今しがた来た森からの「使い」の言葉に、中也は帽子を深くかぶり直した。
なんとなく、そうなるような気はしていた。
出来ればそうならなければいいとは思っていたが、恐らくその希望は叶わないだろうとも思っていた。果たしてその通りになってしまった事に、中也は深く溜息を付く。
「おい、
。起きろ」
中也は、鍛錬場の床で伸びている
に声を掛けた。が、案の定
はピクリともしない。
が中也の弟子としてマフィアの一員になってから、既に数ヶ月が経過していた。中也が余程忙しいのでなければ毎日のように行っている訓練は、異能の訓練はもちろん、体術やナイフ術など多岐に渡った。
中也が忙しい時には、他の誰かに字や簡単な教養を教えてもらってもいる。
今は体術の訓練中で、異能はそれなりにいい成績の
も、体術は中々に相性が悪いらしく、実戦で使い物になるにはまだだいぶ時間がかかりそうな様子だった。
今日も今日とて、中也のスパルタ特訓中にモロに中也の蹴りを食らった
は、見事に伸びて床に転がっているというわけだった。これでもちゃんと受け身を取ろうとした努力はあったのだが、そして中也も一応手加減はしているのだが、それでも
は簡単に目を覚ましそうにないくらいにはしっかりと入ったらしかった。
仕方なく中也は
を肩に抱え上げて、一旦政務室へと足を進めた。
どちらにしても、これではもう今日は訓練にはならないだろう。
幹部部屋のソファに
を寝かせてから、中也は書類を手に取った。今のうちに終わらせられるものは終わらせておこうと思ったのだ。
あいつ(、、、)との任務を森が打診してきたということは、もちろん武装探偵社との協定のことがあるのは大前提なのだが、最悪、汚濁を使うことにもなりかねないとの判断だろうと中也は踏んでいた。
第三勢力、組合との戦いは、苛烈を極めるだろう。
非常に癪だが、汚濁を使うことも致し方ないと思わないでもない。
それに、今回だけで言えば、これはいい機会だ。
はもちろん汚濁のことをまだ知らない。この機会に教えておけばこれから何かに役立つだろう。汚濁を見せることは、そうそう簡単には出来ない。それこそ、今回のようなことでもない限り。
明日はきっと仕事にならないだろうな、と中也は知らず、また溜息をついて、書類をさばき始めた。
番外1
「あ、れ……?」
ぼんやりと天井が見えて、ついでに訓練室でないことに気がついて、
は咄嗟に状況を判断して飛び起きた。
「す、すみません僕、また……!っ、う、げほっ、げほ……」
「いい、まだ寝てろ」
「あ、中也さん…」
は机についている中也を見つけて、また自分は訓練の最中に意識を飛ばしてしまったのだと正確に理解した。
そういう時は、中也が
を担いで運んでくれるのだ。
訓練の途中で意識を失うという失態だけでも情けなくて申し訳なくなるというのに、中也の手を煩わせてしまうとは。
はソファの上で正座して、俯いた。
「僕、また気を失ってたんですね。すみません……」
「もうちっと鍛えろ。そんなんじゃ戦場に出て真っ先に殺されるのがオチだ」
「はい……」
全くもって、その通りである。
の仕事は、訓練以外では専ら中也の丁稚のようなことばかりだった。ただ側について荷物を持ったり、書類整理の手伝いをしたり、茶を入れたり。それ以外の空いた時間で1人でも特訓をしてはいるが、なかなかどうして、成果は芳しくない。
異能の特訓では褒められることもあるくらいだというのに、どうして体術はこう、からっきしなのだろう。
はいつものように今日もまた、自己嫌悪に陥りつつ、けれどこれくらいでめげるつもりもないので、もっともっとがんばらなければ、と強く心に刻み直した。
「
、今夜は任務だ」
が自戒し終わるのを待っていたかのように、中也は抜群のタイミングで口を開いた。
「任務…ですか」
「ああ。手前も来い」
「!僕も行っていいんですか!」
今まで、任務に連れて行ってもらったことはまだ無かった。これまでは任務に赴く中也をただ見送っていただけだったけれど。
「だから、そう言ってる」
の喜びように、中也は苦笑して答えた。
ついに任務に付いていけると思うと、
の心は踊った。ついに、何か中也の役に立てるかもしれないと思ったから。
でも。
「あ、でも…僕が行っても足手まとい…では…」
先程中也が言った通り、
の戦闘技術はまだまだで、それこそ戦場に出てもいの一番にやられてしまうだろう。それだけなら全然構わないのだが、それで中也に迷惑をかけてしまうのではと、
は心配になった。それならば、最初から居ない方がいいに決っている。
