流石に何日も仕事を休むわけにはいかず、中也はいつも通りに仕事に出ていた。
中也が家に居ない間は、医者が来る以外では基本的には家で一人で居たが、手の届く範囲に食料や水を置いているし、なんとか身の回りの事は一人で出来るようにもなって来ていたので、別段何か問題があるわけではなかった。
は中也に助けられた事を理解しているようで、逃げようとするどころか、中也が世話を焼く度に酷く申し訳無さそうに謝罪の言葉を口にして、大人しくしていた。
少しずつの体力も回復して、食事も以前よりは摂れるようになってきている。
とは言え、まだまだガリガリに痩せた子供であることは変わらない。マフィアに引き入れるのはまだもう少し先になりそうだ、と思いはするが、面倒な子供の世話をそれほど嫌だと思っていないことに、中也は少し自分でも意外に思った。

「おかりなさい、中也さん」

は中也の事を“中也さん”と呼んだ。
一人で歩けるようになると、中也が家に帰る時には決まってが出迎えるようになった。

「今帰った。……良く俺が帰って来たって分かったな」

1度や2度ならば、鍵が開く音を聞いて駆けつけたのかもしれない、と思う。けれど、今駆けつけたという感じでもなく、ずっとそこに待機していたような節もある。
銀などの隠密に長ける連中程ではないにしろ、これでもマフィアの幹部の椅子を温めているのだ、いくら疲れて帰ってくるとは言え、戦闘とは縁遠い子供に気配を察知されているというのも中々に考えものである。
この日初めて疑問に思っていた事を口にすると、は意外な言葉を口にした。

「はい。このマンションの入口を入った頃から、なんとなく」
「――、―どうやって?」

車の音でも聞こえたか、と思ったが、それなりに高級なマンションで部屋の中にいて車の音が聞こえるということはないし、駐車場は地下で、その入口はこの部屋のベランダからも見えない。
不思議に思って聞き返すと、もさあ、と首を傾げた。

「なんでだろ…?でも、中也さんが近くに居ると、分かるんです」
「それは、俺だけか?」
「…え?」
「近くに居て、それが分かるのは俺だけか?」
「どうだろう……分かる人とそうでない人が、いるような…。あ、でも見たことある人は、分かる事が多いです」

の話を聞いて、もしかして、と中也は思った。

「(これがこいつの異能なのか…?)」

の言うことが本当だとするなら、空間認識や物体の操作や位置把握に秀でた異能なのかもしれない。
この話だけではまだ具体的なことは良く分からないが、何かのヒントにはなりそうだ、と中也は思った。
当のは自身に異能があることは気がついていないようだった。
異能、その言葉すら知っているかも怪しい。
これから少しずつ話していかなければならないだろう、と中也は考えた。
組織の事も、異能の事も。

「お風呂、沸いてます」
「悪ぃな」

は中也から鞄と外套を預かると、いそいそとそれを所定の位置へと置きに行った。
どうやら置いてもらっているのに何もしないというのが申し訳ないらしく、は進んで中也に“何か出来ることは無いか”を尋ねた。
特にすることは無いと言ったのだが、それでも諦める気はないらしく、不器用ながら様々な事に気を回すようになった。
掃除用具の場所と簡単なフローリングの掃除の仕方を教えれば家を掃除するようになったし、風呂の沸かし方を教えてやれば中也が帰って来る頃に風呂を沸かしているようになった。

「手前はもう入ったか?」
「中也さんが入ったら、入ります」
「そうか」

先に風呂に入っていいと言うのだが、風呂は中也より先に入ることはしない。
どこで覚えるのだか、変な気配りの出来る子供だった。
自分で歩けるようになって最初に風呂を使った時などは、は風呂に怯えていたようだったが、最近ではちゃんと入れるようになった。水が苦手というわけではなく、熱湯が大量にあるのを見たことが無くて、それが恐ろしかったらしい。

