視界がはっきりとしない。
昼間だというのに、目に映る景色はぼやけていた。
ただでさえ片方の目しか見えない上に、見える景色までもが明瞭とせず、自然と
の歩調はおぼつかないものになる。
その上に、眠れない事から来る疲労で体は既に限界に近かった。
体力は既に無いに等しく、けれど部屋に篭っていることが出来ずに、
は何とか壁に手を付いて王宮の廊下をゆっくりと歩いていた。
「(私は…どうして…)」
気を抜けば思考が同じ所をぐるぐると回る。
考えても詮無いことだと分かっているのに、既にその判断すら出来なくなっていた。
「
さん?」
聞こえた声に、
は咄嗟に振り返ろうとしたけれども出来ず、バランスを崩した。
「っ…」
「!?」
膝を付いて、なんとか手を地面に付くことで転倒は免れる。
慌てて駆け寄ってきたアリババがいよいよ地に伏しそうな
を支えた。
「大丈夫ですか、
さん!?」
声を掛けられて、胡乱な目をした
がアリババを見上げる。
焦点の合わない目が、一瞬だけアリババを捉えた。
「…、おうじ………」
掠れた音で紡がれた声。
その声だけを残して、
は意識を手放した。
06
「……ん、……さん……!!」
「っ…!」
ひどい動悸がした。
目が醒めた瞬間、全く別の世界に生まれたような気分になる。
けれど、これもここ最近では、そんなに珍しい事ではない。
乱れる思考をなるべく考えないように頭の隅に追いやり、荒い息が静まるのを待つ。
少しずつ息が落ち着いて来た所で、
は自分の部屋がいつもとは違う状況であることに気がついた。
顔を横に向けると、いつもは誰もいないはずのベッドサイドにはなぜか、アリババの姿。
その後ろには、見慣れた侍女と、医者の姿もある。
「……アリババ様…?」
「
さん、大丈夫ですか」
心配そうに眉尻を下げるアリババに、
はどうしてこのような状況になったのかを思い出そうとした。
けれど、思い出せない。
「…あの…」
「
さん、倒れた時のこと覚えてますか」
“倒れた時”、そう言われても、
の記憶には思い当たるものがない。
けれど確かに、部屋を出た後に意識が朦朧として、その後の事を覚えていないことに思い至った。
「私は、倒れて…?」
「ああ。酷い顔色で廊下を歩いてたんだ。…覚えてない?」
「いえ、あの…申し訳ありません」
それを聞いたアリババは更に困ったようにそっか、と小さく言った。
アリババがここに居て、しかも今の言いようからするに、恐らく倒れた際に何らかの迷惑をアリババに掛けてしまったのだろう。
「申し訳ございません、とんだご迷惑をお掛けして…」
は軽く息を着いて、とりあえず上半身を起こそうとした。
肘をベッドについて上半身を起こそうとすると、アリババがまだ寝ていた方が、と腰をあげた。
「申し訳、ございません…もう大丈夫です…」
アリババの制止しようと伸びてくる手をさりげなく断ったものの、ベッドについた肘は小刻みに震えて、
はそれ以上自分の上半身を起こす事が出来なかった。
は自分の上半身すらまともに起こせない事に気がついて、しばし呆然とした。
それほどまでに体力が落ちていたのか、と。
が上半身を起こせずにもたもたしている内に、アリババが
を再度ベッドへと横たえるように手を差し伸べた。
「無理しない方がいいって。まだ顔色もすげー悪いし…」
「……すみ、ません…」
体を起こそうとしたたったそれだけの動作だったのに、息が上がった
は力無く再度ベッドに沈んだ。
その後
は大人しく医者の診察を受け、決して一人で出歩かないように、少しでも食事を取って安静にしているように、と医者にきつく言われた。
医者と侍女が部屋から出て行くと、部屋の外で待っていたらしいアリババが部屋へ入って来た。
「アリババ、様…待っていてくださった、のですか…?」
「うん、ごめん…なんか気になって」
「いえ、謝らないで…ください」
アリババは少し居心地が悪そうにしてはいたが、
にとってはむしろ有難かった。
アリババと居るとどこか、心が安らぐような気がした。
それは、
がアリババに今は亡き王子の事を重ねているからかもしれなかったし、
と同じように、国から離れて苦しむ一人の少年だからかもしれなかった。
その感情を何と言い表せばいいのか、
は言葉を持ち得なかった。
けれど、アリババが暗い顔をして座るのを、
はベッドに横たわったまま見つめた。
―――そんな顔をして欲しいわけではないのに…
「アリババ様、どうか部屋に戻って、お休みください。お気に掛けて頂けるのは、大変…嬉しいのですが…アリババ様も、あまり顔色が…よろしく、ありません」
は枯れた声で、それでもなんとかアリババに休んで欲しいと口を開いた。
口から出る覇気のない声に、これほどまでに自分の体が弱っていたのかと
は今更ながらに驚く。
「いや、俺のは…まあ、なんていうか…。うん、ありがとう。ちょっとしたら戻るよ」
「………はい」
そう言って、困ったように笑う。
アリババのそんな困ったような笑顔しか見たことない事が、
は少しさびしいと思った。
「なんか、さ」
「……はい」
「ごめん、なんか、
さんの事ほっておけなくて。
さん見てると他人事とは思えなくって…。……ごめん、迷惑だよな」
「いえ、そんな事は…ございません」
アリババは慌てたように右手で頭をかきながら謝ったが、
が至極真面目な顔で首を横に振ったのを見て、空笑いを引っ込めて気まずそうに少し目を伏せた。
「つらくてつらくて、どうしようもなくて……そんな風に
さんが思ってるような、そんな気がして、さ…。俺も、……そうだから……」
「……はい…」
「………」
「………」
アリババの言わんとしていることは、痛い程分かった。
国に居たくても居られない苦しみを、大切なものを失った悲しみを、孤独を感じる寂しさを、
もよく知っていたから。
「そういえば…以前、ジャーファルさんが言っていた事、覚えてるか?」
「ジャーファル…政務官殿、が…?」
「うん。気が向いたら、町に降りてみないかって、そう言ってたような気がするんだけど」
「……はい、覚えて、おります」
「みんなが元気になったらきっと、一緒に町に行こうぜ。珍しいものたくさん見て、美味いもんたくさん食うんだ。な?」
“みんな”、その中には
やアリババはもちろん、アラジンやモルジアナも入ってるのだろう。
なんだかアリババの言い方がおかしくて、
は笑おうとした。けれど、ぴくりと口角が動いたような気はしたけれど、それだけだった。
「みんなが元気に、なったら…ですか。是非、行ってみとうござい、ます」
「だろ?だから、
さんもがんばって元気になってくださいよ」
ゆるやかに笑うアリババに、やっと本当の笑顔に近づいてきたかもしれない、と
は思った。
ぴくりとも動かない自分の顔を
は少し恨めしく思いながらも、それでもなんとか声だけは少しでも明るく聞こえるようにと願った。
「……はい」
もうこれ以上、心配を掛けたくない。
アリババ達と一緒に町へ降りて、いろんなものを見てみたい。
の中に小さな小さな“思い”が芽生えた。
この国に来て初めての、前へ向こうと思えるようなもの。
それはとてもとても小さなものかもしれないけれど、確かに
の奥底に根付いて、小さく芽吹いていた。
2014/03/18