「いっ……いくら兄ちゃんだからって、あたしはやめないからな!」
身長の高いコムイに比べると、ひどく小さい少女が立っていた。
たった今修練場に入ってきた神田に気がつくと、コムイと向き合っていた少女は切羽詰まった声で、慌てるように、しかしはっきりと言いきった。
「あ?」
一段トーンが低くなった神田の声にビクつきながらも口を引き結んで、7歳上の兄を見つめた。目じりに溜まる涙は知らずこぼれ落ちそうになる。けれど雫になることはなく、勢いよく顔を背けるとそれは見えなくなった。
孤独な我侭
「…何の話だ」
六幻を肩にかついで、今まで言い争っていた風のコムイと
のもとへ歩いてゆく。言い争っていた、というよりは、コムイが
に何かを諭していたという方が正しいだろう。
コムイに持たれた右腕が微かに震えている。それに気づかないフリをして見下ろすと、
はビクリと体を震わせ更に顔を俯かせた。
「コムイにだって関係ない!」
「でもねぇ、
くん」
「離せよ!」
もうこれ以上聞きたくないと言わんばかりに首を振って、手を振り払って逃げるように修練場を飛び出していく。
あっと言う間のどたばた劇だった。
「あらら。完璧に怒らせちゃったみたいだ」
立ち上がりながら帽子をかぶり直す。今しがた
が出て行った方を見ると、ちょうど大きな音をたてて扉が閉まるところだった。
「……」
「カンダくーん、聞いてよ!」
「……。……なんだ」
いつもの調子でおどけたコムイに普段なら無視をするところだが、それが妹のこととあっては聞かないわけにはいかなかった。
自分から聞かないことを見越してか先に口火を切るコムイに、めずらしく素直に神田は疑問をなげかけた。
その様子にコムイはほんの少し苦笑して、口を開く。
「実はね……」
修練場や居住区よりも更に上の階に、物置きになっている部屋がある。教団内を探検していた時に見つけたその部屋には、その用途や地理的な理由から、あまり人が近づかない。
その部屋の、窓の外。森を見下ろせる小さな一角に、建物と同化しそうな黒髪が座っていた。20センチほど突き出たようにある壁の足場に、
は小さくなってうずくまっている。
が開け放した窓からほこりっぽい部屋の中に風が吹き入る。夕方の色に染め上げられた色あせたカーテンは、ゆるやかな風に寂しく揺れる。時折ぱさぱさとカーテンが立てる音だけの静かな空間はどこか物悲しい。
何度目かになるその光景を見て、神田は溜息をこぼした。
自分と同じ真っ黒な髪を持つ妹は、たまに姿をくらましていなくなる。神田が本部にいるときは、それを探し出して連れ戻すのは専ら彼の役目になっていた。
神田がいないときにはなぜか
は誰にも見つけることができない。そうして丸1日ほど経ってから、目を真っ赤にして
は戻ってくる。
なぜ神田だけが見つけられるのか。
周りの人間は”兄弟だからだろう”と言うが、本当は
が神田にだけは見つけてほしい(……)からなのだと、コムイとリーバー班長あたりは気がついていた。
神田が静かに窓枠に腰をかけると、それでも
は反応を返さなかった。気がついていないわけではないが、何を言うべきなのか、言葉を探しても見つからなかったからだ。
何を言われるのだろうか。
きっとまた、いつものように鋭い視線と怒ったような声で、叱られる。いや、兄の場合、兄弟のそれというよりは、師範が弟子をたしなめるのに似ている。ファインダーの人たちにするような辛口にも似ているけど、でもファインダーの人たちに対しては隠そうともしない”嫌悪”が、
に対してはなかった。
とにかく、突然喚き散らして逃げ出してきたのだ、叱られるに決まってる。
昼過ぎに自分のしたことを思い起こして、
は腕に顔をうずめたまま口を引き結んだ。
「…具合は、もう良いのか」
しかし続いた言葉に虚を突かれて、
はパッと顔を上げた。窓枠に腰掛けた兄は六幻を壁に立てかけ、部屋の中に顔を向けている。さらさらと、黒い髪が小さくなびく。
尊敬してやまない兄は、しかし決して愛想は良くないし、他人を素直に心配するような人ではないのを、少なからず知っている。現に、その眉間にはいつもの皺がしっかりと刻まれていて。声には少し不機嫌さがにじみ出てもいる。
けれど、その兄が。
わけもわからないまま飛び出してきて、絶対に怒られると思ってたのに。
心配を、かけてしまったんだ。
そのことに初めて気がついた。
気がついた途端鼻の頭が熱くなって、
は慌てて顔を腕に戻した。
泣くもんか。
泣くもんか。
兄ちゃんはどんな時だって泣かないだろ。
泣くな
!
