倒して夢中になるのも頷けるというものだ。
“マギ”
魔法使いの頂点に立つ存在。
自分の魔力のみならず、周りのルフをも自在に操る事の出来る、まさに“奇跡の”魔法使い。
けれど、彼はまだその力をうまく使いこなせていない、とヤムライハは言った。だから、ヤムライハがそれを教えてやるのだ、と。
それからの魔法の修行は、アラジンも交えての修行となった。
は修行にも慣れたもので、放っておいてもいつものウォーミングアップから始め、反復練習、応用練習と、一人でも黙々と修行をこなしていく。ヤムライハは専ら、アラジンに魔法を教えることに専念していた。
ヤムライハはそれはそれは楽しそうで、毎日目がキラキラと輝いていた。
にはわかっていた。
いくら自分ががんばったって、所詮はいち魔法使いでしかない。“マギ”と比べるなんて、分不相応どころか、比べること自体が失礼なんだと。
それでいいと思っていたし、それ以上は望まない。憧れる前に、諦めていた。
諦めていたと、思っていたのに。
その日は少し曇り空で、それに併せて
の気分もいつもより少し鬱々としていたかもしれない。
今日は午前中はヤムライハに用事があって、午後からの修行の予定だったので、午前中は
は厨房の手伝いをしていた。
空いた食器を下げたり食事の配膳をしていると、意図せずしてシンドバッドとジャーファルの声が耳に届く。
アラジンはやっぱりすごいのだと、シンドバッドが賞賛しているようだった。
王が行っていたというバルバッドという国で何があったのかは知らないが、ジャーファルもそれに深く同意していた。最初に見せた「全力の魔法」はまだ序の口で、それから“マギ”のもはや人間業とは思えない英雄譚にも近い話がごろごろ出てくる。
アラジンについての話題が盛り上がっている所に、
が食後のお茶を継ぎに行くと、
「
もアラジンに色々教えてもらうといいさ」
アラジンはすごいんだぞ、そんな言葉に続いてシンドバッドが何気なく言った。
言われた言葉に、
は当たり障りの無いように、はい、と短く答えようとしたが、なぜか言葉がすんなり出てこないことに自分で不思議に思った。
おかしいな、そう思って喉に手を当てるのと、「どうしたんですか?」とジャーファルが驚いたように席を立ったのは同時だった。
「シン、あなた
に何をしたんです!?」
「えええ!ジャーファルくんも見てただろう!?俺は何も…!
、どうしたって言うんだ?」
シンドバッドに顔を覗きこまれ、そこでようやく
は自分が涙をこぼしている事に気がついた。
「……え?」
ジャーファルは
の元まで歩いてきて、
を自分の方に向かせて視線を合わせるように腰を落とした。
「シンに何かされたんですか」
ジャーファルは長い官服の袖で
の涙をゴシゴシと拭ってやった。
は未だに、それを他人ごとのように呆然と眺めている。
「いや、だから俺は何も…!」
シンドバッドも席を立って、
の顔を覗きこんだ。
「ジャーファルさま、王さまのせいじゃ…ないです。誰のせいでも……ないです…」
「じゃあ、どうしたのですか。何か悲しいことでもありましたか?」
「……さぁ?」
本当に分からないという風の
に、ジャーファルとシンドバッドも困ってしまった。
とにかく、とジャーファルが
の頭を撫でる。
「疲れたのかもしれませんね。午後の修行は休みにするように、ヤムライハに言っておきましょう」
「だ、ダメ…!」
そう言って立ち上がろうとするジャーファルを、
は慌てて引き止めた。
先ほどまでほとんど感情を表していなかった顔が、今は焦ったように眉尻を下げている。
「や、ヤムライハ様は……お忙しいんです。マギが居るんだもの。ヤムライハ様を、困らせては……ダメなんです」
修行を休むなどと言えば、ヤムライハは
を心配してアラジンとの修行を取りやめてしまうかもしれない。
それは駄目だ。
ヤムライハは、アラジンと修行することを本当に楽しみにしているのだから。
「ですが、
…」
尚も袖の端を掴んだままの
に、ジャーファルは戸惑いを隠せない。
普段王やジャーファルには給仕以外では近づこうともしない
が、ジャーファルの袖を掴んで引き止めるほど切迫しているというのは、酷く珍しいことだった。
「だめ、ダメです。ヤムライハさまは……マギと修行出来るのが楽しいんです。嬉しいんです。だから……あたしの事はいいんです。――ごめんなさい」
はそれだけ早口で言うと、ジャーファルの袖をさっと離し、目を乱暴にこすってから逃げるように食堂を後にした。
その後ろ姿を、大人二人はなんとも言えない顔で呆然と見送った。
「……どうしたんでしょう、
。少し様子がおかしいですね」
「ああ。……
、アラジンの事をマギとしか言わなかったな」
「……、…ええ。……ヤムライハに、それとなく言っておきましょう」
「そうしてくれ」
走り去った小さな背中は、もう見えなかった。
2016/04/17