アリババがかの有名な迷宮(ダンジョン)に挑むと聞いた時、は気が気ではなかった。
迷宮と言えば、入った人間が帰って来ないという謎の多い建造物。
誰が、何の目的で建てたのかも分かっていないと言われている、突如として現れた謎の物体。
この国の王はそれを七つも攻略したというのだから、入ったら絶対に出られないというワケではないのだろうけれども。
だからと言って、そんな危険極まりない場所へアリババやアラジン、モルジアナが向かうと聞いて、は猛烈に反対した。
どうしてそんな場所に向かわねばならないのかと、問い詰めたりもした。
けれど、実はアリババは既にアモンという迷宮を攻略して、それなりに力を持っているから大丈夫だ、と言われて驚いたなんてものでは無かった。
実際に目の前でアモンの剣の武器化魔装を見せられてしまえば、は大人しく彼らを見送る事しか出来なかったのだ。

心配で夜も眠れない日が続き、やっとの事アリババが帰って来たとの報を受けが安心していた、その矢先に事件は起きた。












08











その日もマハラガーンの例に漏れず随分と賑やかな様子だった。
それが、祭りの喧騒とは違う慌ただしい緊迫した怒声や叫び声に変わった事に気がついて、はベッドに横たえていた体を起こした。
外の騒がしい人々の声は次第に王宮の中に移り、人が慌ただしく右往左往するような足音、医者や魔導師を呼ばう荒い声などが飛び交っていた。
はベッドから抜け出すと、そっと自室の扉を開けて廊下の様子を伺った。
自分が行っても迷惑しか掛けないことは分かっていたので、とりあえず様子だけ伺った後は大人しくしているつもりだった。
けれど扉を開けてより鮮明に聞こえるようになった喧騒の中に聞き捨てならない単語を拾って、は白い顔をさらに青白くさせた。

「――ッド王が呪いを――、……!」
「すぐに部屋を用意しろ、―――だぞ――!」
「アリババ王子も、――を受けておられる、医――、まだかっ!」

喧騒が移動していった方向を見て、も部屋を抜けだした。
先ほどの声は、アリババとは言わなかったか。
知らず早足になるが、病床の長い身では足がもつれそうになるのが酷くもどかしかった。
本当は今日も熱を出して医者には部屋で大人しくしているようにと言われてはいたが、もうそんな事には構っていられない。は人々が集まっている方向へと歩みを進めた。
単なる聞き間違いなら良い。
けれど、どうしても胸騒ぎが収まらない。
知らず、思い出す光景に首を振る。どうしてこんな時にあの日の事を思い出すのか、考える気にもなれなかった。

たどり着いた部屋では、どうやら王や八人将が集って話をしているらしかった。
部屋に入る事も出来ずに外で誰かが出てくるのを待っていると、慌ただしく王とヤムライハが扉を開けて出てきた。続いて、八人将の面々やアラジン、それに、ぐったりとして八人将の一人に肩を借りて歩いてくるアリババが部屋から出てきた。
アリババの右腕から上腕にかけては見慣れない赤黒い痣が広がっている。

「アリババ、様…!?」

が声をかけてもアリババは返事をする余力もないのか、汗をかいた顔を苦しそうに歪めてそのまま王・ヤムライハや八人将と共に廊下を歩いて行った。
唯一に気づいたジャーファルは、驚いた顔でに早足に寄ってくる。

、どうしたのです?」
「政務官殿…、アリババ様はどうされたのですか?」

ジャーファルは険しい顔のまま、一瞬アリババの方を見て、それから再びの方を向き直した。

、あなたも熱で寝込んでいたのでしょう。部屋へお戻りなさい」
「アリババ様はどうされたのです、政務官殿!?」

いつもにはない大声で尋ねるに、ジャーファルは目を細めた。
はよほどアリババの事が心配と見えて、熱であがった息も、熱だというのに青白くなった顔も全く意に介した様子がない。
ジャーファルはの肩に手を置いて、今にもアリババの方へと走って行きそうなの目を自分に向けさせた。

