07
ドン、ドン、と大きな音に続いて綺麗な花火が夜空に咲く。
は窓からか見えるその花火を、わずかに聞こえてくる喧騒と共に見つめていた。
王が帰還されたと聞いてから幾ばくか経ったこの日、港の方で南海生物が現れたと騒ぎが起こっていたと思えば、その日の夜には盛大な祭りが開催されるという話が広がった途端に国中が浮き足立った。
も外に出てはどうかと侍女に言われてはいたが、丁重に断って部屋で休んでいた。
「よ、
さん!邪魔していいか?」
「アリババ様。ええ、もちろんです」
ノックの音に続いて元気なアリババの顔が覗いて、
は目元を僅かにゆるめた。
街に降りようとアリババが
に言ってからこちら、まだそれが実現されることはなかったが、アリババには大きな変化が訪れていた。
未だ
は、体調が回復の兆しを見せては再び容態を悪くして寝所に伏せる、という事を繰り返していた。
精神的なものから来るということ、体の器官が傷めつけられていて回復が遅いのだということで、未だに医者からは自室にて養生するようにと言われている。
部屋から出ると決まって体調を崩すので、最近では軽い散歩ですらも侍女を同行しなければ許されていない。
そんな
とは違い、アリババはだいぶ元気を取り戻して、食欲も戻りここでの生活にも慣れた様子だった。
「これ、差し入れ。果物とか軽いもの選んで持ってきたんだ。よかったら食べてくれよな」
「お気遣い、ありがとうございます」
少なくとも表面上は、アリババはすっかり元気を取り戻したように見えた。
笑顔ひとつとっても、影のある笑みは成りを潜め、これが本来のアリババなのだろうと思わせる明るい笑顔をよく見せた。
事あるごとに
を気にかけて、こうして部屋に顔を出してくれたりもする。
「実はさ、剣の修行を始める事になったんだ!」
そう言って、今日王から授かったというバルバッドの宝剣を誇らしげに見せる。
アラジンも魔法の師匠を見つけた事や、アリババの師匠になる人物が今日の南海生物を鮮やかに仕留めたということなどを、楽しそうに語って聞かせる。
はアリババが持ってきてくれる話をいつも嬉しい思いで聞いていた。
アリババが元気になった事が、嬉しかった。
こうして気にかけて時折訪れてくれることが申し訳もなく、けれどくすぐったくも有難かった。
「あ、オレこの後片付け手伝うことになってんだった!じゃあ
さん、またな!」
ひと通り話し終えると、アリババは忙しなくバタバタとドアを出て行った。その背を見つめ、
は目を細めた。
「(すっかり元気を取り戻してくださった)」
彼は前へ進んでいる。
夜泣いていたこともあった。
「食べられない」と、「生きていてもいいのか」と、苦悩していた。
眠れぬと言って、静かな夜を一緒に過ごした事もあった。
けれども気がついてみると、いつの間にかアリババは既に
の遥か前の方を歩いていた。
彼の周りには、常に人が居た。
小さな魔法使い。
力強いファナリスの少女。
周りのたくさんの人と共に、時にぶつかったり下を向いたりしながら、しかし確かにアリババは前を向いて進んでいた。
その背はどんどん遠ざかるばかりで。
これからの修行を期待して目を輝かせるアリババは、見ていて眩しい。
「(それに比べて…、私は何をしているのだろう)」
比べたって詮無いことではあるが、どうしてもそう思わずにはおれなかった。
非力で脆弱な自分が歯がゆい。
は再び小さく溜息をついて、ベッドに横になった。
マハラガーンから数日。
今日もいつもの往診が終わった医者と侍女が帰ったのはもう幾ばくも前で、
はベッドに横たわって外の景色を眺めていた。
先ほどまでは上体を起こして書物を読んでいたのだが、いかんせん、体を起こしていることに疲れてしまって休んでいるのだ。
一度はだいぶ回復していた体も、薬を飲み続けているためかだいぶ弱って、何をするのにもすぐに疲れる弱い体になっていた。
これではいけないと思いはしても、何かをしようとする矢先に熱を出してベッドに舞い戻る日々。
