真夜中を小一時間程過ぎた深夜。
は夜の王宮を歩いていた。
散歩というわけではない。眠れなかったのだ。
ここ最近、よく夢を見る。
以前は見なかったように思うが、最近は生まれ故郷での事を夢に見るようになった。
この前昼に王子の夢を見てからだと言うことは分かっている。
ここ最近では毎晩、夢にうなされて目が覚める。
けれど、この悪夢を止める術が無い。
その夢の大概が、国が滅ぶ事になったあの日の事だった。
炎に包まれる王城。
死にゆく同僚、仲間の姿。
焼けただれ、血だらけで、ボロボロになった自分の体。
そして、首だけになった王子。
いつもいつも、夢の中で
は王子を助けようと走り回っている。時に敵に出会い、刃をその体に受け、焼けただれた手足を引きずりながら、体を焼くような激しい痛みと戦い、息も絶え絶えになって王城を走り回っている。
けれど、仲間の死体が転がる道を走っても走っても、いくら走っても、王子を見つけられない。
もうだめだ、いや諦めるわけにはいかない、だが体が限界を迎えている、いやけれどまだ走れる――。
何度も同じ事を頭の中で繰り返しながら、いつ終わるとも知れない時間を延々と走っている。
そうして最後は、突然にして、あの広間に立っている。
謁見の間。
据えられた王族の首。王子の首。
その体のない王子の首が、言う。
―――苦しい
―――
。苦しい、痛い、くやしい、つらい
―――
―――助けて、
―――
大体そこで、目が醒める。
目が醒めて、嘔吐する。
「申し訳ございません…。申し訳ございません、おうじ。王子――っ!」
夢と現実の堺も分からなくなって、
は胸をかき抱いて、謝り続ける。
少し落ち着いて来ると、それらが夢であった事を知る。
それらがもう既に過ぎてしまった過去である事を知る。
そうして、
は眠る事を放棄したのだ。
今日もまた、
は夜の王宮を歩く。
05
の住む部屋の廊下の先、その一番端には憩いの広場と称した、小さな空間がある。肘掛けや机、窓側には絨毯の上にクッションが置いてあって、人が自由にくつろげるようになっている。
個人の部屋よりも大きな窓を設えたその部屋は、申し訳程度のろうそく1本の小さな灯りに照らされている。夜の静けさが支配するその部屋には、当然の如く誰も居ない。
は王宮を歩き、そろそろ疲れて来たけれども自室へ戻る気にもなれず、そこで暇を潰す事にした。
部屋にいては、気持ちが落ち込むばかりだ。ここだってそんなには変わらなかったが、自室にいるよりはマシだった。
ろうそくの灯りのほとんど届かない窓辺に座って、時折雲に隠れる月を片方の目で見つめていた。
どのくらいそうしていただろうか。
月の位置がだいぶ傾いた頃、こんな夜半だと言うのに誰かその空間を訪れた客人があった。
駆け足でやって来たその客人は、辿り着くなり広間の端で壁の方を向いたまま、立ちすくんでいる。
金髪の髪の持ち主は、良く見てみれば小さく肩を揺らして時折しゃくりあげながら、けれど声を押し殺して、静かに泣いていた。
窓際の暗がりに居る
には気がついていないようだった。
は声をかけるべきか迷い、けれども放って置けずに腰をあげた。
「……アリババ様」
「……!!」
静かに、呼びかける。
アリババは真っ赤の目のまま、人が居たことに驚いたように顔をあげて、キョロキョロと辺りを見回す。すぐに窓辺に人が立っているのに気がつき、慌てて涙を拭く。
「あ…、
さんか。わりぃ、気が付かなかった」
驚きのせいか、敬語も飛んでしまったようだった。
「…いえ、……」
「邪魔してごめん」
早口で言って立ち去ろうとするアリババの背に、
は半ば無意識に声を投げかけていた。
「王子はどうしてお泣きになる」
「……、え、……?」
「どうして、そんなに悲しい瞳で笑おうとなさる……?」
「―――」
アリババは何事かを言おうとして、けれど言葉にならず、それからまた少し溢れ始めた涙を拭った。
「……」
「……、不躾でございました。お許しください…」
は無表情のまま、けれど少しバツが悪そうに俯いた。
「いや。…なんか、ありがとう」
「…?」
「いや、ありがとうっていうのも変かな。でも、今はその言葉が合ってる気がした」
「……」
「………、少し、ここで月を眺めても、いーかな」
「…もちろんでございます」
アリババは静かに、
の隣に座った。
との間には、人一人分の間が空いていた。
アリババは、ぽつりぽつりと話をした。
故郷での戦争の事。大事な友を失ったこと。自分は国には留まる事が出来ずに、シンドリアへ亡命したこと。
まだ心の奥底でくすぶっているもの。
悔やんでも悔やみきれない、大きな後悔。
整理の出来ない複雑で巨大な、深い深い悲しみ。
どうしても言葉に出来なかった、たくさんの想い。
時間がそうさせるのか、知らない相手だから出来るのか、アリババは言葉を詰まらせながらも、少しずつ
に語って聞かせた。
二人だけの空間に、時折ぐす、とアリババが鼻をすする音がする。
「悔しくて…もっと早くあいつと話をしておけばって。ずっとずっと、後悔してて…」
そうすれば唯一無二の友や、国だって、ちゃんと救えたはずだ、と。
要所要所をかいつまんでいたが、友との話をするアリババは、声が震え、涙が溢れて止まらなかった。
