03
歩ける程には傷が癒えた
は、シンドバッドの進言通り、時折王宮内を散歩するようになった。
最初は侍女に支えられながら短い距離を歩くのみだったが、今では一人で出歩く事も出来るようになった。
まだ左足は以前のようにスムーズには動いてはくれないためにびっこを引くようだし、足もうまく上がらず躓いたりもする。火傷痕の皮膚は変に引きつってまだ左腕を動かすのはぎこちない。左目は相変わらずほとんど見えず、時折距離を測りかねて物を落としたり家具にぶつかったりする。
しかし、ほとんどの生活の雑事を自分で出来るほどには、身体の方には確実に回復が見られた。
定期的に検診を受けてもいるが、もう侍女が部屋に常駐することもない。
特に理由はないが、けれど日の沈む前のこの時間になると、週に1度は夕陽の見える場所へ足が向く。
そうして今日も、以前ジャーファルと言葉を交わした、夕陽のよく見える屋上にほど近い露台へ来ていた。
が露台に来てから陽もだいぶ傾き、そろそろ水平線に太陽が没しようという頃合いだった。
「ここからの眺めがお気に召したようだね」
ふと向けられた声に、
は沈んでいた思考から浮上した。
聞いたことのある声。これは王の声だ。
振り向くと、いつものように明るい笑みを称えたシンドバッドと、その後ろに政務官のジャーファルが立っていた。
夕陽に赤く照らし出されたシンドバッドの顔は、どこか得意気で、それでいて自信に満ちあふれているように
には見えた。
「……そうでしょうか」
「そうだろう。たまに下からここに居る君を見掛けるよ」
「……」
分からない、と言った風に
はゆるりと首を傾げる。
「まあいいさ。気持ちの整理も、ゆっくりと付けていけばいい。ところで、今日は君に知らせておきたいことがあってね」
「……何でしょう」
「と言っても、大した事ではないんだ。数日後に俺は国外への視察に出ることになってる。ちょっとの間留守にするが、まあその間も変わらずに過ごしてもらって構わない。それだけ、言っておこうと思ってな」
わざわざ外国人の、しかもシンドリアに利益をもたらすわけでもない客人に、国外視察の前で忙しいだろう中をぬってわざわざ挨拶に来てくれた。
それがどういうことだか理解して、
はこの男の器の大きさを垣間見た気がした。
「私も国を離れます。何か困った事があれば、侍女に申し付けてください」
ジャーファルも、
を気に掛けるように、口を開く。
は恐縮して目礼した。
「……恐れ入ります」
「では、まだやり残した事があってな。暗くならない内に部屋に戻るといい」
はそれには無言で返した。
代わりに、踵を返した2人に向かって、ス、と
はおもむろに片膝を付く。
左手は立てた膝の上へ置き、もう片方の手は、手のひらをピンと伸ばして自分の心臓の上に置く。
の国での、最敬礼だった。
「……旅のご無事を、お祈り致します」
「…!ああ、ありがとう!」
の様子に2人は大層驚いた様子だったが、シンドバッドは、
が今まで見た中では一番明るい笑顔で笑い、露台から姿を消した。
**
王が国外へ出てから数ヶ月した頃、
はジャーファルやその一行のみが帰国したとの知らせを聞いた。
王はまた、どこか東の方の国へと向かったのだとか。
王やジャーファルがどの国へ行っていたのかは聞いていない。が、七海連合の外交長官を派遣する手はずを整えたりと、文官が慌ただしくしていたと聞いていた
は、少なくとも今回は国外視察などという生易しい状況では無かったのだろうとぼんやりと思っていた。
最も、
は時折部屋に様子を見に来てくれる侍女が、ぽつりぽつりとこぼす内容しか知らない。侍女も、話す内容に困るので、とりあえず最近起こった事を掻い摘んで話しているようなものだったから、シンドリアや関係国の詳しい内情については
は全くという程知らなかった。
今日も散歩から戻ってくると、部屋に様子を見に来ていた侍女が何か困ったことは無いかと聞いてきた。
特に無いと言うと、それでもお茶を飲みながら他愛のない話をする。どうやら侍女も、ジャーファルや医師から
を気に掛けるように言われているらしい。話をすると言っても、ほぼ一方的に話す侍女に対して
が相槌を打つという、会話らしくない会話ではあったが。
今回侍女の持ってきた話の中で一番新しい情報は、最近シンドリアに来たらしい客人の事だった。