これで昔は近衛兵団の師団長だったのだから笑える話だ、と、全く動かない表情筋で考える。
ふと耳に入ってきた声に、
は休めていた体を起こしてカーディガンを羽織った。
ベッドから抜けだして久しぶりに靴に足を通して窓辺に寄る。
見えたのは、銀蠍塔で鍛錬をする兵士たちの姿。
以前は自分もあの兵士たちのように鍛錬していたのだな、と思うと胸がチクリとした。
銀蠍塔の別の階へと視線を移すと、途端に飛び込んで来る目立つ金髪。
真剣な表情で特徴的な形の剣を振るうのは、よく見知った人だった。相手をしているのは近頃よく話題に登る噂の師匠だろう。
アリババの動きも淀みなく流れるようで、それだけで彼の剣のセンスの良さを伺い知ることが出来たが、それ以上に相対する師匠の剣さばきは目を見張るものがある。
その両者ともとても生き生きとした顔で剣を振るっている。
頭で考える前に、体が歩き出していた。
部屋を出て、向かうは一路、銀蠍塔。
緑射塔を出て少し歩けば喧騒が徐々に近づいてくる。
銀蠍塔に入ると、そこには指揮官のもとで鍛錬に励む兵士達。それを横目で見ながら、
はさらに上の階へと歩みを進めた。
銀蠍塔に入った時点で既に息が上がっていたが、
はそれには気がつかない振りをして剣戟音のなる方へと足を向けた。
ほどなくして見えた広場では、アリババとその師匠が修行の真っ最中だった。
入り口に立って、二人が剣を振るう様子を眺める。
汗を流して剣を振るうアリババ。
かなりいい太刀筋をしているが、しかし師匠の剣捌きはそれ以上にすごかった。
それでも諦めずに向かっていくアリババを見ている内に、
は胸が苦しくなるのが分かった。
胸が、苦しい。
締め付けるような痛みがじわりと広がる。脂汗が滲んだ。
それがどこから来る痛みかは分からなかったが、
はその原因を探さないように務めた。
それを知ってしまえば、きっと、自分は感情の濁流に飲み込まれてしまうだろうと思ったから。
気がつけば
は逃げるようにその場を後にしていた。
どうやって銀蠍塔を降りて来たのかはあまり覚えていない。
気がついたら、銀蠍塔の入り口で荒い息を立てて蹲っていた。
何度も荒い呼吸をしていると、パタパタと小さな足音が近づいてくる。
「大丈夫かい、お姉さん?」
なんとか顔を上げると、そこにはアリババの部屋に居た少年、アラジンが立っていた。
「……はい…」
「人を呼んでこようか?」
「いえ……少し休めば、大丈夫です」
「そうかい?」
アラジンはどうしようかキョロキョロと辺りを見回していたが、段々
の息が整うのを見て、確かに大丈夫そうだ、と人を呼ぶ必要は無さそうだと思ったようだ。
けれど、
を支えてゆっくりと身体を壁にもたれ掛けるように手を貸してやり、
が座って息を整えている間も側に付いていた。
ようやっと息が落ち着いた
は、隣で心配そうな顔をして座っているアラジンに目を向ける。
「申し訳ありません……あなたは、アラジン殿、でしたでしょうか」
「うん、僕はアラジン。お姉さんは
さんだよね?」
「はい」
「もう出歩いても大丈夫なのかい?まだあんまり体調が良くないってアリババくんが言っていたけど」
「アリババ様が、そのように?」
「うん。アリババくんはよく
お姉さんの事を話しているよ。……………心配だ、って」
「……そう、ですか…」
アリババは良く
の事をアラジンやモルジアナに話すという。
は気にかけてもらえる事が嬉しいような、心配をかけて居ることが申し訳ないような、複雑な気持ちになった。
「……アリババ様も、よくアラジン殿のお話をされておいでですよ」
「えー?本当かい?」
複雑な気持ちを隠そうとするように、
も同じように返した。
実際、アリババはよくアラジンやモルジアナの事を話している。
アラジンは
がそう言うとくすぐったそうに笑っていた。
アラジンやモルジアナに直接会うことはほとんど無いが、しかし顔は覚えていた。アラジンの今の言いようを聞くと、おそらくアラジンも同じような状態だということだろう。
