07. 曲折













屋上の淵から降り、自分から神田たちの方へ寄ってきたを見て、神田が説得に成功したことを誰もが悟った。

『ひどく、疲れた…』

はそれだけをつぶやいて、婦長に導かれて、神田、コムイらと共に医務室へ戻った。
これからエクソシストとして生きる、というの意向を神田がコムイに伝えると、コムイは喜んだ。けれどすぐに室長の顔に戻ると、をベッドに座らせ、の目線の位置まで背を屈めて、小さな子どもに言い聞かせるように改めて聞いた。

「ぼくは君を鎖でつなぐような真似はしたくない。だから誓ってほしい。もう絶対に、自ら命を絶つような真似はしないと」

神田がそれをに伝えると、空虚な目は、それでもしっかりとコムイを見つめた。

『私の信じる御仏は、おそらくあなたの信じる神とは違う。だから、私はあなたに誓おう。……生きる、と。―――私にはまだ、生きる理由があるようだから』

それを聞いてコムイはにっこりと笑った。

「歓迎するよ、。君は、ぼくらの新しい仲間だ」














騒動の翌日からは熱を出して寝込んだ。再びはベッドでの生活を余儀なくされたが、しかし以前とはシチュエーションが大きく違う。拘束具は外され、医務室にあった緊張感も取れた。なによりから敵意が消えた。
最初の方こそ、覚醒した瞬間にひどく動揺して辺りを見回し、やっと状況が理解出来たのか悲しげにほっと胸を撫で下ろす、そんな様子が見られたが、それももうなくなった。
出された薬は大人しく飲むし、点滴を嫌がる素振りも見せない。
言葉が通じずに戸惑う場面もあるが、婦長と看護師達の甲斐甲斐しい看護のおかげでなんとかなっている。
神田はこの3日で2度、軽く医務室に顔を出した。二日間は熱のために何をするでもなしに、ただ様子を聞くに留まった。まともな会話らしい会話は3日目の昨日やっと出来たところだ。
婦長が言うには、”普通に暮らせるように”なるためには、まだ少し時間がいるらしい。それほどまでに、これ以上ないくらいにボロボロで、疲弊していた。
ヘブラスカの元へ行ったり教団についての説明をしたりと、がこれからここで暮らすために必要なことは、とりあえず体調が落ち着いてからということになった。




















今日もいつもの時間に目を醒まし、神田は鍛錬へと門を目指す。
朝も夜も深夜も関係ないような本部だが、それでも朝の静けさというものは存在する。昼に比べれば人のほとんどいない廊下に、しかし今日は珍しく看護師が駆けてきた。
しかも彼女はどうやら神田を探していたようで。

「カンダ!見つかってよかった。もう外に出ていたらどうしようかと思ったわ」

走ってきた看護師は息を整えてから、が呼んでいると告げた。
ついその名を聞くと既に条件反射で舌打ちをしたくなるが、それを押し止める。騒動を起こしたわけではないらしい。

は今日も随分早くに目を醒ましたの」

習慣からか、の目覚めは早い。いつも陽が昇る前に目を覚ます。
何をするわけでもないが、薬の時間や包帯を変えるために話しかけたりすると、理解はしないまでも頷いて大人しくしている。熱が下がってからは、暇の時間は何をするでもなく、ずっと窓の外を眺めているのだという。

「それでいつもの通り朝の薬をあげたりしていたんだけど、今日は私達に何か話しかけて来たのよ。でも何を言っているかさっぱり分からなくって……。英語、本当に全く分からないみたい。それで、カンダ、カンダって言うから、とりあえずカンダを呼んでこなくちゃってことになって」

つまり通訳をしろ、と。

「チッ」
「カンダ、聞こえてるんですけど」
「うるせぇ」

渋々、看護師の後をついて歩き出した。







医務室に着くと、は上半身を起こして窓の外を眺めていた。
神田が医務室に入ってくるのを認めるとはふらつく足でベッドから降りる。すかさず看護師が寄ってくるがそれを丁寧に断って、神田へ歩み寄る。

『何の用だ』

ぶっきらぼうなのは相変わらず。それには慣れたのか、思うところがあっても敢えて口に出さないのか、は何も言わなかった。

『お詫びとお礼を言いたくて。これまでの重なる無礼、申し訳なかった。それから、私に恩をかけてくれたことを本当に感謝している。ありがとう』

は深々と頭を下げた。
一瞬、看護師たちはぎょっとした表情を見せた。神田も一瞬目をぱちくりさせ、それからけっとそっぽを向く。

『用事はそれだけかよ』

あっさりと流されても些か面食らった。しかしそれも仕方ないだろうと、頭をふる。 これが神田の常であると、はまだ知らない。
は顔を上げるとそのやせ細った身体でしっかりと背筋を伸ばして立った。目には疲労の色が見て取れたが、生気が宿る目は彼女を別人のように見せる。
立ち居振る舞いは、見るからにいいとこ(、、、、)の出なのだろうと思わせる。

『それから…。鍛錬を、始めたい。いつまでもベッドの上にいては…どんどん動けなくなってしまう。それから出来れば言葉と、あとこの組織について学べる方法もあれば知りたい。私はここのことをあまりに知らないから』

その言葉に、今度は神田がいぶかしんだ。突然何を言い出すのかと思ったら。
説明や訓練はもう少し時間を置いてからだと、婦長の言葉を訳してやったのはつい先日の話しだ。

『婦長殿の言ったことは覚えている。だが私はもう動ける。まだ本調子ではないが………すぐに、取り戻す』

そう言って姿勢を正す。
ついこの前まで目が醒めれば死ぬことしか考えてなかったような子供が、生きると決めてからは、生きることに専念を始めた。だから生きるために必要なものを、求めている。

