ひとりっ子として育ってきた自分に兄がいると知ったのは、まだ小さな頃だった。
いつだったか、もう覚えていない。
酷く悲しそうに兄について言葉少なに教えてくれた母に、は幼いながらその話題にはあまり触れようとはしなかった。

が兄にはじめて会ったのは、9歳の時。教団に連れて来られた時だった。
運命のいたずらか神の思惑か、もエクソシストだった。









孤独から掬いあげて
くれたのは










その頃のは疑心でいっぱいだった。

突如として現れた教団の者だと名乗った人間たちは、容赦なくを母親から引き離した。
長男を教団に取られ、そしてまでもエクソシストであると知った時の母の顔をは今でも忘れられない。この世の終わりを見たような、生きる希望すら失ったかのような、ひどく寂しそうで、影をたくさん湛えた、そんな。
一番不安であるはずのの前では気丈に振舞っていた凛々しい母だけど、しかし頬には幾筋もの涙が伝っているようにには見えた。
母は言った、お兄ちゃんと仲良くね、と。

教団に着いたは、それでも疑心を隠して明るく振舞おうとした。室長は悪い人間ではなかったし、エクソシストの必要性を、誰より母に語って聞かせられていたは、ここでの役目を全うしようと必死だった。そうでなければ、自分も母も、室長ですらしたであろう苦渋の決断が無駄になると思ったからだ。

室長室で初めて会った兄は、どこかとっつきにくい人だった。

「…はじめまして、で、す」

精一杯笑って言ったつもりだったけど、兄はにこりともせずに「ああ」と短く返しただけだった。

無愛想な兄に、最初は怯えていた。

けれどひどく不安でたまらなかった心には少しだけ救いもあった。
切れ長の瞳、黒く綺麗な髪、整った容姿、背筋の伸びた立ち姿。




―――兄は、ひどく母に似ていた













教団に慣れるために必死に勉強し、イノセンスの修行をこなす日々が続いた。
元来、武術を学んではいたが、のイノセンスは物理的な攻撃とは違う。自然現象を操って攻撃を加えるイノセンスは装備型。肉体的、精神的な強靭さを求められる繊細な技を操るのイノセンスは、しかし装備型であるが故にその扱いがひどく難しい。
時には天候にすらも影響を与えるイノセンスは9歳であるには度し難く、“攻撃”と呼べるようになるにはまだまだ時間がかかると言われた。






修行はすぐに手詰まりの状態になった。
教団に連れてこられ、精神的に追い込まれていたに、イノセンスは全くと言っていいほど言うことを聞かなかった。発動自体がいまだ不安定で、発動出来ても神経をすり減らすばかりで何が出来るわけではなかった。
教団に慣れて精神的に落ち着くまで修行を一旦中止しようか、という話しが出始めた矢先だった。
に異変が起きた。






それは、ひどい嵐の日だった。






帰ってきたエクソシストやファインダーはずぶ濡れになって、遅れに遅れた交通機関でやっと帰りついたといった状態だ。
横殴りの雨が容赦なく窓を叩く。
雷鳴が鳴り響いて、時折ビリビリと窓ガラスが揺れる。


―――ドンッ


まだ日没には早い時刻、それでも雷雨のせいで辺りは薄暗闇に包まれた教団で、大きな爆発音が響いた。教団全体が振動で揺れる。
たまたま嵐に足止めされて教団に留まっていた神田の耳にも、その爆音は届いた。

「敵襲か…!?」
「状況確認を!」

神田が自室のドアを蹴破るように開けて、ふき抜けになった階段広場を一気に飛び降りた。既に下の方ではいち早く科学班やファインダーが情報収集に動き始めていた。
神田は報告を待たずに爆音がした方向へと走り出す。音は修練場の方からだ。



神田が修練場の入口に行き着く直前、中からまた爆発音が響いた。数人のファインダーが吹っ飛ばされて扉から吐き出され、そのまま地面に沈む。
飛んできたファインダーを器用に避けて、神田は蝶番のイカれた扉から中へ飛び込んだ。


一瞬、ここがどこだか分からなかった。
ひどい有様だった。


柱は何本か倒れ、壁という壁は砕けて穴が空くか、そうでなければ表面がボロボロに崩れ落ちていた。ガラス窓は全て砕け散り、散乱した破片に稲光が反射する。辺りには止めに入ったファインダーが転がってうめき声をあげているし、依然として爆発の煙や砂埃で視界は悪い。

「うわ、なんだこりゃ!」

あとから駆けつけた科学班もその惨状を見て瞠目した。思うように近づけない。近づこうとすると風が邪魔をするように鎌鼬を飛ばし、あるいは突風で壁を作った。


何が起こったのか。
原因は、集まった科学班やファインダー、エクソシストの目前で宙に浮いていた。


風の塊がある。何かを中心に、風がそれを取り巻くようにうねりを上げて球体を描き、吹きすさんでいる。
ごうごうと音を上げて鎌鼬があちこちへ飛散する。
その轟音の中で、微かに届いてくる声があった。