「いいですか、。アリババくんは、タチの悪い魔法にかかってしまっただけです。これからヤムライハ達と共に処置を行います」
「……魔法…?」
「はい。ですが、心配は無用です。あなたは部屋に戻って休んでいなさい。いいですね?」
「…アリババ、様…………」

魔法。
タチの悪い魔法とは一体どんなものなのか。には見当もつかなかった。

――自分は、また(、、)何も出来ないのか。

浮かんできた言葉に、は悔しそうに口を歪めた。
ジャーファルはの口を真一文字に引き結んだ表情を見て、内心驚いた。彼女が表情に感情を滲ませるのは珍しい。
何かに言ってやりたかったが、けれど今は時間が惜しい。
シンドバッド王にかかった“呪い”は王自身で対応出来るだろう事はジャーファルは承知していたが、しかし、アリババに関しては全くどうなるのか見当がつかない。
王やヤムライハは彼を救うために全力を尽くすだろう。マギであるアラジンだって付いている。
けれど、必ず助かるという保証もない。
ジャーファルは今はの変化を考える事をせずに、とにかく、と再度口を開いた。

「部屋へお戻りなさい。いいですね?」

もう一度ジャーファルが念を押すと、はかすかに頷いた。
がとぼとぼと緑射塔に向けて歩き出すのを見届けてから、ジャーファルも王やアリババの後を追った。















一度は自室の扉まで辿り着いたは、しかし扉の前で立ち尽くしていた。
頭がズキズキと痛む。
頭のてっぺんが何かに刺されているかのように常に鋭い痛みを訴える。
熱があるはずなのに、手先は冷えきって震えている。
目を開いていても、視界を支配するのはいつかの光景だった。


――また、失われるのか


「(助けなければ)」


――助けなければ。私が。


――でも、どうやって…?


魔導師でも、医者でもない、ましてやこの国のどの役職にもついていないが、今のこの事態に対して何かの役に立てるとは思えなかった。

「(……王子)」

目の前のかの“王子”の顔が、アリババの顔に重なる。
視界が揺れる。

ゆらゆら、ぐらぐら。

あれはいつかの景色。
血まみれで。
酷い匂いの立ち込めた謁見の間。
打ち捨てられた亡骸。
整然と並べられた首。
身の内で何かが音を立てて、跡形も無く崩れ去って行った。
底のない、果てしなく続く深い深い絶望。

気がついたらは全身で荒い息で呼吸していた。
頭が痛い。
視界が揺れる。
それ以上に、胸が引き千切られそうに痛かった。

――違う。アリババ様は、“王子”ではない。

――わかっている。けれど、けれど……!

「(アリババ、様…………)」

は頭を押さえて、頼りない足取りで再び歩き出した。








アリババ達の居るらしい部屋の前では、数人の人影が複雑な表情で落ち着きなく“待機”していた。
ジャーファルはふらりと現れたを見ると、再び眉間に皺を作ってへ詰め寄った。

「――!!あれほど部屋へ戻るようにと――」
「政務官殿。……お願いします。私もここで…待たせてください」

はジャーファルの方を向いてはいるが、熱のせいか胡乱な目をしている。けれど身体の前で握られた両の手は指先が白くなるほど握られていて、小さく震えていた。
眉間に皺を寄せて、少し息を上ずらせるの様子はどう見ても普通の状態ではなかった。

ジャーファルはすぐにでも部屋へ連れ戻そうと思いはしたが、無理に連れ戻した所で結局は同じ事の繰り返しかもしれないとも、今の様子のを見て思う。
医者や侍女たちは、今は祭りで起きた騒動のせいで出た怪我人の治療に当たっていて手薄の状態だ。それならば、人目のあるここに居てくれた方が様子を見る事も出来て返って好都合かもしれない。
どちらにしても、は梃子でもここから動きそうにはなかった。