「安心しろ、もとから戦力には数えてねぇから」
それは、なんというか、非常に申し訳無い話ではあるが、しかしそれも致し方ないことであるので、
はなんと言っていいのだか分からず、はい、と小声で頷いた。
それに、と中也は更に続けた。
「手前に見せておきたいもんがある。いい機会だからな。ただし、無茶だけはするな。無理だと思ったら、手前は撤退しろ。出来るか」
「…はい。中也さんのお役に立てるように、邪魔にならないように、精一杯がんばります」
「そうしろ。出発までにシャワーでも浴びて身なりを整えておけ」
「はい」
身なりを整えろ、とは、よく偉い人などに会う時に中也が言う言葉だ。それを、任務前に言われるのも少し不思議な気もしたが、
は特に逆らうこともなくシャワーを浴びて、一張羅であり一番のお気に入りでもある、中也に誂えてもらったボレロジャケットに袖を通した。
「全く……ここ数年で最低の一日だよ」
「何で俺がこんな奴と………」
お互いがお互いに嫌そうに言い合う二人を見て、
は目を瞬かせた。
中也の横に並んでいるのは、見たことのない男だった。ひょろりとしていて、背が高い。右腕にはギブスをしている。
Qという人の救出を補助する、という
にはまだ何のことだかよく分からない任務の最中のことだ。
先程の戦闘の様子を見ると、その彼は異能者であることが知れた。しかも異能無効化という、少し特殊な異能だ。
戦闘自体は、
が出る間もなく、あっという間に中也が敵勢力を薙ぎ払ってしまったけれど。
この、なんというか、二人の間に流れる空気はなんだろう、と
は二人を見ながら考えた。
嫌だ嫌だ、と本当に心底嫌そうにしている二人だし、実際に嫌なんだろう。ここまで嫌そうにしている中也を見るのは初めてだった。
けれど、なんだろう、二人のぴったりと合った息は。
は中也から「クソ面倒くさい男がいるはずだ」としか聞いていないので、この背の高い男が何者なのかは全く知らない。
が二人を見ていると、そのひょろりとした黒髪の男が振り返って、高い視線から
を見下ろしてきたので目が合った。
「それになんだい、この、みじんこ中也を更にちっさくしたみたいなの」
無遠慮な視線がじろじろと
を見下ろしていた。
の恰好は、まさに
が「中也のような恰好がいい」と言った通り、柄や色は若干違えど、概ね中也に似た恰好と言って差し支えない。それこそ、森に「兄弟みたいだねぇ」と言われてしまうくらいには、似た出で立ちをしている。
はそれをすこぶる気に入っていたが、それをこんなふうに言われるのはちょっと心外ではあった。
けれど
はそれをおくびにも出さず、そういえばまだ名乗っていなかったと思って、中也に教えられた通り、背筋を伸ばして踵と揃えて、身体をしっかりと折り曲げるようにしてから口を開いた。
「
と申します。よろしくお願い致します」
そう言って頭を下げると、
「ふうん」
と男は少し嫌そうに眉根を寄せた。
けれど男が口を開くより前に、中也が
の肩を掴んだ。
「こんな奴とよろしくしてやる必要はねぇ。こいつは何て言ったって、マフィアを裏切った男だからな」
「!」
「懐かしい話だねぇ」
それきり
に興味を失ったらしい男は、中也と言い合いながらQのいる小屋へと向かった。
もそれに置いていかれないように続く。
は二人のやり取りを、新鮮な気持ちで聞いていた。
もとより、幹部である中也とこんなに親しく話をする人間は、マフィアには森や他の幹部を除いて見たことが無かった。いや、森や他の幹部と話す時も基本敬語だし、親しげだという意味で言えば、この男と話している時が一番親しげだ。
その内、会話の中でこの男が「太宰」という名前なのだと分かると、そういえば、と
はその名前に思い当たる節があった。
以前、座学の際に誰かがこぼしていた名前だ。
そう、現首領である森に育てられ、最年少幹部となったのが、確か太宰という名前では無かったか―――
「いいか、手前は太宰の側に居ろ」
「中也さん……、僕も…、僕も何か手伝います」
「駄目だ。絶対に近づいたりすんな」
「でも」
「分かったか」
「…………、………はい」
“汚濁”
太宰のサポートが遅れれば、中也が死ぬ。
そんな恐ろしいことをしようとしているのだと、
は理解していた。
もうそれしか手がないと、太宰が言う。
ならばそうなのだろうと、中也が言う。
中也が素直にそれを信用するのだから、太宰の判断は正しいのだろう。
けれど、だからこそ、それは酷く恐ろしいことのように思えた。
中也が死ぬ。
それは、
