05. 疑問
コンコン
扉を叩く音に、浮き沈みを繰り返していた神田の意識が浮上する。
いつの間にか眠っていたのか、もう陽は沈もうとしている。窓から差し込むオレンジ色の夕陽を見ながら、頭が覚醒しきるのを待った。
コンコン
控えめなノックで、それが誰か分かりそうなものだった。
最も、自分の部屋をノックするような物好きはそうそういない。すぐにツインテールの少女が目に浮かんだ。同時に控えめな声が聞こえる。
「カンダ。兄さんが呼んでる」
「……ああ」
聞きなれた声は、今朝の出来事を聞いたからか、少しだけ覇気に欠けていた。
上着を羽織って扉を開けると、案の定まだそこに黒い女のエクソシストの姿があった。
「…」
「何だよ」
何か言いたそうに遠慮がちに見上げてくるリナリーは、もしかしたらそう相手が聞いてくるのを待っているのではないかと思う。
えーっと、何かを言いたいのだけど少し迷っているの、そんな意味合いを乗せた前置きをしてから、リナリーが口を開く。
「あの日本人の女の子のことだ、って兄さんが」
「…
・
、と言うんだと」
「え?」
「名前」
二人が歩く音と高いキレイな声が、伸びる夕陽の橙と一緒に廊下に長く影を作った。
「知ってたの?」
「今朝聞いた」
「…そっか」
殺してくれ、そう言ったことを聞いたからだろうか、リナリーは考え込むようにただ室長室まで歩いた。
室長室は相変わらずの散らかりようだ。足の踏み場もないとはよく言ったものだ。
そう頭の中で考えながら、神田は全く気に留めた風もなく、紙の中を分け入るようにざくざくと進む。
「何だよ」
「彼女のことなんだけど、ね」
珍しく書類に目を通していたコムイは、神田が話し始めるのを待って、口を開く。
コムイの横で「彼女は
・
って名前なんだって」、言うリナリーの声が聞こえる。「そっか、
ちゃんか、かわいい名前だね」言うコムイの下手くそな笑いに、神田はふんと鼻をならしてやった。
「彼女は、他に何か言っていなかったかい?」
「…別に」
「アレンくんは、カンダくんと彼女は少し言葉を交わしていたと言っていたけど?」
「昨日報告したこと以外は話してねえよ」
「そっか…。今日は名前を聞けたんだね」
彼女の口調からは、彼女が礼節や格式に重きを置くであろうことは容易に想像できた。先に名乗れ、と言えば名乗らないはずはないと、なんとなく思った。
「彼女を拘束しようと思う」
唐突に、コムイは言った。いつもの、平然を装ったいけ好かない顔で。
その内容に、神田よりもリナリーが目を見張る。
「兄さん…!」
リナリーの声に、コムイは困ったように視線を落とす。彼女がその言葉に敏感になってしまうことは致し方ないことだから。
「そこまでしなくても…」
怯えたように言うリナリーに、コムイは優しげな笑顔を向ける。
「ぼくもそんなことはしたくない。でも、これは彼女のためなんだ」
神田たちが
に会ったときに彼女が何をしたのか、今朝彼女が何と言ったのかリナリーも知っていた。だから、それ以上何も言えなかった。
リナリーがそれでも何度か言い募り、それからあきらめたように口をつぐむのを待ってから神田は口を開いた。
「だからなんだ。俺にそれを知らせてどうする?」
「どうもしないよ。ただ、知らせておかなくちゃと思ってね。カンダくんには、これから彼女の世話もしてもらわなくちゃならないだろうし」
不機嫌な顔で眉間にシワを作って黙り込むと、コムイはそんなものは予想済みでしたという意味合いの苦笑をこぼした。
それから、彼女のイノセンスはとりあえずヘブラスカのところへ預けてあることを告げた。
「とにかく、第一の課題は
ちゃんに自殺行為をやめさせることだと思う」
そう前置きしてから、コムイは珍しく真剣な目付きで神田を見た。
「カンダくん、どうにか彼女を死なせるようなことだけはないように、彼女を説得してもらいたいんだ。そうすれば、彼女は縛られることはないって伝えてほしい」
「…」
返事はなかった。
それで十分だった。
「頼んだよ」
コムイの話があった昨夜から今夜までに、神田は2度医務室を訪れた。
今までと違ったのは、彼女が拘束具でベッドに縛り付けられているということだけ。顎は開かないように固定具がされ、手足は黒いベルトに巻かれていた。
は不平すら言わず、昏々と眠り続ける。
短い覚醒は数回あった。その度に彼女は怯えたように暴れまわり、拘束具から抜け出そうとした。すぐに鎮静剤を打たれ、そうしてまた眠る。その度に神田は呼ばれて駆けつけるが、その時には既に彼女の意識はない。
そんな日々が3日続いた。
神田は1日に2度、朝食と夕食の後には定期的に医務室を訪れたが、彼女の覚醒に居合わせることはなかった。
***
ここはどこだろう。
は辺りを見回した。一面が闇で、自分の姿すら見えない。意識だけが、宙にぽっかりと浮かんでいるような感覚がした。
突然、春の陽気のような暖かい風が駆け抜けた。そちらを向いてみれば、自分の故郷が、里の人々がいた。
ああ、あれは全部夢だったんだ。悪夢は過ぎ去ったのだ。
は自然、緩む頬を引き締めることは出来なかった。
両親のもとへ駆けた。弟、妹もそばで遊んでいた。親戚も集まっている。里のみんなが、族長――私の父だ――のもとへ挨拶に来た。皆、自分を見て笑顔を向ける。そして、言う。
、よくがんばったな。
――幸せすぎると思った。
***
いつの間にか、焼け野原に立っていた。
どうしてこんな所に、そう思う前に、転げるように走り出した。
父上、母上、創太、秋華(しゅか)!
叔父上、伯母上!
みんな!
走っても走っても焼け野原は続いた。
あちこちに血が飛び散っている。人が倒れていた。息のある者はいない。燃える家々の下から、人の手が、足が、首がのぞいていた。
叫んだ。答える者はいない。
どうして、どうして、どうして、誰がこんなことを。
奥歯がぎりりと鳴った。遠くに異形のものを見つけた。不愉快な声で笑い声をあげている。不思議なほどに大きな口をした双頭のそれが、
を見下ろす。
「ついておいでぇぇ、殺してあげるから!」
は突然目を醒ました。
奴を追いかけなければ!
酷く頭が混乱していた。
起き上がろうとすると、手足と顔に違和感を感じた。何だこれは。しばり付けられている。口も開けない。動けない。殺される。更に混乱した。
白い部屋に、白い人間たちがいた。故郷の人間ではない。こっちに寄って来る。
異形の者達の仲間だ。嫌だ、来るな。拘束具から抜けようともがくと、その内の1人が鋭利な何かで腕を刺した。
筋肉が弛緩して、動けなくなった。
また闇が戻ってくる。
2009/08/25