風呂から上がると、眠かったのか、はソファでうとうとと船を漕いでいた。

、風呂入って寝ろ」

肩を軽く揺すってやると、はハッと目を醒まして、キョロキョロを辺りを見回した。酷く焦ったように辺りを見回す様子に、中也は少し訝しげに眉根を寄せた。

「…どうした」
「…、あ、すみません、僕…うたた寝……」

中也と目が合うと、はあからさまにホッとして胸をなでおろしている。

「いや、別にそれは構わねぇが。夢見でも悪かったか」
「あ、その……なんでもありません。少し、驚いただけです。お風呂、入ります」

は困ったように眉尻を下げて、まだ頼りない足つきで風呂場へ向かった。
どうやらここでの生活には少しずつ慣れて来たようではあったが、まだまだ貧民街での事を思い出すのか引きずっているのか、の顔が曇ることは多い。

中也は一つ息をついて、酒でも飲むか、と冷蔵庫の扉を開けた。








05









自分の足で歩けるようになって来たある日、風呂に入れと中也に言われ、は意識のある中では初めて浴室に向かった。服を脱いで浴室に入ってまず驚いたのは、湯気を立てる大量のお湯が浴槽に張ってあったことだ。
今まで見たことのないそれに、は恐怖した。
湯気の立つお湯などに衣服も身に着けずに入ってしまえば、自分は一体どうなってしまうのか。皮膚が焼けただれて、とても痛くて悲惨なことになるのだろうと勝手に想像して、は震え上がった。
シャワーの使い方もよく分からず、とにかく蛇口をひねって出てきた冷たい水を洗面器に溜めて何度か頭からかぶり、すぐに浴室から出た。
身体を拭いてから用意されていた清潔な服に袖を通して、脱衣所から出ると、いやに早く風呂場から出て来たを中也は訝った。

「どうした。随分早いな」
「え、いえ…」

風呂の平均的な長さなど分からないので、早いのか遅いのか分からずに、は曖昧な返事をした。

「湯船には浸からなかったのか?」

全く身体が温まっている様子の無いに、中也は更に続けた。
中也の問に、はブンブンと首を横に振った。

「いえ、あの……あれに、入るんですか?」
「なんだ、水が怖いのか?」
「水は、別に……いつも川に入って身体を洗ってたりしたので怖くは、ないんですけど…」

貧民街では、貧民街を流れるどぶ川で身体を洗っていたので、水が怖いわけではない。ただ、湯気の立った大量の水が怖かったのだ。

「湯気、立ってて……とても熱そうだし、その、…怖くて」

そう言うと、中也は意外そうに眉根を一度寄せて苦笑いをこぼした。

「なるほどな」

中也はそう言うと立ち上がって浴室まで行くと、袖を捲くって湯船に手を入れた。それから少し湯船に備えられた水道の蛇口をひねって、水を足した。少ししてから蛇口を締めると、再びを浴室の中へと呼んだ。

「ちょっと手を入れてみろ」

そう言われて、は恐る恐る指を水面に近づける。ちょっと触れると思いの外ぬるくて、手首までを入れてみても平気だった。

「湯が熱い時は水を入れて薄めろ。ここをいじれば温度調節は出来るんだが…手前、字は読めるか」

は首を横に振ったが、じゃあ、と中也は字の読めないでも分かるように風呂の沸かし方を簡単に説明した。とりあえず、一つのボタンを押せば、湯船の栓が閉まっていさえすればあとは自動で風呂が沸くということを教えてもらった。

「怖いなら最初は湯船に浸からなくてもいいから、温かい湯で身体を洗え。もしかしてコレの使い方も分からねぇか?」

コレ、と中也が指差したのはシャワーの出る蛇口だった。当然分からないのでが再び首を横に振ると、中也は気が付かなくて悪かったな、とシャワーの使い方も教えてくれた。
何も悪いことなんてないのに、中也は気が付かなくて悪かった、とに謝った。
はそれをむず痒い気持ちで聞いていた。
もう一度風呂に入って来い、と言われて、は再び服を脱いで浴室に戻った。
温かいお湯で身体を洗うのは本当に気持ちが良くて、びっくりしてしまった。折角入れてくれたので、相当ぬるくしてくれた湯船にも恐る恐る入ってみた。最初の内はおっかなびっくりだったけれども、段々慣れてくると思いの外湯船は気持ちが良くて、はついつい長風呂をしてしまった。

あれだけぬるいお湯だったのに、慣れていない長風呂のせいで逆上せてしまい、再び中也の世話になってしまったのは言うまでもない。









2017/07/22

なにのぞむなく ねがふなく 05