04.混沌











白いカーテンが、何事もなかったように風に身を躍らせる。窓際に生けられたコスモスの花が、白一面の部屋に少ない色を作り出していた。

ベッドに眠る少女――少年だと思っていた彼は少女だった――は、未だ、病院に来てから一度もその目を開けていない。
傍らのイスに座る白髪(はくはつ)の少年は、ドアのノックもせずに入ってきた同僚に微かに視線を寄越し、何も言わずにまた少女へ目を戻した。

あれから2日。

なんとか峠を乗り切った少女は、しかし死んでいるかのようにベッドに横たわっている。白い患者着を着た姿は、獣のような目でアクマと対峙していた姿とは程遠い。

彼女の所持品は、長さの違う刀が二本と、ほんのわずかな水だけだった。もとは白だったと思われる衣装は灰色を通り越して黒に近くなっていた。それほど長く過酷な旅をしてきたのだろう。
それにも関わらずわずかな所持品しかないというのは、彼女のした行動を裏付けているような気がした。

彼女は、死のうとした。

自分の刃を己に向けて、生を絶とうとした。
そういうことなのだろう。
あれは死に装束だと、神田がこぼしていたのが妙にアレンの耳に残っている。

「…彼女は、どうして死のうとしたんでしょうか」

まるで独り言のようにつぶやいたアレンの言葉に、返事はない。
もともと期待もしていなかったのだろう、アレンは返答を求めることもしなかった。ただ時折窓辺で揺れるコスモスが、静かにその声を聴いている。

「…彼女は、何と言っていたんですか?」

長い沈黙の後に投げかけられた問いに、神田はしばし、少女に会ったときのことを思い起こした。

「介錯してほしい」と、そう頼まれた。
その時に止めればよかったのか。馬鹿馬鹿しい考えは捨てろと?
ふと過ぎる考えに自分で嘲笑を覚える。それで止められるのなら、そもそも切腹などと馬鹿げたことを決心出来ようはずもない。
あれは以前からずっと心に決めていたのだろう。揺らぎの無い目に、自分の言葉など届くはずもない。
彼女が求めていたのは、武士らしく“散る”こと、ただそれだけ。

「介錯をしてくれ、だと」
「カイシャク?」
「…切腹をした人間の、首を斬ることだ」
「…!」

驚いたアレンの顔が苦渋に歪む。
どこまでも甘いこの男は、きっと彼女の過酷な運命を勝手に想像しているのだろう、それでもそれに嘲笑できない自分もまた、どこか思うところがあるのかもしれない。

「…チッ」
「……。……明日には、本部へ移送するそうです。僕たちも一緒に」

それには何も返さずに、神田は閉鎖的な空間から逃げ出すように部屋を後にした。

胸クソわりぃ。

心の中で、毒づいた。














教団の医務室に移されてから、何も言わずに眠る少女の顔が、神田の目に浮かんだ。
例えでもなんでもなく、血の気の引けた本当に真っ白い顔は、日本人形のようだと看護師に言わしめるほどのものだった。けれど、日本人形というにはあまりにも痩躯で、あまりにも死人に近い。刀を握る手にしては、あまりに細かった。
任務が終わり報告が終われば、用もないのにぶらついたりしない自分が、医務室に様子を伺いに行くという行動に、誰よりも神田が一番驚いていた。

彼女は神田に介錯を頼んだ。
馬鹿げている、と思った。
切腹の作法も知らなければ日本から離れて久しく、異教徒の、しかもエクソシストである自分に、介錯を頼むなど。
馬鹿げている。
いつもなら、悪態の一つでも言ってやるところだ。

けれど、馬鹿げている、言いながらもどこか判然としないもやもやが心に溜まっているのに、神田は気が付いていた。どことなく気持ちが浮ついて、イライラする。
それは同郷であるが故の懐かしさだとか同情だとか、そんな簡単で緩いものではない。
いかにも、死ぬために生きてきた、自分は死ななければならない、そう思っているような態度が嫌だった。