しかし――――無理をしている、と神田は思った。

絶望に打ちひしがれていた。
もう死しか残っていないと言って、この世界から消えようとしていた。それを、たったこの短い間で。

絶望の淵から這い上がってくることなど。
簡単に抜け出すことなど。

―――けれど、そうしないと立っていられないのだということもまた、分かる気がした。

「婦長。このチビが修練場に行きたいってよ」

神田の予想通り、婦長はその言葉に噛み付いた。みるみる内に目が釣り上がる。

「なんですって!?一体何を考えてるんですか!ついこの間説明したでしょう。あなたは………」
『……?』
「ああもう、とにかく出来ませんよ、!」
『神田殿?婦長殿はやはり…駄目だと言ってるのか?』
『見りゃ分かんだろーがよ』
『…。お願いします、婦長殿。じっとしているのは性に合わないんです』

何度の今の体調を説明しても尚も食い下がるに、婦長はしぶしぶ、食事時のみ医務室からの外出を許可した。
鍛錬はまだ早いが、リハビリがてら食堂に行くというのならいいという形をとったのだ。必ず誰かが一緒について行くということを条件に。

『わがままを言って申し訳ありません、婦長殿』

が柔らかな口調で頭を下げるので、婦長は渋面を引っ込めて、微笑を浮かべた。

「きつかったらすぐに戻っていらっしゃい!」










神田とは、ゆうに頭2個分の身長の差がある。当然歩幅も違う。神田が三歩のところをには七歩必要だった。加えて体力が落ちているは、みるみる神田から引き離された。上がる息と萎えた足を引きずるように、それでも必死に後をついて歩く。ここではぐれてしまったら迷子になること間違いなしだ。
角を曲がった神田を急いで追いかけると前から舌打ちが聞こえてきた。

『それで鍛錬なんかしようって言ってやがったのかよ。つれぇなら医務室戻れ』

神田がそう言うとは悔しそうに口をゆがめたが、しかし何も言わずに、また歩き出した神田の後を黙々と付いていく。

「チッ」

食堂に着いてカウンターへ行くと、いつもより人の少ない厨房にジェリーが暇そうに座っていた。

「あら、今日は早いわね」

そば、とだけ言うといつものように、栄養偏るわよーと返事が返って来た。すぐに出てきたそばを受け取るときになって、食堂の入り口にが入ってくる。
この広さに驚いているのか、それとも人の多さにか、は一瞬戸惑ったように辺りを見回す。神田をカウンターの所に認めると覚束ない足取りで駆けてきた。

『適当に何か頼め』

それだけ言うと、神田は席の方へ歩いていく。
何が何やら分からぬで、とりあえず朝食に行くと言っていたのだからここが食堂で間違いはないのだろう。香しい匂いが流れてくる。
おざなりに指差された鉄格子へ近づくと、はかろうじて見える――そのカウンターは、には少し高すぎた――中の人に目礼をした。
色のついためがねをかけた、少しおかしな動きをする男がいた。

「まあ、新入りさん?何が食べたい?好きなもの言ってくれれば何でも作るわよ!ってあんたちょっと痩せすぎじゃない!ちゃんと食べてるの?!」
『すまない、言葉が分からなくて…』
「?あら、英語分からないのかしら。もしかして日本人?」

神田が先程何か言っていたのでおそらく同郷の人間だろうと思ったのだ。けれど、それすらには伝わっていないようで。
何を言ったものか分からなくては困り果てた。けれど男はめげずに何事か言ってくる。すると何事か言う言葉の中に”そば”という単語が混じっていることに気がつく。まさか今のは日本の、あの”そば”のことか。またもその単語が出てきたので、きっと日本のそばを言っているのだと思った。
そういえば、さっき神田がそばを持っていた。

『そば――?』
「そう!よかった通じたかしら」
『日本のそばか?』
「そうよ!今そばを作るからそこで待ってなさいな」

言うとジェリーは早速そば作りに取り掛かる。
待っていろ、ということでいいのだろうか。どうやら神田と同じそばを作ってくれるのだろうと当たりをつけて、カウンターの前で待った。
程なくして出てきたソバは、故郷のそばと寸分変わらなかった。ひどく痩せたのために、ジェリーはえびとさつま芋のてんぷらを付けてくれた。

『ありがとうございます』

頭を下げると、「どういたしまして」と返って来た。
どうやら、言葉がなくても通じるものはあるようだ。

『神田殿。こちらに座ってもいいだろうか』
『…』
『…………』

どうやら、この御仁の無愛想な面は、もとからの性質(たち)のようだ。は沈黙を肯定と受け取って、神田の向かいの席についた。

『こちらにもそばを食べる習慣があるのか?』
『ねぇよ』

神田はが聞けばおざなりではあるが、それなりに答えを返してくれた。思いつく問いを考えながら、はいくつも問いを投げかける。
は用意されたそばを半分も食べられなかったが、ゆっくり租借しながら話を聞いた。


ここはトルコではなく、さらに北に来たイギリスであること。
公用語は英語。
エクソシストは今は19人――なんて少ない、そう思わずにはいられなかった――しかおらず、で20人目。

神田はすでに食べ終わっているにもかかわらず、席を立たずにの問いには答えてくれた。

『(根は親切なのだな)』

食事が終わってから医務室に送り届けてくれた神田の背を見送って、はぽつりと心の中でつぶやいた。














2009/12/31

閉ざされた世界 07