日本は豊かになった。豊かな国に、なった。

けれどそれは、平均的に見れば、の話である。
貧富の差は増々広がるばかりで、豊かな者はより豊かに、貧しい者はより貧しくなっていた。衣食住に困らないとされた平和な国は、もう今は昔の話だ。
そんな中で日本に貧民街が出来てから既に久しい。
義務教育は確かに、受けられる。
けれど、その日食うものにも困るような生活を日々送っていた少年が小学校を卒業出来たのは、奇跡に等しい。
いや、奇跡なんかじゃない。
それは兄が払った尊い犠牲の結果だった。
もう二度と会えない兄を想って、幼いながらに少年は思った。


次は、自分が母と兄弟達を守る番なのだ、と。






02








「審神者様!どうしてあのような事をおっしゃったのですか!」

こんのすけがきゃんきゃんと喚くのを聞きながら、は目の前の立派な離れとやらに向かっていた。

の挑発が効いたのか、赤い刀は「望みどおり殺してやるよ」とギラつく目でを殺そうとしたが、空色の髪をした青年がなんとかそれを食い止めて、その最中にほとんど力づくでは広間を追い出されてしまったのだ。

空色の髪の刀剣曰く、とにかく頭を冷やせ、と。

としては、あの場で白黒付けたかっただけに、非常にがっかりしていた。追い出された後も外から様子を伺っていたが、揉める声やそれを諌める声などで広間は混沌としているようだった。
返ってどさくさに紛れて殺してくれやしないかと思ったものの、追い出された広間に戻ろうにも、ふすまを開けたら別の刀剣が出て来て再びふすまを閉めてしまい、そのまま入口に立ちふさがっての行く手を阻んだ。が広間に入ろうとする度にそれを阻み、結局が再び広間に入ることは叶わなかった。
揉める声が聞こえるものの、この場では“頭を冷やして、再度話し合う”ことが刀剣男士の総意なのかもしれない。
空色の髪の青年よりは背が低く、けれどよりは背の高い、腰に中くらいの長さの刀を佩いた刀剣は、広間の入口の前で、冷ややかな目でを見下ろしていた。がいまだ引き下がらずに留まっていると、業を煮やしたように、その刀はの腕を強引に掴んで文字通りほとんど引きずって移動しはじめた。
その力に抗うことも出来ずに、転げそうになりながら引きずられて行った先は、母屋と離れのような建物を繋ぐ渡り廊下のような所だった。
その入口でぞんざいに放り投げられては尻もちを着いた。

「去れ」

刀剣は一言そう言ったきり、母屋には近づけさせまいとするように仁王立ちして、仕方なくは狐の後について審神者が本来拠点とするらしい離れに向かっているのだった。
刀剣からある程度距離が開いた所で、こちらを非難めいた目で見上げてきゃんきゃん喚く狐を見下ろして、は落胆の溜息を隠しもせずについた。

なぜあのような事を言ったか、と狐は言ったか。
そんなの、決まってる。

「“どうして”……?あんたこそ、どうしてそんな事聞くの?」
「あれでは殺してくださいと言っているようなものではありませんか!挑発や冗談にしてはタチが悪すぎます!あれではいくら命があっても足りませんよっ!」
「えっと、だから挑発でも冗談でもないってば。実際に殺してくださいって言ってるんだけどなぁ」

狐は、齢11歳にしてそんな悲しい事を飄々と言ってのけるを見上げて、悲しげに耳を下げた。
の頼りない体は、痩せていると言うよりもやつれていると言った方がしっくりと来る。頬はこけて、この年頃の少年にしては随分と腕も腰も細い。
こんのすけは、この新しい幼い審神者が貧民街の出であることは聞いているし、それを素直に納得してしまうくらいには少年の出で立ちはあまりに不健康だったが、しかしどのような境遇に身を置いていたか、どのような経緯でこの本丸に着任するに至ったかまでは聞いていない。
その死に急ぐような言動は、けれど凪いだ瞳とはどこか不釣り合いで、それがこんのすけを酷く不安にする。
彼は、どうしてそのような事を言うのか。

「なぜそのような事を……。審神者様は、本当に殺されることが審神者の仕事であると、そう思って……いらっしゃるのですか……?」
「え、うん。そのために来たんだけど」

の首筋からは細い血が未だに流れ続け、白い上着の襟を赤く染めている。だというのに、それを全く気の留めた風もない。これはもしかして、本当に彼が言うように、“殺してもらうつもりだから”、こんな傷はどうとでもないのだと思っているような、そんな気がして、こんのすけは背筋が凍る思いだった。

「………」
「あんた達政府の人はそのために僕をここに放り込んだ。刀剣男士の怒りを沈めるために、ひとみごくう?いけにえ?が必要だったから用意した。それが僕。それだけ。――今更、だよね」
「そんな!わたくしども政府は決してそのように考えているわけではございません!」
「ふぅん……」

