名奉行
「あ、新さんだ。新さーん!」
は桶を届けた帰り、遠目に茶屋の軒先に座る新之助を偶然にも見つけて、手をぶんぶんと振って駆け寄った。
茶屋に近づいてみて初めて、
は新之助が一人では無かった事に気がついた。
「ああ、
か。配達の帰りか?」
「うん、そうなんだけど……ごめんなさい、お話し中だった…かな」
申し訳無さそうに声を萎めて言う
に、新之助は笑って「今終わった所だ」と答えた。
見れば、新之助と話していたと見えるお侍は着流しを着て、腰には立派な刀を佩いている。
「ごめんなさい、お話を邪魔して」
はそのお侍にも恐縮して頭を下げた。
お侍は全く気にした風もなく、眉を下げて優しげに笑った。
「いや、徳田殿がおっしゃったように、今終わった所だ。気にするな」
その顔を見て、はて、と
は首を傾げた。
どこかで見たことがあるような、気がする。お侍の傍らには顔がすっぽり隠れそうな大きな浪人笠が置かれていて、恰好から見てもお忍びなのだろうことは伺えたが、そもそもそんな身分を隠さなければいけない人などにそうそう知り合いはいない。
いや、目の前の新之助を除けば、だが。
はどこで見たのか思い出そうとしたが、よくよく思い出せない。直接本人に聞くのも憚られて、
はついまじまじと顔を見入ってしまった。
「どうした、
。まあ座りなさい」
「え、でも今日は約束していた日じゃないし…」
お団子を食べる日には、大体前もって約束をしている事が多い。が、今日は約束も何もなく、本当に偶然会ったにすぎない。
きっと何か用事があって城下に降りてきているのだから、あまり邪魔しても悪いと思ったのだが、新之助はいつものあっけらかんとした笑みで、はは、と笑った。
「そんな事は気にするな。仕事をがんばった褒美だ」
そう言うと新之助は
の返事も聞かずに早々に茶屋の奥に団子追加の旨、声を掛けてしまった。
「ええーっと……じゃあ、お邪魔します」
どうやら傍らのお侍も団子を食べ始めたので、本当に話は終わったようだ。
は新之助の隣に座って団子を待ちながら、それでもやはりお侍のことが気になって、向かい側に座っているお侍をチラチラと見ていると、それを見ていた新之助が笑いをこらえながら口を開いた。
「どうやら
はよっぽど大岡殿の事が気にかかると見える」
「え…あ、ごめんなさい、そんなに見てた!?」
「ははは」
は言われて小さくなってしまった。
けれど今言われた言葉に、
ははた、と思考を止めた。
「……大岡殿?って今、新さん言った?」
「ああ、そうだ。大岡殿だ」
「え、え、大岡殿って、あの大岡様??南町奉行の…!!?」
「そうだぞ。あの、大岡殿だ」
「えええーーー!!お侍様、お奉行様だったんですねっ!?」
「
とやら、今はお忍び故、あまり大きな声を出すでない」
「あっっ、すみません…!」
は恐縮しながら、それでも目の前にいるお侍、もとい大岡越前守忠相を見やった。
どうりで見たことがあると思うわけだ。
確かに、何度か町中で捕物をしている忠相を見たことがあった。あったが、それは奉行の装束に身を包んでいた時だったし、厳しい顔をしている所しか見たことが無かったので、お忍びの恰好でのんびりと団子を食べている様子からは、名奉行“大岡様”と結びつけることが出来なかったのだ。
けれど言われて見てみれば、正真正銘の大岡様である。
はつい興奮してしまった。
あの名奉行と名高い大岡様に、こんな所で会えるなんて夢にも思っていなかったのだから。
「すごいすごい、本物の大岡様だぁ!」
先ほど注意されたので声を押し殺していたが、それでも身体は気持ちを抑えきれずにぴょんぴょんと跳びはねている。
「なんだ
、大岡殿に会えてそんなに嬉しいか」
新之助が面白い物を見るような目で笑っている。
はそれにもぶんぶんと勢いよく首を縦に振って答えた。
「そりゃあもう!うわぁ、大岡様、あの、あの、えっと、あ、握手してください…!」
がキラキラした目で見つめると、ちょっとばかし驚いていた忠相は直ぐに笑顔に戻って、もちろん、と快くそれに応じた。
差し出された手を、
は恐る恐ると言った風に触れて、すぐに離した。
「あ、ありがとうございます…!あの、えっと、おっかさ……じゃなくて、わたしの父母が、常々大岡様の事を話していて……ずっとずっと、すごく、憧れてたんです。会えて感激です!」
紅潮した頬で言う
に、大人二人は顔を見合わせてくすりと笑いあった。