「一つ約束をしてください。あなたも熱があるのですから、限界だと思ったら必ず言いなさい。良いですね?」
「……ありがとうございます、政務官殿」

頭を下げるにジャーファルは複雑な顔をした。
は扉から少し離れた窓辺に座り込み、両手を組んで祈るように扉の方へと目を向ける。

「(アリババ様……、どうかご無事で……)」

助けに行って差し上げたい、苦しむアリババの側で支えて差し上げたい。
心の底からそう願うのに、出来るのはただ祈ることだけで。
何も出来ない、無力な自分に絶望した。
今の自分には祈ることしか出来ない。
それがとてつもなく歯がゆかった。




両目を閉じて、は一心に祈った。




――どうか、どうかご無事で、と。

























バタン、とその扉が開かれたのは夜もそろそろ明けようかという頃だった。
八人将が一斉に扉へ駆け寄ると、中から出てきたシンドバッドが皆を安心させるような笑顔でアリババを肩で支えていた。
アリババの意識は無いようだったが、奇妙な痣はもうどこにも見当たらなかった。

「みんな、心配かけて悪かったな。ご覧の通り、俺もアリババくんももう大丈夫だ!」

シンドバッド王の声にその場にわっと拍手喝采が起こる。

「さ、アリババくんを休ませてやってくれ。アラジン、君も疲れただろう。ゆっくり休むといい」

シャルルカンの肩へと引き継がれたアリババを、は信じられない想いで見つめた。

「(アリババ様………、生きて………?)」

――生きているのか。本当に?

そのことがまだ信じられなかった。

“死んでしまうのではないか”と思い込んでいたことに、はこの時始めて気がついた。アリババが助かるはずがないと、なぜかそう思い込んでいた。

きっと、アリババも“王子”と同じように、自分を置いていってしまうのだろうと。

はそう思っていたらしかった。
そう思うことしか出来なかったのだ。
けれど、アリババは生きている。
しっかりと、息をしている。

しばしは呆然としていたが、ジャーファルに促されて、アリババを連れるシャルルカン、ジャーファル、アラジンと共に緑射塔の部屋までを共に歩いた。
アリババとアラジンを部屋まで送り届け廊下に出ると、シャルルカンも大きな欠伸を漏らしながら、「おねーさんも早いトコ部屋に戻んな」と言いおいて足早に立ち去った。
ジャーファルもそれに続こうとしたが、いつまでもアリババの部屋の前で立ち尽くしているを見かねて歩み寄った。

。あなたももう休みなさい。後でまた医者をやりますから、今度こそ大人しく部屋で寝ているんですよ」

ジャーファルがそう言っても、は反応を示さなかった。
アリババ達の部屋の扉を向いて、ぽつんと立っている。

、聞いて――」

いますか、と続けようとしたジャーファルの言葉は声にならず空気に霧散した。





が、泣いていた。





その両の目から溢れる透明な雫が、静かに頬を伝っている。

「……
「――った。よかった…っ――、生きて……おられた…………」

は自分の握りしめた両の拳を胸に抱き、静かに涙した。
仕えた王子の死を語った時ですら涙を流すどころか表情すら変えなかったが、アリババが生きている事を信じられない事のように語り、涙を流す。


――無事で、よかった


シンドバッド王やアラジンがきっと努力してくれたのだろう。
自分は祈ることしか、結果を待つことしか出来なかったけれど。


けれど、次こそは――


「(強く、ならなければ)」


は、心の中で強く思った。
今のままでは、自分はアリババを守るどころか自分の身すら自分で守る事は出来ない。


――強くならなければいけない


の目に、強い光が灯った。
それは、以前が祖国に居た頃宿していたのと同じ、強い意思を湛えた光だった。

「……さ、。部屋へ戻りましょう」

ジャーファルはそっとの肩に手をおき、3つ隣の部屋へと帰るようにと促した。
今度はは素直にそれに従った。
自室の扉の前まで来ると、はジャーファルを振り返った。

「………ありがとう、ございました」

光の灯った目でジャーファルを見据えて頭を下げた。
は自らドアノブに手をかけて部屋へと入って行った。













2014/05/04

愁嘆の深淵に木霊する 08