ゼラニウム
「ちょっと待ちなせェ、
」
廊下ですれ違い様、軽い会釈だけで無言のまま沖田の横を通り過ぎた
に、沖田の苛立った声が向けられた。自分の背中に睨むような視線を感じながらも、ゆっくりと振り向いた。
苛立ちを持った目で睨まれていても、
の表情には何もない。
「何でしょうか」
「なーんか最近気になるんですよねィ」
続く沈黙。
伏し目がちに、無言で言葉の先を促す。
「あんた、最近俺を避けちゃいやせんか?」
「いえ。そんなことはありま」
「目を見て言えィ」
強引に遮られた言葉に、
は沈黙した。
は決して寡黙な人間ではない。
愉快なことがあれば笑うし、嫌なことがあればはっきりとそう言う。討ち入りのときには大声を張り上げて指揮を取ることだってある。
にぎやかな真選組にあっては確かに控えめなほうかもしれないが、しかし最近の彼はそれを差し引いてもどこか様子が変だった。
任務は普段通りに取り組んでいるしミスをするわけでもないが、やはり直近の隊士にしてみると、
の様子が少しおかしいのだ。
隊長の沖田にしてみれば、尚更。
「…………………いえ、そんなことは、ありません」
伏し目がちの目をあげる。
そこには強情なまでに真っ直ぐな視線が、ある。
「……。まァいいや。ヘマだけはしねぇでくだせェよ」
「は」
溜息を一つついて、沖田はそのまま歩いていく。
その背を見返すことはなく、細く長く、
は息を吐いた。
――大丈夫。この人たちは、私の良く知るあの人たちではない。
――大丈夫
遠ざかる足音を聞きながら、心の中で繰り返した。
「
ー、いるかー?」
「はい、ここに」
ひょっこり道場に顔を出したのは近藤だった。夕餉も終わり、既に勤務時間を終えた
は、一人道場で竹刀を振るっていた。
「精が出るなあ」
「日課のようなもので。こうでもしていないと落ち着かないんです」
「大したもんだ」
「いえ。日頃の鍛錬が、有事の際には物を言うものですから」
「それは前の世界での経験則か?」
ビクリ、一瞬
の動きが硬直した。
池田屋事件や蛤御門の変と、多くの事件で前線に身をおいて、大概のことがあっても動じない自信はあった。
けれど、この人には、弱い。
「…いえ――」
言い淀む。
しかし近藤は自分が言ったことを反故にするかのように、にかっと笑った。
「どうだ、たまには一杯」
そう言って、実に楽しそうに猪口を傾ける仕草をしてみせる。
「よろしいので?」
は明日は非番である。それすら見越してのことなのだろうが、それでも局長自らの誘いともなると遠慮が先に立つ。
「悪い理由がどこにある?」
そんな心配を吹き飛ばす笑顔で言われては、首を縦に振らないわけにはいかなくなった。
ふわり、
はほほえんだ。
「では、お言葉に甘えて」
すぐに支度をして参ります、そう言いおいて廊下に消える。
さあて鬼嫁でも取ってくるか、と近藤も歩き出した。
着流しに着替えて局長の部屋の前まで来ると、近藤は既に縁側に座って杯を傾けていた。
「ほら」
「ありがとうございます」
夜のひっそりとした酒宴に呼ばれるのはこれが始めてではなかったが、局長と二人というのはこれまでになかった。
「まずは一杯」
互いに杯を酒で満たし、ぐいとあおる。
「ぷはー!どうだ、たまにはこういうのもいいだろう」
「そうですね。とてもおいしいです」
「そりゃぁよかった!」
ちびちびと酒を飲みながら、台所を漁って持ってきたつまみに手を伸ばす。時折見える月が、二人を静かに照らし出していた。
「最近はどうだ、隊務の方は」
「はい、滞りなく。最近はやっと土地勘も付いてきましたから」
隊務のことから非番の日に何をしているのか、誰が何と言っただの、近所の駄菓子屋の話まで、とりとめもない話ばかりだった。
近藤が問うこともあったし、
も話題を振ったりもした。
は口下手ではないし、話をしてみれば頭の回転が早いことも窺い知ることが出来る。
一時話が弾んで、そうして波が静かに収まっていくように少なくなる。
やがて、途切れた。
二人は酒を飲んで、空になってはまたつぎたして飲んだ。すでに手酌になっていた。
勢いに任せて飲むのではないが、一升瓶の中身は減って行った。近藤も
も、ほんのりと顔が赤い。
「最近、飯を食ってないそうじゃねぇか」
しばらく静かに酒を飲むだけだった二人の空間に、近藤の声が響く。声の調子は先ほどと変わらない。けれど、明らかに空気が少し変わった。
「食欲があまりないだけです」
その話題が来るのを予想していたかのように、
の声は淀みない。
「顔色も随分と悪かった。よくそれで普通に隊務が出来たもんだ。止められたろうに」
「このぐらいで根を上げるわけにはいきません」
隊務の際、隊士から何度か非番を取るように言われたことはあった。ケロリとしてはいるが、やはり顔色は悪い。
しかし、
が体調を理由に進んで非番を取ることはなかった。明日の非番にしても、順番で回ってきたものがここに来て取れるようになったので、半ば無理やり非番を入れられたようなものだった。
「俺達が信用ならないか?」
沈黙を挟んで近藤が問うた。
心なしか、声の調子が沈んでいた。
「そんなことはありません。信用できない者に私が背を預けることなどないと、ご存知でしょう」
「知ってるけどなぁ。でも、思っちまうのさ。何も言わねぇってことは言いたくないんだろう。じゃあそれはなぜだ?ってな」
「………」
「言いたくないのか?」
「言わないのは、……言えないのは、あなた方とは無縁の話であるからです」