にとって世界の終わりと同義だ。
中也が一歩、また一歩、敵に近づく度、
は付いて行きたい衝動に駆られて、預けられた外套と帽子を、知らず、握りしめた。
中也が死ぬなら、
だって付いていく。
そんな覚悟はとうの昔に出来ているのだから。
中也の言いつけを破った事は今まで無かったが、けれどこの時ばかりは聞いていられそうになくて、思わずと言った体で一歩踏み出した。
それを肩を掴んで止めたのは、横に立っていた太宰だった。
「
くん。まあ、ここで見て居たまえよ」
呑気にそう言う太宰を、自分を止めた太宰を、
は静かに睨みあげた。
太宰が今日この子供に会ってからの時間は長くはないが、温厚な性格から、とてもそんな目をしそうにない子供の鋭い視線に、太宰は目をぱちくりとさせた。
それから、ふふ、と笑う。
「君は本当に、中也の忠犬なのだね。なら、よく目に焼き付けておくといい。あれが本当の中也だよ」
太宰の言う「本当の中也」は、それは、凄まじかった。
まるで大きな爆弾を瞬時に作り出す、人間兵器のパレードでも見ているような気分だった。
恐ろしいと思った。
けれど、目を離すことなく、きちんと最後まで太宰の横で見ていた。
見たことのない巨大な異形の敵は、しかしあっという間に重力に押しつぶされて散り散りになった。これが本当の中也の力なのだと、
は心に刻んだ。
けれど、自我のないこの状態の中也は、敵を倒しても尚止まることしなかった。
「太宰……様、中也さんを……」
静かな、けれど感情を押し殺せていない声で、
が絞り出すように呟いた。
「分かってるよ」
太宰は一つ肩を竦ませると、さも危険なものなど何もないようにさり気なく中也に近づいて行く。
さっと無駄の無い動きで太宰は中也の腕を取ると、途端に中也は自我を取り戻した。
少しの問答の末、太宰は事も無げに中也に言った。
“相棒”
と。
眠ってしまった中也も。
“相棒“と平然と言ってのける、ほんの少し嬉しそうな太宰も。
二人の間には、間に分け入ることなんて出来ない深い何かがあるのだと見せつけられたようで、しばらく
はその場から動けなかった。
あれだけ悪態を付き合える仲なのは、二人はとても沢山の死地を共にくぐり抜けて、そうして築いたお互いの信頼の証なのかもしれないと。
そんなふうに
は思った。
二人は認めないだろうし、そんな事を言った暁には中也に向こう1週間は口を効いてもらえなさそうだけれども。
相棒。
その言葉が耳に残って仕方がなかった。
「
くん。じゃあ後は任せたよ」
眠り込んだ中也を見届けると、太宰は颯爽と立ち上がった。
そのまま本当に歩いて行ってしまいそうな太宰に、
は慌てて駆け寄った。
「あの、太宰、様…‥!」
「…その気持ち悪い呼び方、やめてくれるかい」
「え、えと……太宰、さん」
「ふぅ。なんだい」
「あ……ありがとう、ございました」
頭を下げた
に、太宰はまたしても肩を竦めるだけだった。
けれど、
が頭を上げるのを待って、太宰は
の目を見て、静かに口を開いた。
その凪いだ瞳が、どこか怖いと
は思った。
「なんの因果でこんな仕事をしているのか知らないが。……まだ、引き返せる」
それが何の事を言っているのだか、
はすぐに理解した。
中也の弟子である
にそんな事を言うなんて、話に聞いた冷酷無比の男にはとても思えなかった。
きっとまだ
が人一人殺したこともないことなんて、お見通しなのだろう。だからそんな事を言う。
かつてマフィアに居て、そして抜け出した太宰だからこそ、そんな事を言えるのだ。
ここは本当なら、ありがとうと言うべきなのだろう。自分を気遣ってくれて、ありがとう、と。
「いいえ」
けれど
は首を横に振って即答した。
「僕は、最期まで中也さんにお供すると決めています」
きっぱりと言い切ると、太宰は一つ瞬きをして、それからふっと口元を緩めた。
いつも緩い笑い方をしている人ではあったけれど、この笑みは、それとは少し違う寂しげなものだった。
「そうかい」
太宰はそれだけ言うと、片手を上げて今度こそさっさと歩き出し、そのまま見えなくなった。
中也には任せろと言った割にさっさと帰って行った太宰を見送って、
は中也の横に寄り添って、本部に連絡を取り、迎えが来るのを待っていた。
ちびの自分一人では、中也を運べない。
けれどいつの日か、”相棒”と呼ばれるようになりたい、なんて。
月の奇麗な夜だった。
2017/11/04
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