月が綺麗だ。
昼間降った雨のせいで空気が澄んだのか、晴れ渡った漆黒の空にまあるい月が浮かぶ。
こんな日は人間の街の飲み屋なんかには行かずに、本家の縁側でのんびりと飲むのもいいかもしれない、と
はぼんやり考える。
結局考えた通り、女妖怪に頼んだつまみと共に酒を飲み始めてから幾許か、眺めていた月を横切る者があった。
「リクオ様、どちらへ?」
「散歩」
聞こえてきた声に
が縁側から見上げて見れば、夜リクオが蛇の妖怪に乗って屋敷から飛び立つ所だった。
おもしろい、
は猪口の中身をぐいと飲み干すと、口笛を短く吹いて己のしもべを呼び寄せた。影から飛び出したその銀色の毛に覆われた狼のような、けれど狼よりも二周りほども大きい不可思議な動物に跨り、リクオの乗る蛇と肩を並べた。
「散歩だって?俺も混ぜろよ」
「
…!」
人間の基準で言う所の中学生になり、リクオは2度目の覚醒を果たした。
それを皮切りに、リクオは牛鬼の反乱をうまく収め、四国妖怪どもとの決闘をも切り抜け、少しずつ三代目としての階段を登っている。
夜の妖怪の姿にも慣れたのか、夜リクオはちょくちょくと散歩と称して夜にフラフラと街を徘徊する事があった。
はどうやら、偶然その夜歩きの日に当たったらしい。
今日は運が良い、と
は口の端を持ち上げた。
四国妖怪どもとの戦いの際はぬらりひょんと行動を共にしたため、
はリクオとの七分三分の盃を交わす機会を逸したままだった。
最近は人間の仲間とも仲良くやっているようで、そうやって考えてみると、夜リクオとゆっくりと話しをするのは結局、これが初めてだった。
心に灯る
「今日は人間の街で飲まなねぇのかい」
綺麗な月夜に銀の髪を棚引かせて、確かに総大将の血を受け継ぐリクオが口を開く。
「こんなにいい月夜だ、たまには本家でのんびり飲むのもいいだろうと思ったのさ」
「なるほど。違いねぇ」
そう言って、ふ、と笑う。
全く以て、この夜リクオのどこを見て、昼リクオとこれが同一人物だと思う妖怪がいるというのだろう。
その仕草は総大将や鯉伴にも似て、百鬼を統べるのに遜色ない威厳を持ちあわせている。
「今日はどこへ行くんだ、リクオ」
「特に決めちゃいねぇ。とりあえずのんびり、街を見て回るのさ」
「そうか。そういや、悪さをしてる妖怪をシめて廻ってるってぇのは本当か?」
「誰がそんなこと言ってんだ?」
「黒羽丸が言ってたぜ」
「また黒羽丸か。別に、シめてるってわけじゃない。ただ、気に食わない奴にはそうと言ってやっただけよ」
「なるほど、そいつぁ面白ぇ。お手並み拝見と行こうじゃねぇか」
「だからそんなんじゃねぇよ」
しばらくそんなやり取りをしていた。
と、ふいに眼下に水色の火の玉が円を作って飛び回っている社がある。見れば、だいぶ廃れた社だった。
鳥居はほとんど原型を留めず、朽ちかけている。その社殿の近くに、紅い衣を纏った女がいた。
「なんだ?」
「お、あれは…」
訝るリクオが降下していくのに、
は付いて行った。
リクオが地に降り立つと、女も同じくしてこちらに気がついたらしい。おや、とたおやかな仕草で首をかしげて見せた。
「これはお珍しや。
様ではございませんか」
「瀧夜叉、久しいな」
「ええ、随分とご無沙汰でございます」
平安貴族が着たような唐衣を優雅に着こなした女は、
を見るとゆるりと礼をした。
髪は一つに括られており動きやすそうにしているが、出で立ちは唐衣を羽織っているせいか派手やかだ。
「そちらのお方は?」
「奴良組の若頭だ」
「おや、まあ!これはとんだご無礼を。瀧夜叉と申します、若頭」
「ああ、奴良リクオだ。…
、知り合いか?」
「まぁな。無駄に長く生きてりゃあ知り合いも多くてな」
「ふうん」
「今日はまたどうなさいました、
様?若頭と一緒においでとは、何か起こりましたかえ?」
「いや、そういうわけじゃねぇ。単なる散歩さ」
「ほほほ、それは愉快な事でございますな」
瀧夜叉は長い袖で口をかくし、とても楽しそうに、しかし控えめに笑った。
「瀧夜叉、といったか。あんたはここに住んでんのか?」
「いえ、まさか。馴染みの妖怪に挨拶をした帰りでございまして。以前、ここに住んでいた者がおりましたので、懐かしゅうて、少し眺めていたのでございます」
「リクオ。瀧夜叉はこう見えて剣の達人でな。刀を持たせれば中々敵うもんはいねぇって専らの噂なんだ」
そのおしとやかな姿形からは想像も出来ないような事実に、リクオはほぉ、と感心した。
どこからどう見ても、とても刀を振り回す御仁には見えないからだ。どちらかと言えば、部屋の中で陽にも当たらず静かに過ごしている姫君の方がイメージに合う。
薄くお白いを塗り、紅を引いた瀧夜叉の唇がふふ、と笑う。
「やめてくださいよ、
様。もう随分と昔の話でございますれば」
「謙遜を。刀で勝負をしたら、俺だって勝てない」
「
がか?」
「そうさ。リクオ、一度手ほどきを受けてみるといい。いい勉強になるだろうさ」
「もう、
様。おやめくださいな。若頭が本気になさいますわ」