民の事を話す時は、本当に自分の家族の事のように喜び、悲しみ、心配していた。
「あいつらが今頃ちゃんと食べられてるのか、ちゃんとした暮らしが出来てるのか……、そればっかり気にかかって」
その事を考えると、食事が喉を通らないと言う。
本来なら国の中心で、国を立て直す手助けをしたかった。
けれどそれが叶わない今、アリババがバルバッドにしてやれることは無いに等しい。
自分だけ生きていていいのか。
自分だけまるで何も無かったかのように、シンドリアで贅沢に暮らしていいのか。
目の前の食事が憎く思えて来ることすらある。
「なんだか、考え始めると涙が止まんなくて、さ……。アラジンとモルジアナを起こすのも悪ぃし。部屋、抜けだして来た。情けねぇよ、ほんと。何も出来ない自分が……」
そう言ってまたアリババは、目元を拭う。
同じだ、と
は思った。
私のお仕えした今は亡い、かの王子と同じだ、と。
自分は無力だと嘆いている。
嘆いて、けれど必死に前を向いて歩こうとしている。それが出来なくて、歯がゆくて、涙を零し、それでも目はひたすら前を向こうとしている。ひたすら足を踏み出し、前へ進もうとしている。
そして、自分ともどこか似ている、とも
は思った。
成し遂げられなかった想いがある。
失意の底で、もう進むべき道すら見えず、ただ呆然としている。
ただひたすらに、自分の行いを悔いている。
けれど、アリババと
では決定的に違う部分があった。
“前へ進もう”、その気持ちが今の
には無かった。
留まりたいと思っているわけではない。
けれど、前へ進む必要を感じなくなったのだ。何より、共に居て支えたいと思う人が既に居ないのだから。
あがくことをやめた。
前を見る事をやめた。
開いた目はただ虚空を眺め、無為にすぎゆく時間をただ眺めているに過ぎない。
涙を流すアリババを見て、その違いを見せつけられた気がした。
似ている。
けれどこの人は自分とは違うのだ、と。
だからこそ、
はアリババを支えて差し上げたい、とも思うようになった。
このどこまでも優しく、前を向いて歩こうとしている彼を支えて差し上げたい、と。
「………何かわりーな、俺ばっかり話聞いてもらって」
「いえ…。お話頂いて、嬉しく思います」
「……、そっか…サンキュな。
さんは…どうしてシンドリアに?」
その質問に、
は話すべきか一瞬躊躇した。
正確には、ずっと誰かに話さなければとは思っているものの、いざ話そうと思うとどう言っていいのか分からなかった。
アリババ同様、
も未だ心の整理が出来ないでいた。
の中で、時間はあの時のまま止まってしまっていたから。
あの出来事は、今でも昨日の事のように
の記憶に刻まれている。思い出したくなくても思い出してしまう、思い出すだけで息が止まりそうなほどの悲しみが、まだ生生しく
の中に横たわっている。
だから、それを客観的に見て言葉として表現するような芸当は、まだ
には出来そうになかった。
けれど、少しでも話す試みをしてみようと思った。
アリババが
に対してそうしてくれたように。
「私が西方の小さな国で王家にお仕えしていた事はお話したと思いますが…、…私の国は隣国との戦火にのまれ、滅びてしまったのです」
「滅びて…!?」
「…はい。あれはもはや戦争などではなく、虐殺……でございました」
「…!!」
「私のお仕えしていた王家も、ことごとく根絶やしに…………。私は運良くシンドバッド王に助けられ、こうしてシンドリアに置いて頂いておりますが………王宮に居た者はおそらく全て………」
「…、そんな……!」
も、たどたどしく、あの夜の事を語った。
手傷を負いながら戦ったこと。王子を助け出そうとしたこと。それが叶わなかったこと。
けれどどうしても王子の最期については語れなかった。
どうしてもそれを口にしてしまうのが怖かった。怖くて怖くて、仕方がなかった。
が口を閉じてから、しばらく二人は無言だったが、そのうちアリババは
が小さく震えている事に気がついた。
顔はいつものような無表情なのに、細かく体を震わせ、月明かりでも分かるくらいに唇は紫色になっていた。
「
さん、顔色が良くない。わりぃ、俺が昔のこと思い出させるような事言ったから…」
「いえ……申し訳ございません、いつもこうなのです。いけませんね……まだ、私はあの夜に囚われている……」
微かに眉根を寄せながら、
は火傷跡の覆われた手をもう片方の手で包み、悲しみが過ぎ去るのを待つように身を僅かに縮めた。
アリババもまた、
はどこか自分と似ているのだと、そこはかとなく感じていた。
「……部屋で休んだ方が良い。送るよ」
そう言って伸ばされたアリババの腕を、
はそっと握り返した。
「いえ……実は、眠ると決まってあの夜の事を夢に見て……眠れないのです。だから、私はもう少しここに……」
「………そっか。俺と一緒だな」
眉尻をハの字に下げ、アリババは困ったように笑った。
「……はい」
も笑い返そうとしたが、顔の筋肉はまるで動かなかった。それでも
の意図を汲み取ったアリババは、うん、と小さく頷いた。
そうして二人は、東の空が白んで来るまでただ静かに時間を共にした。
2013/11/14