10
なんとか峠を超えた、とヤムライハとジャーファルが聞かされたのは、既に陽もだいぶ高い所に昇った後だった。
小さな息を繰り返す
の傍には、一晩中ヤムライハが付き添っていた。
熱に浮かされて何度も短い覚醒を繰り返していた
が、ふと夜中に目を覚ました。
ここはどこだろうか。
熱に浮かされた頭で、視線だけで部屋の中を見回すと、どうやらここが自分の部屋らしいと思い至る。
簡素だが心地のいい寝心地に、この寝台はこんなに寝心地がよかったのかと、今更ながら
は初めて知った。
そうしてまだ意識が朦朧とする中、こんな夜中なのにベッドサイドに人がいる事に
は気がついた。
医者かと思ったが、視線をゆっくりとそちらへ動かして見てみると、座っていたのはヤムライハだった。
「………、…ヤムライ、ハ、様…」
「……っ、
…!」
うとうとしていたヤムライハも、
の微かな声に意識を戻したようだ。
が起きた事に、ヤムライハは信じられないものを見るように目を見開いて、それからほんの少し安堵するように微笑んだ。
けれど、
「……ヤムライハ様、どうして、泣い、てるの…?」
緊張していた糸が切れたように、その両目からは大粒の涙がこぼれ始めた。
美しいヤムライハが、その綺麗な目を濡らしている。
にとって、これは由々しき事態だった。
一体何が起こったのか。
何がヤムライハをそこまで追い詰めたのか。
「
……目を醒まして……本当に良かった…っ。どこか痛む所は?なにか欲しいものはある?」
「いえ……いえ、ないです……。……泣かないで、ヤムライハ様。……何か悲しい事があった…の……?泣かないで…」
「
が…
が、こんな目にあって……、こんなに傷ついて………」
それから先は嗚咽に飲み込まれて言葉は続かなかった。
は、今言われた事を頭の中で反芻した。
ヤムライハのその言いようはまるで、
「(あたしが怪我して………だから、ヤムライハ様は……泣いてる、の……?)」
は、もしかしたらヤムライハは自分を心配してくれた可能性を考えて、目を瞬いた。
そんなことってあるのだろうか。
いや、確かにそうだったら嬉しいとは思うけれど。
は数瞬迷ったが、思い切って口を開いた。
「もしかして…」
そんなはずはないだろう、そう思う反面で、そうだったら嬉しい、という願望もあった。
もし自分なんかを心配してくれているのだとしたら。
だから、そんなに泣いてくれているのだとしたら。
「……あたしなんか、を、心配……してくれた、んですか?」
「当たり前じゃない!
、お願いよ。“なんか”なんて言わないで。あなたは、私の大事な大事な友達で、大事な弟子なの。自分を軽く見ないでちょうだい…」
そう言ってまたヤムライハは泣く。
は泣くヤムライハを見て、その涙の意味を重く受け止めた。
率直に、嬉しいと思った。自分のために泣いてくれて。
自分なんて、別に死んだって誰も困りはしない。厄介払いが出来て清々すると思われこそすれ、だれも死を悼んでくれたりするはずもない。
こんな、出来損ないなんかを。
そう思っていた先程までの自分を、けれど
は恥じた。
自分などのために、こんなに泣いてくれる人がいる。心配してくれる人がいる。
それは、こんなにも有り難くて、嬉しい事なのに。
今自分が言った事は、そういう人を裏切るような事だったのかもしれないと、
は朦朧とする意識の中で考えた。
「ごめん、なさい……ヤムライハ、様……ごめ、んなさい。あたし、は、大丈夫だ、から……だから、泣かない、で……」
ヤムライハの握る自分の左手を、がんばって握り返しながら、
は何度も謝った。
ごめんなさい、あたしの大好きなお師匠様。
もうそんな事は言わないから、だから、お願いだから、もう泣かないで、と。
しばらくしてから少し落ち着いたヤムライハは、
の左手を優しく握りながら口を開いた。
「……
、あなた言ったわね。魔法を使わなかったって」
「……はい」
「どうして魔法を使わなかったの?」
どうして、と聞かれるとは思わずに、
は頭の中で考えた。
――どうして?