「アリババくんはね、僕の大事な友達なんだ!」
とてもとても嬉しそうに、花開くような笑顔でアラジンは笑った。
“友達”、その言葉は彼にとってとても大きな意味を持っているのだろう。アリババが友人であることを、とても誇り思っているような節もある。
アリババもよくアラジンの事をそのように語っているから、お互いがお互いにそう思っているという事だろう。
は、アリババの側にこの小さな少年が居て良かったと心から思った。
「……とても、素敵なことですね。大切になさってください」
「うん!」
えへへ、とアラジンは照れくさそうに笑う。
歳相応の所作がとても可愛らしい。
は彼にとても好意的になれた。
彼ならば、大丈夫だ。きっとアリババの側にいて、アリババの事を支えてくれるだろうと思えた。
「お姉さん、もう大丈夫かい?」
「…はい、だいぶ落ち着いて参りました…。ご心配をお掛けしてすみません」
「ううん、それはいいんだけど。あんまり無理をしてはいけないよ」
「そうですね。ですが、どうにも歯がゆくて…」
「歯がゆい?」
はその先を言おうか逡巡したが、心配そうな顔のアラジンに、隠さずにしっかりと伝えようと思った。
どうしてか彼にはすんなりと言えるような、そんな気になった。
「……私はまだ何も出来ずに、立ち止まってばかりで……けれどアリババ様は、もうずっと先を歩いておられる」
その背はどんどん遠くなる。
比べる必要も無ければ、歩調を合わせる必要もない。
分かってはいるけれど、その背を追いかけたいと思ってしまう。
「私は、こんなにも弱い………」
「………、…苦しいね。でも、今は休んで身体を治す事がお姉さんの仕事なんだよ。だから、焦ってはダメだ」
アラジンは心配そうな顔で、しかし今度は年不相応な事を言う。
まるで様々な事柄を悟ったような、どこかはっとさせられるような顔だった。
「時間をかけて、ゆっくりと治していけばいいんだよ。お姉さんも、大変な思いをして来たんだもの」
「…それも、アリババ様が?」
「うん、アリババくんも少し教えてくれたけど……、それだけじゃなくて、お姉さんのルフがね、とてもとても悲しい色をしているんだ。だから、分かるんだ」
「……ルフ……」
話しに聞いた事はある。
万物に宿る、万物の根源たるもの。
はそれを話しに聞いた程度で詳しくは知らないし、ましてや見たこともない。本当に存在するものかどうかも分からない。
けれど魔法使いはそれが見えるということだから、アラジンの言っている事はあながち嘘ではないのかもしれないと
は思った。
「うん。あのね、
お姉さん」
アラジンはすっと立ち上がり、持っていた杖を見つめた。
先端に鳥のような装飾がされた簡素な杖は、けれどよく手入れがされているのだろう、大事にされている事が分かる。
「死んだ人は戻っては来ないけど」
ドクン、と
の胸が大きく脈打った。
すぐに、王子の顔が目の前に浮かぶ。
冷や汗が流れた。
「でも、消えて無くなってしまうわけじゃないんだよ」
「……?」
「大きなルフの流れへ、帰って行くだけなんだ」
「ルフの、流れ……」
「うん。だからね、死んだ人達は、いつでも
お姉さんの事を見守っているんだよ」
そう言って寂しそうにアラジンは笑って
を見た。
始めて会った時に、元気の無かったアラジン。
詳しい事は知らなかったが、アリババは、アラジンも大切な友人を亡くしたのだと言っていた。
アリババもアラジンも、こんなにも若くして大事なモノを失っている。
それなのに、こんなにも強く生きている。
笑っている。
そして、自分を元気づけてくれようとしている。
そのことに
は、スッと冷や汗が引いていくような気がした。
「はい……ありがとうございます、アラジン殿」
そう言って
はほんの少し、目元を緩めた。
まだ
に笑顔は戻って来ない。
それでも、
が少しでも嬉しそうにしているのに、アラジンはにっこりと笑って応えた。
2014/04/28