「さすが天下の名奉行殿、町人の人気たるや凄まじいものですなぁ」
新之助が茶化して言うものだから、忠相は若干恐縮して、それでも苦笑交じりに「恐れ入ります」と頭を下げた。
「新さん、大岡様と知り合いだったんだね!」
「ああ、そりゃあもちろんさ」
「……?あ!そっか!」
ついいつものように聞いてしまい、当たり前のように返されてやっと
は気がついた。
新之助は上様なのだから、町奉行の忠相は部下ということになるのだ。そりゃあ知っていて当たり前である。
けれどそれをここで言うわけにもいかないので、
は「そっか、そりゃあそうだよね」と何度も頷いて一人で納得していた。
忠相が少し不思議がってその様子を見ていると、新之助が茶目っ気たっぷりに片目をつぶるので、忠相もなんとなく事情を察したのだった。
は団子を食べている最中も始終ご機嫌で、忠相に色んな事を尋ねては嬉しそうに相槌を打っていた。
結局、今日は両親にいい話が出来る、と大変ご満悦の表情で帰って行った。
「ただいま!聞いて聞いて、おとっつぁん、おっかさん!」
は家に帰り着くなり大きな声で両親を呼んだ。
「おやおや、この子ったらどうしたんだい、そんなに慌てて」
「配達はどうだったね」
「あ、うん、配達は無事終わったよ!ね!ね!さっきそこで新さんに会ったんだけど、一緒にもう一人お侍様が居て、それが誰だったと思う?!」
草履を脱いで早々に居間に上がると、桶を組んでいる父の元に
は駆け寄った。
側で手伝いをしている母も、
の尋常ではない興奮のしようを微笑みながら見守っている。
「誰だったんだい?」
父が手を止めて問い返すと、
はまるで自分がえらくなったかのように胸を張った。
「なんと、南町奉行の大岡様だったんだ!あたし興奮しちゃって!握手してもらったんだよ!」
「そうかい。そりゃぁよかったねぇ」
そういえば徳田様は大岡様とも親交がお有りだとか言ってたっけね、とどこかのんびりと母が言う。
「そりゃあ儲けものだったなぁ、
」
お奉行様はご立派だとよく漏らしている父は、
の嬉しいのが伝染ったように嬉しそうに笑いながら、
の頭を撫でてやった。
「うん!色んなお話聞かせてもらったんだよ!大岡様は本当にいい人で、すごく嬉しかった!」
「そうかい、良かったなぁ。お話を聞くだけじゃなくて、ちゃんと日頃の御礼は言ったのかい?」
「……日頃の、御礼?」
けれど続けて言った父の言葉に、はて、と
は首を傾げた。
「お話を聞かせてくれた御礼なら言ったよ?」
「それは偉かったね。でもそうじゃなくて、日頃お世話になっている御礼だよ」
日頃と言われても、自分は大岡に会って面と向かって話をしたのは今日が初めてだし、御礼を言わなければならないような事をしてもらった覚えは
にはなくて、首を横に振った。
「どうして御礼を言うの?」
が首を傾げて訪ねると、父は真っ直ぐに
に身体を向け直した。
「
。私達がこうして江戸の町で何事も無く平和に暮らしていけているのは、上様のお膝元であるこの町を大岡様がしっかりと守ってくださっているからだ。いいかい、よく覚えておくんだよ。
の目には見えなくても、私達町人のために尽くしてくださっている方々はたくさん居るんだよ。だから、大岡様に限らず、その助けが見える見えないに関わらず、お世話になっている方々に会ったら自然と御礼の言葉が口に出来るような人になるんだ」
は言われて、そんな事にも気が付かなかった自分が少し恥ずかしくなった。
町を守ってくれているのはお奉行様だ。お奉行様に町を守るように指示しているのは上様だ。普段
達の目に見えない所で
達のために尽力している人達に、御礼を言うのは当たり前の事なのに。
「そっか……あたし、そんな事も気が付かなくって、大岡様にお話をせがんでばっかりだった……。今度会った時にはちゃんと御礼を言えるようにするよ」
先ほどとは打って変わってしょぼん、とする
を、父はもう一度頭を撫でてやった。
「次はきっと
は御礼が言えるようになるよ。今気が付けてよかったな」
「…うん!」
今度大岡様に会ったら必ず御礼を言おう、それどころか、いつもお世話をしてくれている人には、きちんと御礼を言おう、と
は心に誓った。
「新さん!」
「
、元気だったか」
数週間ぶりに新之助と会ったのは、あいも変わらず行きつけの団子屋だった。
会ったのはもちろん“いつもの”約束があったからだが、今日は
はある決心をしていた。
「今日もたくさん頼んでいいぞ」
「うん、新さん、そのことなんだけど」