心の中で何度念じても目から溢れる雫は止まらない。漏れそうになる嗚咽を必死に隠そうとするけれど、ちっとも隠せてなんかいないんだろう。けれど意地がそうさせるのか、気づかれまいと声を押さえて涙が早く引っ込むようにと
は心の中で唱え続けた。
こういう時、兄はなぐさめてくれたりしない。慰めのコトバをかける兄など想像もできなかったが、しかしそれでいい。
優しくされると、甘えてしまうから。
ここの人たちは、みんな優しいから。
ごしごしと乱暴に目をこする。目がはれぼったい気がするが、そんなこと気にしてられない。震えそうになる声に気をつけて俯いた。
「………ごめんなさい」
ぼそりとつぶやいた
に、苦笑が漏れる。
昨日貧血で倒れてから今日の朝まで医務室で眠っていたと、
が飛び出していった後の修練場で神田はコムイから聞いた。今日の昼に教団に帰り着いた神田には知りようもなかったが、しかし
も隠そうとしていたのだろう。船着場に戻ってきた神田を、
はいつものように笑顔で出迎えた。確かに言われてみれば、少し痩せたと心の片隅で思ったのを神田は思い出した。
「どうしてだ」
兄のコトバは端的なことが多い。しかし目的語がなくても、
には兄が何を言わんとしているかが分かっていた。
どうしてそんな無茶をしたのか。貧血で倒れてしまうような、後先を考えないような、そんな。
「……強く、なりたい、んだ」
だから昼も夜も構わずに鍛錬を続けた。この2週間は特に、ほぼ1日中、睡眠もろくにとらずに修練場かへブラスカの所にいた。何かに取り憑かれたように、
はただ修行に打ち込んだ。
全くと言っていいほど食堂に顔を出さない
を、引きずってでも連れてくるようにとジェリーに頼まれたのはリーバー班長だった。嫌がる
を文字通り”引きずって”来たのは1週間前。修練場かへブラスカのもとに篭る
を見つけてはリーバーやリナリーは
を食堂に連れてきていたが、ここに来て限界を迎えたのだろう、出向いた食堂で気を失ってバタリと倒れたのが昨日の話だ。
が1日中鍛錬に明け暮れるようになったのは、神田が任務に発った2週間前からだと気がついたのは、
が倒れてからだった。
「何をそんなに焦ってる」
「…………焦って…んのかな、あたし。…あたし……、…兄ちゃんと一緒に戦いたいんだ」
―――兄ちゃんと一緒に戦いたい。
その気持だけどんどん膨らんでいく。
兄はどんどん強くなる。けど、
はまだ実戦に同行すらしたことがない。特殊なイノセンスだから外に出るまでに時間がかかる、それは今まで何度もコムイやヘブラスカやリーバー班長や、沢山の大人に言われて納得しているつもりだった。
でも、神田が任務で教団を空けたりすると、ひどく堪らなくなるのだ、なぜ自分は兄と一緒にいけないんだ、と。
―――早く兄ちゃんと同じ戦場に立ちたい
それは憧れなのかもしれなかったし、寂しいからなのかもしれなかった。
にもこの感情の意味はよく分からない。
ただ、一緒にいたい。
兄だけ危険な戦場に立っていて、自分は安全な場所にいることにひどく焦燥を覚えてならない。
「そっか……焦ってたんだ……」
早く一緒に戦いたいから。
「………ごめんなさい。……これから、気を付ける、から」
窓へ近づいて来て、恐る恐る目線を上げた
の頭をぐしゃりと混ぜる。初めて会った時には短かった髪は、今では肩にかかる程には伸びた。兄ちゃんの髪と同じくらいの長さに伸ばすんだ、と息巻いていたとなんとなく思い出す。
「戻るぞ」
「うん!」
まだ目は赤かったが、もう涙は出てこなかった。
―――これからこれまで以上に一緒に居よう。任務の話を聞いて、一緒に修行をして、1日でも早く兄ちゃんと一緒に任務に出られるようにがんばって、でも兄ちゃんにはなるべく心配かけないようにしなきゃ。
明るい顔で神田と一緒に戻って来た
を、コムイは暖かい笑顔で出迎えた。
2009/12/11
いやね、ほら。神田を兄ちゃんって呼ばせたかったんです。
神田18歳、11歳。反抗期。神田が神田ぢゃない....。
原作設定無視気味(というか無視)でごめんなさい。(単行本18巻までしか読んでないんす…)