「お前の問題というだけですでにそれは無縁じゃないぞ。俺達はお前の家族だからな」
「…。…気分を害してしまうかもしれません」
「総悟の器物破損癖よりもか?」
近藤の言葉に、ひくり、
の手が震えた。
酒の水面に出来た波を、
は無言で見つめる。
心なしか細められた目で動きを止めた
の横顔を、近藤が見つめる。
これは痛みに堪えている顔だ、近藤の経験から導きだされた勘がそう告げる。
コトリ、近藤は静かに猪口を置いた。
「……総悟のことか?」
今までの話す気はないといった風情であまり反応しなかった
も、聞かれた内容を噛み締めるように沈黙した。
沖田総悟。
顔も、声も、同じ。
姿形が同じで、年齢や性格、服装や仕草は全く違う。
それこそ全くの別人のようなのに、どうしてもその姿がかぶる。
「………………ひいては、そうなります」
「…そうか。話しては、くれんか?受け止めてやる技量はないかもしれんが、一緒に背負ってやるくらいは出来るつもりだ」
「………ありがとうございます」
そう言って、
も猪口を置いた。
「……………、……」
口を開きかけ、その度に躊躇うように口を閉ざす。
それを何度か繰り返し、意を決したように
は言葉を紡いた。
「……明日は、……、…私が居た世界の、沖田総司先生の命日なんです」
いつの間にか、
の額には玉の汗が浮かんでいる。
強く握り閉めた拳が、膝の上で微かに震えていた。
「……戦か」
「…………労咳、でした。戦って死ぬことすら……出来ず………。病魔に蝕まれ、血を吐き続けて、痩せ細って死んで行きました」
訥々と、話し出した。
1868年4月25日 近藤勇、斬首
1868年5月30日 沖田総司、病死
1869年5月11日 土方歳三、戦死
最近、近藤勇と土方歳三の命日が近づいて来てからと言うもの、食事がのどを通らなくなった。
亡くなった年は違えど、命日の持つ意味合いは大きかった。
局長・副長の死は、伝え聞いたのみだった。
それに、こちらの世界の局長・副長と顔を合わせる機会は屯所内でも多くはない。
心臓が重くなり何度も吐いたが、気付かれずになんとかその日をやり過ごすことが出来た。
しかし、次は沖田の命日。
沖田は
の所属する隊の隊長だ。顔を合わせないわけには行かない。
沖田の声を聞けば心臓を鷲掴みにされているような気分になった。
顔を見れば、涙が溢れそうになった。体が震えて止まらなかった。
――この人は違う
――この人は自分のよく知るあの人ではない
何度もそう言い聞かせたが、思考は同じ場所から動けなかった。
沖田の顔を直視出来なくなった。
そうしたいと思ったわけでもないし、してはいけないとも思ってもいる、けれど、体は反射的に沖田を避けるようになった。
食欲がわくはずも無く、無理矢理に食事を摂っても戻すようになった。
日に日に体重は落ち、体調は悪化の一途を辿った。
その日が近づくにつれ、体が拒否反応を起こすかのごとく、食べ物を拒む。
体調の悪化で食欲も起こらない。悪循環が既に出来上がっていた。
もそれを懸命に、そして上手に隠していたが、ついにそれが他人に知られるまでになっていたということだろう。
細められた
の目が虚空を睨む。
その目は遠い過去を写していた。
「不憫で……、不憫でならないのです。局長が……土方さんが……、沖田先生が……。思い出すと、今でも震えが、止まりません……。なぜ局長が殺されなければならなかったのです。なぜ、あんなに強い沖田先生が病に倒れるのです?刀すら握れなく、なって……。局長の訃報を知ることもなく…。なぜですか、…なぜ!?」
ぱたり
ぱたり
紅潮した頬に雫が伝う。
「……私は生きてもいいのでしょうか」
意味を持たない疑問が宙にぽっかりと浮かぶ。
「土方さんには生きろと言われました。最期まで共に付いて行くつもりだった、それを十分ご存知だったはずなのに…。私に、生きろと」
そうして、
は皆の背中を見送った。
それが彼らを見た最期だった。
「分からないのです。なぜ私だけが生き残ったのか……」
沈黙が下りた。
の手が震えていた。悲しみからか、苦しみからか、
自身にも分からなかった。
彼らを最後に見た景色、局長の訃報を聞いた時の絶望感、痩せ細った沖田の顔、土方の戦死の報。
今でも瞼に焼き付いて離れない。
どうして自分だけ。
どうして自分だけ、ここにいるのか。
どうして自分だけ、生き延びたのか。
「……話してくれて、ありがとうな」
長い沈黙の後、近藤が静かに言った。
近藤は片手で
の頭を抱えた。そうして、抱えた手でゆっくりと、あやすように、頭をたたく。
「よく、がんばったな」
涙が溢れて止まらなかった。
はい、と
は言おうとしたが、はく、と口が動いただけで声は音にはならなかった。
近藤が、にか、と笑うのが気配で分かった。
答えが欲しいわけではなかった。
すぐに見つけられるものでもないと、分かってもいた。
ただ、聞いてほしかった。そして、側にいて欲しかった。
それを当たり前のようにしてくれた近藤が、何よりも暖かかった。
今は。
今だけは、弱いままの自分でも許して欲しい。
いつか必ず、克服して見せる。
そして、近藤がしたように、
もまた、笑って言いたいのだ。
『あなた達と共にあることが、何よりも幸せなのだ』と。
だから、それまでは。
は静かに涙を零し続けた。
近藤は、何も言わず、ただそこにいた。
その暖かい存在が隣にいることが、
には何よりも心強かった。
2012/06/27
没年は多分旧暦。この話が書きたかった。
ゼラニウム:「尊敬と信頼」