神田は自分のベッドの上で寝返りを打って、水面で揺れる蓮の花を見つめた。













悲鳴が聞こえたのは、朝食を食べ終えて、医務室へ向かっていたときだった。

「空いている時間だけでも、彼女のことを気にかけてほしい」

帰って来て報告を終えた神田に、コムイが言った言葉。
別に言われたからそうしないといけないと思ったわけではないし、したくないというわけでもない。
言葉が通じないのだから、目覚めたときに通訳出来る人間がいなければいささか不便すぎる。それはコムイからも言われたことで、理に適っている。
めんどくさい、そう思いはするが、しかし放っておくわけにはいかないと思うくらいには、新しいエクソシストの必要性は分かっていた。
報告のときには言われなかったが、同郷の人間に側で世話を焼いてほしい、コムイにそういう意味合いもあったのは明白だ。ただ面と向かって言われなかっただけで、そう言われるのも時間の問題。


仕方なしに、神田は食後の暇な時間に、昨夜担ぎ込まれた少女のもとへ行こうとしていた。
そろそろ医務室が見えるというところ、少し開けられたドアから漏れ出た悲鳴に、神田はブーツのかかとを鳴らして走り出した。

開け放ったドアから見えた白い空間には、看護師でできた、人だかり。
その向こうに見える、小さな黒い頭。

『来るなっ……私に、触れるなっ!』

脅えるように、声が響く。
同時に再び小さな悲鳴。

人だかりを割ると、そこには手から細い長い血を流して床にうずくまる婦長と、それを起こそうとする何人かの看護師。
そして、人だかりの真ん中で、その手に小さなナイフを持つ少女。

手負いの獣のようだ、と神田は思った。
いや、これではさしずめ、ずぶ濡れの子猫と言ったところか。

『私に、触るな……来るな……来るな……っ!』

うわ言のようにつぶやくその目に、人だかりを作る看護師たちは映っていない。
少女に、他人を傷つけようという意思はない。あるのはただ、恐怖だけ。見えない恐怖を遠ざけようとするように、闇雲にナイフを振り回している。

『やめろ。お前の敵はもういねえよ』
『…!』

カツン

小気味よい音をさせて一歩踏み出せば、怯えたように肩をびくりと震わせた。

『お主…は……』
『先に名乗れ。それが日本人だろう』

ゆっくりと近づいてやるだとか、そんな心使いはしない。ずかずかと歩み寄る神田に、少女は一歩、二歩と後ずさる。
恐ろしいものを見るかのような目が不快だった。自然出来る眉間のシワを、直す術を神田は知らない。
少女は漆黒で出来た同郷の男の目を、揺れる瞳でただ、見上げる。
一時睨みあって、神田はおもむろに手を突き出した。けれど、抵抗らしい抵抗もない。神田が掴んだナイフを持つ手に、もう力はなかった。

『………』
『神田ユウ。…少し休め。ここにお前の敵はいねえよ』

信じられないことを聞いたかのように少女の目は見開かれる。





――信じてもいいのだろうか

いいはずがない。私は、この者のことを、ここの者達のことを、何一つ知らない。
言葉に従えば、身の破滅を呼ぶだけだ。

――でも、じゃあ、どうすればいいのだ

もう、私には、力が残っていない。
この力強い腕に抗うだけの、力が。
このまま生き延びて何になる?生き恥をさらすのか?

…ならば、せめて、同郷の者の手で――



『殺して……く………』



耐え切れないように言葉を漏らし、少女の目蓋が、ゆっくりと、ゆっくりと、降りた。
支えを失って膝が砕ける。
カラン、乾いた音を立てて、ナイフが落ちた。

『………阿呆が』

掴まれている腕の方に傾いだ身体を、受け止める。

軽い。
そう思ったのはこれが始めてではなかった。

駆け寄ってくる看護師に小さな身体を預け、神田は医務室を後にした。








2009/11/30

切腹は英語ではハラキリ、でしたかね。神田がハラキリって言うとあほらしい(笑)ので、切腹のままにしました。


閉ざされた世界 04