それは、帰って来たジャーファル達が連れていたらしい新しい食客が、緑射塔の
の部屋のすぐ近くに住み始めた、というものだった。
気分転換に一度挨拶に行ってはどうか、と侍女は言った。
なるべく人との接触を避けている
は、もとよりあまりそのつもりは無かったが、いつもの話のように曖昧に返事をし、とりあえず頭の片隅にその話をしまった。
「アリババ王子が、何も口にされていないようで…」
「アリババくんが?それは困りましたね…分かりました、私も少し行って見てみましょう」
今日も軽い散歩に出ていた
が中庭から帰ってくる途中、階段を登っていると上の踊り場から話が聞こえて来た。
片方はジャーファルだろう。もう片方は、よく往診に来る医者と一緒にいる侍女だ、と
は目星を付けた。
案の定、階段を登り切った踊り場に居たのは、予想した通りの二人だった。
は侍女の言った言葉に、無意識の内に反応してしまった。
「…政務官殿」
声を掛けられて、珍しい事もあるものだ、とジャーファルは今しがた階段を登ってきたふうの
に目を向けた。
普段は必要最低限口を開かないし、口を開いたとしても相槌を打つのが関の山だ。その
が自ら人に声を掛けるのは、ひどく珍しい。
「
。なんでしょう」
「あの………王子、とは」
が無表情に、それでもその口から『王子』という言葉を紡ぐと、ジャーファルはしまった、と心の中で呟いた。
今の話しを聞かれていたのだ。
彼女にとって、『王子』という人種は今はタブーのように思えてならなかった。
けれど、アリババと
は何の関係もない。
ジャーファルは聞こえてしまったものはしょうがない、と素直に話す事にした。
「いえ、何でもありません。新しい食客の方々がご気分が優れない、という話をしていただけです」
「……そう、ですか」
ジャーファルの返答に、少し考えこむようしていた
は、しかしまた顔を上げると、いつもの調子で、
「……あの、私も一緒に行っても、よろしいでしょうか」
言った。
それにはジャーファルも驚きを隠せなかった。
何を思ってそのような事を言うのか。
今まで他人に極力干渉しないようにしてきた
が、いきなりそんな事を言うとは。
無表情の
からは、その気持ちを伺い知ることは出来ない。
「――、…それは、なぜ?」
「……ご迷惑は、お掛けしません、から」
ジャーファルは言おうかどうか逡巡した後、躊躇いがちに口を開いた。
「
、分かっているかとは思いますが、今言った食客と言うのは貴女の国の王子ではありません」
「…はい、存じております。私のお仕えしていた王子は、もうおりません」
そうはっきりと言う
に、先に折れたのはジャーファルだった。
「……。……分かりました、貴女の部屋のすぐ近くですし、ご挨拶でもしておきましょうか」
「――ありがとうございます」
ジャーファルはまだ側に居た侍女に、食堂から果物など何か軽いものを見繕って来るように指示をすると、
を伴って歩き出した。
何を思って
がジャーファルに付いてくると言ったのかは分からないが、いつもと変わった様子もなく淡々と頼みを口にした
の様子に、微かばかりに不安と期待を抱く。
これをきっかけに、
がまた昔の事を思い出して苦しい思いをしはしないか。
これをきっかけに、
が少しでも元気になりはしないか。
しかし今は意図が分からずとも、本人の希望通りにしてみようと言う思いが勝って、ジャーファルは
を連れてアリババ一行の滞在する部屋をノックした。
アリババ達の部屋は、
の部屋から3つ隣の部屋で、本当に目と鼻の先だった。
どうぞ、と中から掛けられた女の子の声に、ジャーファルは「失礼します」と短く言って扉を開けた。
がまず目にしたのは、特徴的な赤い髪を持った、見慣れない顔立ちの少女だった。華奢だがひ弱という印象はない。
扉の前に立っていた人達を見て、少女は少し驚いたように目を見開く。
「ジャーファルさん…!」
「こんにちは、モルジアナ」
「…、こんにちは」
「お邪魔してもよろしいですか」
「あ…、どうぞ」
促されてジャーファルと共に中に入ると、更に二人の若者が見えた。
一人は背の低い、まだ幼さの残る男の子。長い髪を三つ編みに結い、部屋の中央にある円卓の椅子に腰掛けている。気怠そうにジャーファル達の方を向いたが、それでもジャーファルを見つけると力なく笑んだ。