こんな幽霊屋敷みたいな本丸に堕ちかけの付喪神がいて、ついでに相当高い命の危険のある引き継ぎなどを、誰も進んで引き受けたりしない。それを、貧民街出身の中学にも入学していない子どもを審神者に仕立て上げて、金をちらつかせて非常に危険なブラック本丸へと行くように仕向けたのだ。
それはつまり、“命の危険はあるが、金をちらつかせれば貧乏人が食いついて来るし、死んでも貧民ならば社会的損失は限りなくゼロに近く、失敗しても痛くも痒くもない。もし万が一にでも本丸が立て直せたならば、棚からぼたもちだ”、と。
そう政府が考えているだろうことは、いくら学の低いにだって分かる。
そのようにしか見えないけれど、その政府の式神である狐は“そんなふうには考えてない”と主張する。
あっそうですか、という気しかしなかったけれど、それを狐に言ったってどうしようもないし、そもそもそんな事を言う気もには無かった。
結局の所、と政府の利害は一致している。

「大人の事情ってやつ?僕、馬鹿だからよく分かんないけど」

けど、と一息入れては続ける。

「殺してほしいのは本当。この本丸で刀に殺されれば特別手当が僕の家族に支払われる。だよね」
「それは……、……はい、確かに当初の約定により、確約されております。けれどそれはあくまで、不慮の事故や事件により命を落としてしまった場合の保険という意味であってーーー」
「うん。だから自殺はしない。刀が僕を殺してくれるの待つよ」

狐は愕然とした。
は、だから自分は殺されるためにここへ来た、と言う。
しかもそれがさも当然のように。
悲しみや悔しさや恐怖や、人間が抱くであろうおおよその感情など微塵も持ち合わせずに、飄々と言ってのける。

確かに、異常をきたした本丸、俗にブラック本丸などと巷で噂される本丸に於いて、引き継ぎの審神者が何らかの事故や事件により命を落とす事は、残念ながら少なくない。そのため、当然そういう本丸へ何の見返りもなく引き継ぎへと来たがる人は居ない。
苦肉の策として政府が出したものの一つが、審神者に対する保険のようなものだ。
異常をきたした本丸で万が一にも審神者が命を落とすような事があれば、それ相応の見返りを政府が支払うという、保険である。
これはもちろん、自らを死へと追いやった審神者には適用されない。

そしてはこれがあるから、わざわざブラック本丸の引き継ぎなんていう誰もやりたがらない仕事を快く引き受けたのだ。そうして充てがわれたのがこの本丸だった。
それだけのこと。

目的は一つ、自分を殺してもらうこと。
それによって、莫大な金を手に入れること。

うまく殺してもらえるかは分からなかったが、この調子ならそう時間を要せずして目標は達せるだろう、とは思っていた。

「でも、ちょっと失敗だった」
「……?」
「まだあんな穏健派?の刀剣男士が残ってるなんて。次はあっさり殺してもらえるように、もっとうまくやるよ」
「審神者様……!」
「あの様子を見るに、あんまり待たなくてもよさそうだし。良かった」

本当なら、金を手に入れるだけなら、方法は2つある。
一つは、このブラック本丸を立て直して、正常な本丸運営を行うこと。そうすれば、通常の本丸の審神者がそうであるように、国家を護る役職としてそれなりの報酬が約束されている。
けれど、はそれを自分が成し得るなどとは考えていなかった。
世にブラック本丸と言えば、優秀な審神者が幾度となく送られ、そうして二度と帰って来なかったというのは都市伝説でもなんでもない。実際に数多に起こった事実であり、それはつまり、ブラック本丸の立て直しがいかに困難であるかを物語っている。
音に聞く審神者が成し得なかった所業を、義務教育も終わっていない、平凡どころか貧民街の出である学のない自分に出来るなんて思うほど、はお気楽ではなかった。
ならば残された道は、一つしかない。

「………。審神者様……そうまでして、お金が必要なのですか」
「うん」

迷いもなく頷くに、狐は涙の膜の張る瞳で見返すも、もはや何も言い返せなかった。そのまま何も言えず、審神者の後をとぼとぼと付いてくる。

審神者は、一度徴兵されてしまえば簡単に現世へと帰ることは出来ない、と、をここへと送り届けた“担当”だと言う男は言っていた。
それこそ、戦えない程に傷を負うか、特殊な事情がない限りは現世へと帰れない、と。
政府はーーー人間は、今未曾有の危機に瀕しているいるのだ。歴史修正主義者という、時をも超える能力を持った規模すら分からない未知の敵と、日夜、いつ終わるとも知れない“戦争”をしている。
だから、現世にそう簡単に帰れるとは夢々思わないことだ、と何度も言い含められた。
実際、戦争なのだから、そう簡単に前線から帰ることは出来ないだろうと思っていたし、はその言葉をすんなりと受け止めた。もとより、“生きて”帰るつもりは無かったのだから。