「いいじゃねぇか、本当の事だろう」
「そうだな、瀧夜叉。俺もまだ若輩。一度是非、師事願いてぇもんだ」
「まあ、若頭は随分と勤勉でいらっしゃるご様子。そうでございますねえ、剣でもお酒でも、是非またご一緒致したいものですわ」
優雅に笑う瀧夜叉に見送られ、二人は再び飛び上がった。
「おや、
の旦那じゃございやせんか」
「おう、絹狸。またせこい商売でもやろうってか?」
「いやですよ、旦那!あっしはつねに誠心誠意込めて商売してるんで。これも商売の技ってやつでさぁ!」
「どうだかな」
「おっと、そちらはもしや奴良組の若頭で?」
「そうだ。リクオと言う」
「へい、存じておりやす。絹問屋をしておりやす、絹狸の奏太と申す者でやんす。どうぞご贔屓に!」
リクオと
が浮世絵町を徘徊している間に、実に様々な妖に会った。
先代や先々代を知っている妖はリクオの姿を見てそれと気がついた者もいたが、しかし、今宵会った妖のほとんどは
の知古らしく、
を通じてリクオは様々な妖と挨拶をする運びとなった。
「しかし、
は知り合いが随分と多い」
「そりゃぁそうだ。なんて言ったってもう数百年はここにいるからな。あちこち遊んでまわった証拠だ」
「は、なるほど。見習いたいもんだぜ」
夜も半分を過ぎた頃、森の中に見つけた程よい更地に二人は降り立って、ここらで月見酒でも、という話になった。
予め持ってきていたらしいリクオの持つ酒と、
の持って来たつまみとで、森の開けた場所にある切り株に腰掛けながら、二人は静かに飲み始めた。
「リクオと飲める日が来るなんてなぁ。早いもんよ」
「なんだ、随分年寄りくせぇことを言いやがる」
「リクオに比べたら俺は十分爺(じじい)さ」
しとしとと、月の光が二人に降り注いだ。
いたずらばかりしているガキだと思ったら、いつの間にやらすっかり立派になってしまった。
リクオの姿を見ながら、意図せず、過ぎし日のぬらりひょんと鯉伴を思い出す。
本当によく似ている。
出来る事なら親子三代、大妖怪三人が肩を並べて酒を飲み交わし笑い合う姿を見てみたかったものだ。
叶わぬことだと知りながら、それでも尚、そんな事を願ってしまう。
「(俺も年かね)」
変わらぬ
の姿形。
ぬらりひょんも牛鬼も、周りの妖怪は人間よりもとても緩慢とはいえ、少しずつ年を取っていく。外見的にも、その中身も。
それなのに、
はどこか世界から切り離されたようにその時を止めていた。
「そういやぁ、
も元は人間だったって言ってたよな」
思いついたように、ぽつりとリクオがこぼした。
「よく覚えてるな、リクオ」
「なんとなく気になってたんだ、あの話。あの時おめぇさんは、俺が酒が飲めるようになったら教えてくれるって言ったよな」
は目を見開いた。
そう言ったことを未だにリクオが覚えていた事にも驚いたが、それよりも、まさか妖の姿であるリクオに聞かれるとは思わなかった。
「ホントに、よく覚えてやがる」
「聞かせてくれよ。約束だ」
「約束、ね。いいだろう、ちょっと話が長くなるぜ」
「構わねぇよ」
それから
は、リクオに全てを話した。
人間だったこと。
世界を渡ったこと。
全国を彷徨ったこと。
数世紀、木のたもとで抜け殻のように生きたこと。
そして、ぬらりひょんと盃を交わしたこと。
羽衣狐についてはどうしても話せなかったが、ぬらりひょんと共に京の都を謳歌したこと、鯉伴と共に江戸の街で大暴れしたこと、そして鯉伴と若菜との間に生まれたリクオのこと。
「それからはリクオも知っての通りだ。未だに自分の組も持たずに、のんびりやってるってわけだ」
「ふうん」
自分から聞いて来たわりには、リクオの相槌は味気ないものだった。
けれど、それが興味が無いからでないことは分かっていた。
は話終えて乾いた喉を潤そうと、ぐいと一杯酒をあおる。
しばらく、沈黙が降りた。
風が草を撫でる音が、ゆっくりと辺りに木霊していた。
「帰りてぇと思うのかい」
「…え?」
「もし元の場所に帰れるなら、帰りてぇと思うのかい」
リクオはこちらを見ない。
酒を口に運び、どこを見るとはなしに見ている。
そんなリクオを
はチラと見、それからふふ、と愉快そうに笑った。
「まさか。俺の居場所はもう決まってんだ。例え自分が育った場所だろうと、俺はそっちよりも今の場所に居たほうがずっと居心地が良い」
「そうか」
「そうだ」
チラ、とリクオもこちらに目を向ける。
二人の視線が一瞬、絡む。
ぱ、と視線を逸らしたリクオは、それからまた盃に口をつけた。
口元には、微かに笑みが乗っている。
「リクオ」
「なんだい」
「―――盃を、交わしてくれるか」
「
……」
「七分三分の盃を。お前から」
「……、…いいんだな」
「もちろんさ。俺が人間だった事を話した妖は、後にも先にも、盃を交わした相手だけなのさ」
「―――そうか」
そうして二人は静かに盃を交わした。
月だけが、二人を見ていた。
2013/08/13
瀧夜叉の瀧の字が違うのはわざとです。物知りな方のために、念のため。
ぬら孫、これにて終劇。