人を傷付けないためだ。
日々修行を積んでいるのは、誰かを守るためにこの力を使いたいからだ。
自分があそこで腕輪を外して魔法を使ったら、きっと自分はまたたくさんの人を傷つけただろう。
もう誰も傷つけたくはなかったし、そんな事になれば今度こそ自分はこの国には居られなくなっていたに違いないのだ。
それに、と
は加えて考えた。
自分がどうなっても、
は別に構わなかった。
ヤムライハや
を気にかけてくれているたくさんの人達に危害を加えられるのは、許せない。
けれど、
は自分がどう思われたって、何をされたって、別に構わなかった。
それこそ、自分が魔法を使う事でまた誰かを傷つけるくらいなら、自分が死んだって構わないとさえ思った。
「……人を……傷つけると、思ったか、ら……です」
「でも、そのせいであなたはこんなに傷付いたわ」
「……誰かを傷つける、くらいなら……その方が……ずっと、いいです……」
「良くないわ!」
ヤムライハの叫びは部屋いっぱいに広がった。
その声の大きさや、悲痛さに、
は目を見開いた。
どうしてヤムライハはそこまで自分のことを思ってくれるのだろう。
どうしてヤムライハはそこまで自分のために必死になってくれるのだろう。
それがどうしてだかは、
には分からなかった。
けれど不謹慎にも、
にはそれがとても嬉しいことのように思えて仕方がなかった。
「
、確かにあなたの魔法は人を救うために使う力よ。そのためにがんばって修行してるんですもの。でもね、それはあなたも含まれるのよ。あなた自身を守るための力でもあるの!」
「……あたし、を……守る……?」
「自分の身を守るために魔法を使うのは当然のことなのよ!それで襲ってきた人が例え怪我をしたって、誰もあなたを責めたりしないわ!どうして……どうしてそんなことが分からないの……!」
がつん、と頭を打たれたような気がした。
魔法を使って自分を守る。
その発想が今の
には無かった。
そんな事をすれば、きっと周りの人は自分を恐ろしい化け物のような目で見て罵るだろうと思っていた。こんな出来損ないのために、誰かを傷つけるなんて、と。
けれどそんな事は無いのだとヤムライハは言う。
確かに、自分を守るために力を使うことは、
にとっても普通のことだったはずだ。初めて魔法を使った時がそうだったように。
けれどそれはいつしか“いけないことだ”と思い込んでしまっていた。
自分のために他人を傷つけることは、悪いことなのだ、と。
そうじゃない。
そうじゃなかった。
魔法は、使うべき時に使わなければ、意味がないのだ。
その使うべき時、使うべき力を見誤ったから、自分は一度牢へ入れられた。
「あたし……自分のために、魔法……使ったら……いけないって、思ってて……」
「――」
「でも、違うん、ですね……」
ヤムライハは少し驚いたように目を瞬かせた。
数粒の涙がまた落ちる。
けれどヤムライハはそれを拭うことをせずに、
の手を握りしめる。
「使う場所とか……使う力の量、とか……使う、タイミング……?……本当はきっと、そういうのを……間違ったら、いけなくて……」
「ええ…」
「(そういうこと、なの、かな……)」
見上げてくる
の目は、道を見失った迷子のような目をしていた。
それでいて、自分の過ちを理解していて、必死にどうすればいいかを考えている。
「そうよ……そうなの。本当に賢い子……あなたは私の自慢の弟子よ。だから、もう、こんな自分を蔑ろにするようなことは、二度としないと誓ってちょうだい」
「……はい、ごめんなさい、ヤムライハ、さま…」
どうしてそんな些細な事に気がつくのに、こんなに時間がかかってしまったのだろう。
ヤムライハは考える。
きっとそれは、
が、
自身を大切にするという絶対的な考え方を、放棄してしまっていたからだ。
そうして、ただただ、他人を傷つけることを恐れてしまっていたからだ。
やっと少しはその事に気がついたらしい愛弟子に、ヤムライハは微笑んだ。
そっと優しく頭を撫でてやると、
は嬉しそうにほんの少し、目を細めた。
2016/03/21