「どうした?」
いつもにはない
の表情を見つけて、新之助は注文しようとしていた口を閉じて、立ったままの
を見返した。
「あのね、今日はお団子、私が新さんにご馳走したいんだ」
「どうしたんだ、急に」
新之助は
が急にそのような事を言うので、驚いてしまった。地面に膝をついて
と視線を合わせるようにかがむ。
「親御さんに何か言われたのか?それなら気にしなくていい。俺が好きでやっていることだ」
「ううん、そうじゃないんだ。あのね、新さん。いつもありがとう」
そう言って
はがばり、と頭を下げた。
「小さい時から新さんにはお世話になってるし、お団子もご馳走してくれてる。それだけじゃなくて、あたしの知らない所で、江戸の町のために大変なお仕事を頑張ってくださってて、だから、何か御礼をしなくちゃと思ったんだ」
は頭を上げて新之助の目を見た。
いつも変わらない優しげな目が、
をまっすぐ見返していた。
「御礼か」
「うん。あたし、今まで助けられるばかりで、何も新さんにお返し出来てないなって最近になってやっと初めて気がついたんだ。お団子ご馳走するくらいじゃ全然御礼になってないのはわかってるんだけど、でもあたしはこのくらいしか出来ないから」
「
、お前の気持ちは良く分かった」
新之助は、自然、漏れてくる笑みを抑えることもせずに、必死な様子の
をとりあえず茶屋の腰掛けに座らせた。
「
、俺はもう
から御礼をたくさん受け取っているぞ」
「え、うそ…!?」
は驚いて目をぱちくりさせる。
その様子に新之助は増々笑みを深めながら、ゆっくりと口を開く。
「俺は国を良くするため、町人がより良い暮らしを出来るため、頑張っているつもりだ」
「うん」
「施策がどう町に影響したか、町に問題点はないか、どうしたらもっと良くなるか、それを見たいがため、知りたいがためにこうして町に降りてくる」
「…うん」
「そして、
はそれを俺に教えてくれている」
「……あたしが?」
「そうだ。
が町で何を見て、どう思ったか、それを俺に教えてくれる。何より
が、国の宝である子供が、元気な姿をこうして俺に見せてくれる。それが俺には、何より自分のしていることが肯定されている証に見えて、俺は嬉しいのだ」
その横顔が、普段見ている新之助のものとは違う気がして、
はその横顔を目に焼き付けようと、瞬きするのも忘れてしっかりと新之助を見つめた。
今の将軍様は良い将軍様だと言われている。
それは、
になど分からないような難しい事をたくさん抱えながらも、それを一つずつ解決して、もっと良く、もっと暮らしやすく、と将軍様が町人の目線に立って考えているからなのだろう、と何となく思った。
そして将軍様は、
を見る事でそれが正しいことの証であると思うことが出来る、と言ってくれている。
「だから、俺は
からは十分御礼をもらっていると思っているぞ」
「……そっかぁ。やっぱり将軍様には敵わないや」
「こら、
」
「あ、ううん今の無し。でも、そっか、新さんがそれで喜んでくれてるならあたしも嬉しいよ。でも、今日くらいはお団子をご馳走させてよ。これはあたしのけじめなんだ」
「そうか、そこまで言うなら仕方がない。だが、今回だけだぞ。毎回それじゃあ、俺の面目が立たないからな」
「面目が?そっか、分かった。次からはまたいつも通りご馳走になるから、安心して!」
「はは、そうだな」
結局団子のお代は、
が桶屋の仕事を手伝う駄賃としてもらっているものから支払われた。
新之助はいつも以上に団子をうまいうまいと言って食べ、
もそれを嬉しそうに見ながら団子を頬張った。
帰り際、
は新之助に一つ、手ぬぐいを差し出した。
「この間大岡様に会った時に御礼を言えなかったから、大岡様に渡してほしいんだ。全然高級なものでもなんでもないんだけど、同じ長屋の染め物屋してる人に聞いて、自分で染めてみたんだ。新さんにお願いするのはとっても失礼なことかもしれないけど、でもあたしが奉行所まで会いに行っても門前払いだろうし、次いつ会えるかも分かんないし……新さん以外に頼める人、知らないから。………ダメかな?」
そう言って塩らしく手ぬぐいを差し出す
に、新之助に否やは無く、すんなりと受け取った。
「もちろん、構わないとも。渡しておこう」
「!ありがとう!」
ぱ、と花が咲くように笑った
に、新之助も笑い返した。
2015/11/01
大岡様も好きだなぁ。暴れん坊将軍はおじさま方がステキすぎる。