17
「リンさん。すみませんが、式をいくつかお貸し願えませんか」
背をもたせ掛けられる壁側に麻衣と
が座り込んでから、
がカメラの調整をしているリンに向って口を開いた。
リンは一旦手を止めて、
の方を振り返る。
「いいですが、いくつ必要ですか?」
「逆に、いくつは残しておいた方がいいですか?」
「万が一の事を考えれば、3つは手元にあった方がよいのですが」
「じゃあ、2つを柱の札の見張りに付けてもらいたいんですが、可能ですか?」
「はい、可能です」
「では、お願いします」
リンは視線を宙空へやり、しばらくしてから
に視線を向けた。
「これでいかがですか」
「いい感じです」
は満足そうに頷いた。
周りのメンバーはそのやりとりを物珍しそうな視線で以って観察していた。
どうやら、リンと
の間にはそうした“見えないもの”に関する会話がなんの支障も無しに成立するらしい。それがとても物珍しいのだ。
「もしリンさんがこの部屋から動かなければならないような時は、出来れば麻衣の側に1つ置いておいてください。何かあれば、麻衣の空っぽの体を守ってもらえると有り難いです」
「それは可能ですが、
さんはよいのですか?」
「ええ、まぁ。私は、霊が何かしようとしても、ちょっとやそっとじゃビクともしないようになってますんで、お気遣いなく」
「そうですか」
はそういう(、、、、)類の訓練をしているから、普通の人に比べたらだいぶ耐性がある方だろう。もし万が一
の体に憑かれたとしても、霊が簡単に
を操れるとも思えない。
それに、
一族の中で護符を書くのが一番得意な能力者の書いた護符も常に身に着けているので、早々の事がなければ、例え霊の悪意ある攻撃であっても簡単にはやられないようになっている。
カメラ等の設置が完了した旨を所長から聞くと、
はでは、と周りのメンバーを見回してから口を開く。
「麻衣、準備はいい?」
「うん、いつでもいいよ」
「そいでは、行ってきましょうかね。麻衣、自分のペースでいいからね。私は先に出てその辺で待ってるから」
「うん、りょーかい」
「気を付けてくださいよって」
「「はーい」」
麻衣はだらんと体の力を抜いて、壁に背をもられかけて目をつむる。
麻衣の準備が終えたのを確認して、
も壁に背を付けて足を結跡朕座(けっかぶざ)に組んで目を閉じた。口の中で短い呪を間隔を開けて3回唱える。唱え終えると、かくん、と首の力が抜けて俯く形になる。それと同時に、すでに霊体は自分の物理的な体を見下ろしていた。
が霊体でいるとき、基本的には肉体で居るときから少し、周りの景色の見え方が変わる。
空間全体は色をそのままに保っているけれど、物体は少し色を薄めて透けているように見え、存在感が朧気になる。それとは対照的に、霊や聖の気を宿したもの、普通の人間には認知出来ないような力や存在がハッキリと見て取れるようになる。
は、SPRのメンバーが
と麻衣に注目しつつ無言で立っている部屋の中をうろうろしながら、麻衣の霊体がこちら側(、、、、)に来るのを待った。
うろうろしていると途中で真砂子と目が合った。
何か言っているような気はするが、この姿だと返って、生きた人間の声は聞こえにくい。真砂子はどうやらここに
がいる、とでも周りに言ったのだろう、一瞬メンバーの目が
の霊体がある位置に向いたが、はっきりと
の位置を見ていたのは真砂子だけだった。
少し待っていると、淡い光が凝り固まって、パ、と麻衣が現れた。麻衣の目はキョロキョロと辺りを見回し、すぐに視線を
へと行き着かせる。
「お待たせしましたー」
「いやいや、思ったより早かったよ。では、私の後を離れないように付いてきて」
「うん、分かった」
「行ってきます」
麻衣が真砂子に向って手を振ると、真砂子はこちらに向っておしとやかに手を振り返した。
いってらっしゃい、と微かな声が聞こえたような気がした。
暗い、暗い場所だった。
光すらも吸収してしまいそうなその場所は、肉体を持った人間では入る事の出来ない場所だ。
そこにどっかりと腰を据えて古びた椅子に座っている男が居た。
先ほど浄化された若い兵士と同じような服装をしている。襟の勲章の数だけが違っていた。
握った刀の先を地について、目をつむり、辺りの気配を探るように黙している。
と麻衣が近づいていくと、その男は目を開けた。
手下の霊達を失って尚、その男の眼光は強く鋭い。
それがギラリと
と麻衣を睨む。
が手で剣印を結ぶと、その男は立ちあがった。いつでも鯉口を切れるように、ゆっくりと柄に手をかける。
が呪を唱えようと口を開くより先に、麻衣が声を発した。
「
。あたしに、チャンスをちょうだい」
「麻衣。この人はもう堕ちてる。声は届かないよ」
「分かんないよ。ね、お願い」
