06. 空虚
が黒の教団に来てから5日目の夜。
神田はいい加減この状況にうんざりし始めていた。
周りの誰もが思っている通り、彼女が起きたらまたどうにかして生を絶とうとするのだろう。それをやめるように、そして出来れば今の状況も含めて説明し、説得するのは面倒とは思ったが、それについては何も言わなかった。言葉が通じない以上神田がするしかない。
だが、と神田は舌打ちをこぼした。
―――眠っている人間をどうやって説得しろってんだ。
覚醒の度に呼びつけられて走ってみるも、医務室に着くとすでに
の瞼は閉じられている。それをこう幾度も繰り返すといい加減にしろと言いたくなる。
深夜。
眠っていた神田の意識の中に、突如慌てた様子でドアをノックする音が飛び込んでくる。同時に悲鳴に近いリナリーの声が廊下に木霊する。「カンダ!」
常に傍らにある六幻をつかみ、上着も羽織らずにドアへ駆け寄った。ドアの外には、不安そうな顔で見上げてくるリナリー。また
が目を醒ましたのかと思ったが、それにしては様子がおかしい。
「カンダ!
ちゃんがいなくなっちゃったの!」
今日何度目かになる舌打ちをする。
「夜番の人が見てたんだけど、ちょっと席を立った隙にいなくなっちゃったみたい…今みんなで探してる!」
―――
は拘束されてたんじゃなかったのか。
文句を言いかけて舌打ちに変える。今はとにかく探すのが先だ。
研究班に預けていたゴーレムをリナリーから受け取って上着を肩に引っ掛けると、リナリーとは逆の方へ走り出した。
ここに来て目が醒めてからは、
は医務室の外に出ていない。いや、ここへ来る前から既に意識がないのだから、この建物どころか周辺一帯は
にとっては全く未知の世界だ。
一度錯乱して刃物を振り回してからは、彼女のまわりに刃物や武器になるものは置いていないと言っていたし、武器庫はもともと鍵がかかっている。最も、彼女はその位置を知るはずもないが。
彼女は死を望んでいる。
まったく知らない場所で、武器らしいものもないが、しかし死を求めているのだとしたら。
神田は屋上に向けて走り出した。
「カンダ、屋上だ!すぐに来てくれ!」
ゴーレムに通信が入ったのは、あと2フロアで屋上というときだった。リーバー班長の声に神田は走る速度をあげた。
めんどくせぇことをしやがる。
2フロアを一気に駆け上がって屋上へ出ると、白衣を着た科学班数人やかけつけた看護師が大声で
に話しかけていた。「危ねえぞ!」「こっちに来い!」「
ちゃん、戻っておいで!」
名前を出してみても、反応はない。
は手すりも何もない屋上の端で、一歩踏み出せばいつでも宙に舞うことのできる位置に立っていた。
なんの躊躇いもなしに足を踏み出すだろう。
これだけ”死に”たがっているのだから、その考えは当然のことに思えた。神田がかけつけるまで持ちこたえているのがむしろ不思議なくらいに。
しかしその推測に反して、その気配はない。迷っているふうではなさそうだが、下を見つめたまま微動だにしない。
看護師が整えてくれた黒い長い髪は、しかし今は風にのって暴れていた。
科学班の面々も、それ以上近づくと
が飛び降りてしまいそうで近づけない。現に、少しでも近づこうものなら、少しずつへりを移動して距離を空けようとする。これ以上近づくと本当にもう地面がなくなる。
そうして一進一退の押すに押せない歯がゆい状況に陥っていた。
『おいチビ。とっととこっちに戻って来い』
今にも飛び降りんとしている者にかける言葉にしては、些か投げやりすぎる言葉。けれど親切に語りかけるなんて想像すらつかなかったし、その必要もないだろう。
看護師達の中にはその明らかに苛立った声を諌めようとする人もあったが、かすかな
の反応を見て取って口をつぐんだ。神田のぶっきらぼうな日本語を聞き取って、
がゆっくりと振り返った。
『あなたが、来るのを…待っていた』
かすれた弱弱しい声が風に乗って流れてくる。
治療を受けて血色は幾分よくなっていた。しかしチューブからの栄養しか摂っていない