「あ、ジャーファルお兄さん。こんにちは、ちょっとぶりだね」
「ええそうですね、アラジン。変わりありませんか?」
「うん。僕はいつも通りさ」
いつも通りという割には、どこか覇気が欠けているように見えた。
残る一人は、幼い男の子の隣の椅子に腰掛け、腕を机の上で組んで机に突っ伏している少年。3人の中では一番年長に見えるが、3人の中で一番元気が無いのも彼のように見える。
気分が優れないと言っていたのは彼だろうか、と
は何となく考える。
「それは良かった。アリババくん、こんにちは」
ジャーファルが声を掛けると、アリババはやっと気がついたというようにのっそりと腕から顔をあげ、こちらを向く。
疲れを滲ませた琥珀色の目が、ぼんやりと二人を捉える。
「…あ、ジャーファルさん。どもっす…」
ぺこり、頭を下げるものの、ニコリともしない。
目の下の隈が、折角の整った顔に影を落としている。
「お加減はいかがですか。あまり物を食べていないと聞きましたが…」
ジャーファルの言にアリババは少し首を傾げたが、元気のない様子で、それでもへらりと笑った。
「あ、いや、あんまりお腹空いてなくて。大丈夫です」
「嘘おっしゃい。もう数日何も食べてないでしょう。今何か軽い物を持って来させますから、少しでも食べてください」
「あー、……はい。すみません迷惑かけて…」
そう言って、またへらりと笑う。
誰が見ても無理をしているのは明白だったが、当の本人はあまり気に掛けた風もない。
アラジンがジャーファルの後ろに控える女性に目を向けたのに気がついて、そういえば、とジャーファルはなるべくいつもの調子を心がけて切り出した。
「紹介します。彼女はあなた方の3つ隣の部屋に住んでいる食客です。部屋も近いですし、挨拶でもと思って連れてきました」
ジャーファルが促すように場を空けると、
は数歩前に出て軽く胸に手を当てた。
「…
と申します。お見知りおきを」
「初めまして、おねーさん」
にこりと笑いかけるアラジンに続いて、モルジアナやアリババも軽く会釈をした。
「私もまだこの王宮についてあまり詳しくありませんが、何かあればお声がけください」
そういって軽く礼をする。
ジャーファルは少し複雑な気持ちでその様子を眺めつつも、今しがた侍女が持ってきた果物や軽食を机の上に並べ初めた。
モルジアナは、二人を気にしつつもいつもの様子で食べ物に手を付けている。
けれど、アラジンは最初はカラフルな色の果物がおいしそうだと言ってはしゃいでいるように振舞っていたが、果物を少しついばむくらいであまり手が進まない。
アリババに至っては、剥かれた果物を一カケ食べただけで、あとはモルジアナとアラジン、ジャーファルが話すのに聞きいって全く食べる様子はない。
も円卓を囲む椅子に座るジャーファルの隣で果物をつまみながら、3人が最近の事を話すのに耳を傾けた。
ジャーファルが帰って来てからのシンドリアの事、マスルールという青年の事など、ジャーファルとアリババ一行が会って居なかった間の話題に、それでも控えめに花を咲かせた。
アリババは、時折アラジンに話題を降られて打つ相槌以外に、ほとんど言葉を発しないままだった。
そして、仕事があると言って席を立ったジャーファルは、今度街におりてみないかと3人と
に提案した。
「シンドリアは貿易が盛んですから、色々な国の物に出会えますよ。それにシンドリア原産の果物や野菜、それを使った名物料理など、美味しいものもたくさんあります。気分転換に、是非街に下りてみてください」
そう言うと、持ってきた果物や軽食はそのままにして、
を伴って部屋を後にした。
アリババは最後まで、隈の出来た元気の無い顔で、へらりと笑っていた。
部屋を出たジャーファルは、来た方向とは逆の方を指指しながら、口を開く。
「では
、私は仕事がありますので、これで」
「…はい」
「……。…まあ、部屋も近いですから、まだ年若い彼らを気にかけてあげてください」
「…はい。ありがとうございます」
「いいえ」
相変わらず無表情の
からは、何を思っているのかを知る事は出来ない。
けれど、何か考えている風の
に若干の不安を抱きながらも、ジャーファルはその場を後にした。
2013/08/10