前線で、いつ襲って来るとも知れない未知の敵と戦うことを義務付けられた、審神者という仕事。
その中で、が家族の元に帰ることが出来る唯一の手段。

それは、自分が死体になることだとは考えている。
死ねば、体は家族の元に還してくれると政府の人間は言っていたから。
だから、さっさと死んでしまって、体だけでも家族の元に帰れたらいい。

もし万が一、何かの偶然が重なって、不幸にも(、、、、)この本丸で生き延びてしまった暁には、相当な苦労が待っていることは想像に難くない。
この本丸で、堕ちかけた刀剣男士に邪険に扱われるだろうし、もしかしたら、いや恐らく間違いなく、手を挙げるやつらだって居るに違いない。
強者が弱者に力を振るうのはいつだってどこだって同じ。ここの刀剣は前任者にそういう仕打ちを受けて来たという話だから、審神者や人間を憎む刀剣が“仕返し”をするのは至極真っ当な流れだろうと思う。
暴力、強姦、薬、なんでもござれな貧民街だが、とて慣れては居てもそれらが好きな訳ではない。
この本丸で生き延びてしまうということは、貧民街と同等、いや、それ以上の苦痛が待っているだろうことは、想像だけれど恐らくそんなに大きく外れた想像では無いはずだ。
孤独の内に苦痛に耐えて、耐えて、苦渋を舐めて這いずり回るように生きていかなければならない。苦しい上に、殉職しないのだから当然特別手当もその分、先延ばしになってしまう。
正常な本丸運営に程遠いその状態では、標準の給金だって出ないだろう。
ここで生きていたって、いいことは何一つ、無いのだ。

だから。

だから、さっさと刀剣達に殺されて、殉職した事によって得た金が家族の元に渡ればいい。
そして、たとえ死体でも、家族の元に還れたらいい。
むしろそれ以上素晴らしいことはないと、真面目に思う。
もし臓器を売ったとしても、大した金にもならない上に体だって家族の元に還れないのを考えれば、ブラック本丸の引き継ぎ審神者というのは、現世では考えられないくらい効率の良い仕事、だった。
にとって審神者の仕事とは、ただそれだけのものでしかなかった。

は離れに入ってから仮宿を軽く見て歩きながら、とりあえず休めそうな場所は無いかを見て回ったが、どの部屋も血糊や汚れで酷い有様で、体を休められそうだと思える場所はほとんど無かった。
その中で、恐らく前任の審神者の部屋だろう場所はある意味まともと言えばまともではあったが、豪奢な作りの内装は趣味が良いとは言えず、香か何かの強烈な匂いが漂っていてとても長く留まれるような気はしなかった。
かろうじて一部屋、物置のような狭くて暗い小部屋があって、はここをとりあえずの“拠点”にしようと考えた。拠点と言っても、使うのはほんの数日だけになるだろうけども。
小さな明り取りの窓があるだけの埃っぽい小部屋は、けれど布で囲われていた貧民街の貧相な自分の“家”よりもまだだいぶマシに見えた。小部屋の入口の襖を開けて敷居を跨ぐように廊下側に足を向けて座り、折った膝に片肘をついてその上に顎を乗せ、母屋の方を眺める。
この屋敷は来てからずっと濃い霧のようなものに包まれていて薄暗く、昼間であっても母屋の方を向いた所で、ただ霧が広がるばかりで何が見えるわけでもなかった。距離があるので喧騒すらもほとんど聞こえては来ないが、夜にでもまたあちらへ行って刀剣男子に会ってみようとなんとはなしに考えた。
が腰を落ち着けてからも、狐は耳を垂れたまま、ずっと傍に控えて座っている。

「あんたにも、ちょっとは悪いと思ってる」

がそう声を掛けると、こんのすけは再度審神者を見上げた。
少しでもそのような気持ちを持っているのなら、少しはこんのすけの意思を汲んで考えを変えてくれるかもしれないと、微かな希望を持つかのように、その瞳はまっすぐとを見ている。

「では…、審神者様……」
「ちょっとしか居る予定のないガキの相手させて、悪いな。どうせ長くてもあと数日だと思うし。離れの場所は分かったし、もう僕の世話なんかしないで、好きにしてくれたらいいから」

それだけ言うと一つ息をついて、もう話すことは無い、とでも言うかのように、はごろんと横になって目を閉じた。
こんのすけは今度こそ目に溜まる涙をこらえきれずに、クゥン、とか細く鳴いた。









2018/05/11

僕を、殺して 02