は、これ以上痩せられないと思っていたときから更に痩せて、まるで骸骨みたいだった。
死んだような目が彼女を亡霊のように見せる。
『今度こそ、最期の願いだろう。私の最期を見届けてほしい』
おさなくおぼろげでさえある子供が言う言葉にしてはひどく不釣合いで、おかしかった。そうとしか思えない境遇が、悲しい。
『なぜそこまで死にこだわる?』
『…仇討ちを成し遂げ、私は人を殺した』
それが、理由だ。
ぼそりとつぶやいた。その声も、姿も、風に吹き消されてしまいそうで。
しかし自分で言ったことに満足していないように、
は自嘲の笑みを浮かべた
―――最も、それは全くと言っていいほど表情に変化をもたらさなかったが―――。
『この虚しさは――なんだろう。晴れて一族の無念を晴らし、胸を張って皆のもとへゆけると思っていたのに。これでは……………』
言いかけた言葉は続かなかった。
『……………会いたい。会いたくて、たまらない―――』
―――家族、に
口だけが、音のない声を紡ぐ。
神田から目を離し、
は空を振り仰いだ。
見守っている面々が息を呑む。小さな身体はそのまま、月の光に溶けてしまいそうで。
『私の存在にもう意味はない。理由も。ただ生き恥をさらすのが私に残された道。だったら――――』
『ごちゃごちゃうるせえんだよ』
は酷く揺れる瞳に、同郷の男を映し出した。
不機嫌そうに腰に手を置き、手には
の故郷のものとは少し違う、けれども刀を持っている。
『一度しか言わねえ。お前の仇はアクマと呼ばれる兵器だ。人間じゃねぇし、だから人殺しでもねぇ』
がわずかに目を細める。
『お前はエクソシストだ。エクソシストにしか破壊出来ないはずのアクマを、お前は破壊した。お前が壊したあのアクマがそうだったようにアクマは人間を殺すし、これまでも多くの人間が犠牲になってきた』
目の裏に壊滅した故郷が浮かぶ。奴を追いながら見た荒廃した街々も。
ああして街は破壊され、人は殺されてきた。
これまで、ずっと。
『お前があれを破壊してなければ、更に多くの人間が死んでただろう。だがアクマはあれだけじゃねぇ、まだたくさんいる。俺たちはそいつらを破壊する。そしてお前もそれが出来る数少ない人間だ。だから』
はその先を聞きたくないと思った。
それから先を、知りたくない。
しかし神田は言葉を紡ぐ。
なんのために?どうしてそこまで私を止めようとする。
―――私に死なれては、困る、から……?
『お前が生きれば、アクマに殺される命を助けることが出来る。だがお前がここで死ねば、―――分かんだろ』
は目を瞠る。今度は、確実に驚きがその表情を支配した。
一息に言い切った神田は未だむっすりとしたまま、腕を組んだ。
―――私がいなくなることで、さらに多くの人間が、命を……?
もう、自分の居場所はないと思っていた。一族は4年前に1人残らず死に絶えた。父も、母も、姉弟も、親戚も、友も、全て。
そして、仇を討てば、
も死ぬ。死んで、そして皆と同じところへ行くのだと。そうなるものだと思っていたし、もしならなくても、そうしなくてはいけない(、、、、)と思っていた。
自分が生きていると知って、呆然とした。
残ったのは、ぼろぼろの体と、胸にぽっかりと空いた暗い穴だけ――。
行かなければ、と思った。
行きたい、と思った。
皆の、ところへ。
はしばらく考え込んでいるようだった。
神田と
の会話を聞き入っていた周りの人間は、今に
が足を踏み出しやしないかと気が気ではない。しかし何事か思案しているふうを見て、何か彼女の心に思いとどまる気持ちが出来たのかもしれない、と微かな期待を持つ。
やがて
は振り返り、周りの聴衆には気にもとめず、神田だけを見た。
『…その言葉、偽りはないな』
『…』
ようやく出てきた言葉に返ってきたのは、沈黙。
下手な肯定よりも、強い肯定だった。
まだ、生きる理由が残っていたのか。
心の中に、喜びとも、哀情とも取れない感情が渦巻く。
生きていいのだと。生きねばならないのだと。
『――――――そうか………』
一筋の涙が頬を伝った。
2009/12/17