――幼子のような、小さな小さな、泣き声



神田はこの声に聞き覚えがあった。

!」

チッ、舌打ちをしてからその名を叫ぶと、一瞬、風が弱まった。

「そこにいんのか!」

ビュオウ、声を拒否するかのように鎌鼬が起こる。高く跳躍することでそれを避けて、神田は風の塊との距離を縮める。

「――――……っく、……ひっ、く………」

風は弱まらない、しかし近づくことでその中心が少しずつ見えるようになってくる。

!」

視界で完全に中心を捕らえる所まで接近する。もう一度名を呼ぶと、が顔を上げた。
神田に気がついて目を丸くする。

「何してる、早くこれを止めろ!」

神田の剣幕には一瞬怯えた表情を作る。
けれど、最近いつも兄に対してしゃべる時がそうであるように、恐る恐ると行った風情で口を開く。

「に、兄ちゃん……。わ、分かんないんだ…!これ……ど、どうなってる、のか……」

ぼろぼろ落ちる涙を必死でぬぐいながらはまた俯いて、首を降る。

「どうし、よう……、…あう……。止まんない、よ………」

を中心に風は渦巻き、止む気配はない。
この現象はが起こしていることは間違いがなさそうだった。

のイノセンスは自然や自然現象を操るものだ。意図的に水や火を扱い、攻撃や防御に使うことが出来る。
しかしそれはイノセンスを使いこなせれば、の話。精神的に不安定で、イノセンスの制御どころか、自分自身にすら迷いを持っているにイノセンスを思うように扱えるはずもない。

それを体現するかのように、イノセンスは暴走している。

「発動を止めろ!」
「わ、わかんないんだよぉっ―――!」

声に呼応するように風が一際渦巻いた。遠目に白い服が散らされたのが目に入る。
神田はもう一度小さく舌打ちをもらした。これでは埒があかない。

「エクソシスト以外は全員ここから出ろ!」
「カンダっ!何をするつもりだ!」
「早くしやがれッ!」

有無を言わさず、意識のあるファインダーや科学班は出来るだけ負傷した人々をかついで、一目散に駆け出した。
すれ違うようにリナリーが入ってきて、即座にダークブーツを発動させた。

「リナリー、お前の鎌鼬でこの風の壁を止めろ!」
「、カンダっ?!」
「一瞬でいい!」
「……っ、分かったわ!」

リナリーはダークブーツで瞬く間に飛翔し、渦巻く風へとイノセンスで出来た衝撃波をぶつけた。
ダークブーツの作った衝撃の波は、わずかの間、風の壁に無風の道を作りだした。
が、それと同時にこれまでよりも更に激しい風の渦と鎌鼬が辺りに飛び散った。既に傷つけられたボロボロの柱や壁が、見るも無残に破壊される。

「…ッ!」

神田の腕に鎌鼬が作った赤い傷が幾筋も走る。
しかしそれを意にも介さず、神田はその荒れ狂う鎌鼬を器用に避けて、ダークブーツの作り出した風の壁の隙間からついにへと到達した。
目の前に現れた兄には目を丸くし、咄嗟に身構えた。

「に、ちゃ…」

その様子に神田はいつものように眉をひそめる事はせず、赤い傷の出来たその腕でをふわりと抱え上げた。
今までに対して神田は無愛想で、触れる所かまともな会話すらした事がなかったのに、急な出来事には驚いて硬直した。
神田は赤子をあやすように、頭を優しい手つきで一つ、撫でる。

「…大丈夫だ、。俺がいる」

多くは語らなかった。
けれど、その腕の温もりが、母を思い出させた。
がぐずっている時には、母がよく頭を撫でてくれた。

そして優しく言う。
『大丈夫よ、。母さんが付いてるからね』

だからは思った。
この人は、自分の兄なのだ、と。

の目から涙があふれた。
今までよりも一層声を上げて泣いた。
けれど、その涙は今まで流していた涙とは違う。温かい、救われたような涙だった。
同時に、風が徐々に止んでいく。最初は鎌鼬が止み、方々でうねりをあげていた風が弱まり、終いにはを取り巻く風の壁も消えていった。
風の無くなった空間で、は神田に抱えられて、ゆっくりと地面に着地した。

ボロボロになった修練場には、の泣き声だけが木霊した。
やがてそれも小さくなり、後には、安心したように眠る子供の寝息だけが残されていた。










2012/08/05

2014/04/14 追記
原作で神田の素性が明らかになる前に書いたものなので、原作との矛盾があります、というかなんというかもうパラレルみたいになってます。すみません…。