「……一度だけだよ」
「うん」
麻衣が
の前に出る。
兵士は刀を抜いた。
「あたしは、谷山麻衣と言います。お名前を聞いてもいいですか?」
兵士が一歩前に出る。
麻衣も
も、その場からは動かない。
『……田尻相馬、という』
の予想に反して、兵士は声を返した。
そのことに
は微かに目を見開く。
だったら、既に堕ちてしまった霊を前にして、これだけすんなりと相手から名前を聞くことは出来ないだろう。それは、恐らく
が今までの経験から“悪霊は祓うべきもの”と思っているからかもしれなかったし、麻衣にはある何かが
には無いからかもしれなかった。
どちらにしても、麻衣の中にある“何か”が、霊に対して強く働きかけている事は確かだった。
ナルが麻衣を連れて行けと言った意味がなんとなく分かった気がした。
「田尻さん。あなたは兵隊さんですよね。日本を守るために戦ってくれた」
『………そうだ。お前たちが奪おうとしているこの日本を、守るために戦っている』
「田尻さん。あたしも日本人です。あなた達が守ってくれた日本に住んでいます。豊かで、食べるものに困らない、素晴らしいこの日本に住んでいます」
『………』
「今のこの日本を作ってくれたのは、あなた達です。もう、気がついているんでしょう?もう、戦争は終わったんです」
ピタリ、と田尻は足を止めた。
抜身の刀を握ったまま沈黙している。
「あたし達は領地を奪いに来た敵じゃないんです。ここに住んでいる人に、今までのように暮らしてもらいたいだけなんです。田尻さんは命を掛けて戦ってくれた。でも、もう戦争は終わったんです。もう、家族の所に行ってもいいんです」
田尻は足を止めたまま、俯いた。
もしかしたらこのまま浄化してくれるのではないかと思いもしたが、田尻の身から出る黒い瘴気は相変わらず足元に漂って、じわりじわりと辺りを侵食している。浄化の光が灯ることもない。
「我らは、守っていたのだ」
「はい」
霊は、顔を麻衣に向けて尚も口を開いた。
眼は強い光を湛え、けれどどこか物悲しいように見えるのは果たして気のせいだろうか。
麻衣は向けられた言葉に、しっかりと頷き返す。
「知っていた。戦争が終わったこと。……………我らが、………負けた、こと」
「………はい……」
強く歯を食いしばった田尻は、少しの間目線を地面に落としている。
けれどももう一度顔を上げた時には、その目に再び闘志を燃やしていた。
「中野は先に行った。だが、私は殺しすぎた。同じ所へは行けぬのだ…っ!」
田尻は途端に鬼の形相になり、刀を構えて走りだした。
血走った目は麻衣に狙いを据えている。
は素早い動きで麻衣の前に身を滑りこませながら口で呪を唱える。
瞬時に右手に顕現した錫杖を両手で持ってからすぐさま一閃、下段から袈裟懸けに振り上げた。
「フストーヤ ロンロギヤ ネイレイカ セツマ!どっせい!」
相手を捉えたかに思えた錫杖はしかし、田尻には届かなかった。ぎりぎりのタイミングで唱えた金縛りの詠唱は、しかし田尻の動きを奪うまでには至らなかったのだ。
寸での所で錫杖の軌跡を避けた田尻は今度は身軽に一歩踏み出し、抜身の刀を
目掛けて突き出した。脳天ど真ん中を狙ったそれを、
は詠唱を尚も続けながら難なくかわすと、錫杖を今度は横薙ぎに払う。
田尻はそれを身をかがめてよけつつ、足払いをかけたが、それも
は跳躍する事で避けて次の一手をかける。
これが生身の人間であったなら、こうまでうまくはいかないだろう。
いくら弱っているとは言え、相手は元日本帝国軍の戦場慣れした兵士、その悪霊である。
けれど
とて、日頃鍛錬を積んだ霊能者。生身の肉体ももちろんだが、霊体で自由に動き回れるようにとの訓練は積んでいる。むしろ、物理的な肉体がない分、慣れてしまえば霊体の方が遥かに動きやすいのだった。
の唱える詠唱によって、田尻の動きは確実に鈍ってきているのが、後ろで見ている麻衣にも見て取れた。
それでも詠唱を受けながらもなお、武器を持ってこれだけ暴れまわれるのだから、悪霊のその力は推して知るべし、である。
けれどそれも、ここまでだ。
田尻の刀と
の錫杖が鍔迫り合いの末に、一瞬間合いを取った、刹那のことだった。
「ネイレイヤ テンジュラン ソンテギヤ セツマ!ゼンッ!」
白く淡い色の錫杖が、田尻目掛けて翻った。動きの鈍った田尻には、もうそれを避けることは出来なかった。
目を背ける事も出来ない内に、それは動きの鈍った田尻を、構えた刀ごと真っ二つにした。
二つに分かたれた田尻は、黒い瘴気のように霧散して消える直前、ふわりと笑んだ。
「ありがとう、日本の子らよ………」
散り散りに煙のようになったそれはもはや形を留めず、麻衣と
が見ている前でゆっくりと空気に溶けていった。
2015/04/21