「……何それ」
思わず
は、夏目の傍らに座るモノを指さしながら眉をしかめた。
夏目の隣には、大きな犬のようなものが座っていた。
「えーっと、まあ、色々と事情があって…」
そう言って曖昧に笑う夏目に、
は朝っぱらから溜息をつきたい気分になった。
私は貴女に、恩がある
朝、昇降口の入り口で
は夏目に会った。
というよりも、夏目は
を待っていたらしかった。
を見つけた夏目が顔をあげるのと同時、夏目の横に座っていた大きな犬のようなモノに、
は不信な様子を隠しもせずに夏目に尋ねた。
わざわざ
を待っていたのだから、何か用件があるだろうことは察しがついた。
が、傍らのそれ(、、)は、明らかに日常生活で見かける部類の生き物とは趣を異にしていた。
シベリアンハスキーのように見えなくもないが、普通のそれよりも2周り程も大きいそれは、どこからどう見ても日常生活で見かけるはずのない生き物だ。
本物を見たことはないが、日本では絶滅したとされる狼が居たとしたら、きっとこんな風なのだろうと
は思った。
「狼朔(ろうさく)、この人で間違いないか?」
「はい。ありがとうございます、夏目殿。では、また後ほど」
「え?ああ…」
狼のように見えたものは人間の言葉でそう応えると、ス、と空気に溶けるようにかき消えた。
と夏目はただその大型の生き物が消えた後を目で追っていた。
しゃべるのだから妖だと思ってまず間違いない。夏目とのんびり並んで話しをするくらいなので、害ある妖では無さそうだが。
「…何、今の?」
「えーっと、何て言ったらいいのか…」
またも言い淀んだ夏目に、
は怪訝そうに眉を寄せる。
「何か厄介事か?」
「…何で俺が関わるとすぐそこにたどり着くんだ」
「条件反射というか」
「いや、厄介事ではない…ハズだ」
「…うわ」
「いや、本当は学校に付いて来られても困るから家で待っておいてくれって言ったんだけど、どうしても姿だけは見て確認したいって言うから、ちょっとだけって約束で連れてきたんだ」
「今の奴を?」
「うん。で、やっぱり
で間違いなかったってことなんだろうな。消えちゃったけど」
「…?」
「とりあえずここで話すのもなんだから、今日放課後、時間あるか?」
「無くはない」
「それは有るという意味で捉えるぞ。じゃあまた、放課後に」
そういってさっさと夏目は上履きを履いて廊下を歩いていった。
高校生で“放課後に待ち合わせ”というシチュエーションを演出しておきながら、浮ついた雰囲気どころか少しの青春らしい欠片もない。しかし、それはこの二人に求めた所で無意味というものだ。
は軽く息をついてから、夏目に続いて校内へと入って行った。
かくして、放課後。
校門付近で夏目と落ち合い、学校を出て二人は連れ立って歩き出した。
「で、どしたの?」
「あー、うん、なんというか。とりあえず家の近くまで来てくれるかな。実は俺も、詳しい話は聞いてないんだ」
「あ、そう。りょーかい」
夏目の家から少し離れた草むらに、果たして今朝見た狼のような妖は居た。
「狼朔。待たせたな」
「夏目殿。かたじけない」
木陰で休んでいたらしい妖は、二人の姿を認めると座り直した。
今朝も思った事だが、座った状態でも狼朔という妖はだいぶ大きい。これで牙でも向けられたらたまったものではないと、
は少し狼朔と距離を保ったまま制止した。
「
様。お会いしとうございました」
けれど次いで言われた言葉はどちらかと言えば感極まったような言い方で、言われた内容に
は首を傾げた。
「ん?あたし、あんたに会ったことがあったか?」
「いえ。しかし私は貴女に、恩がある。貴女に礼を言いたくて、探し回っていた次第です。本当に、ありがとうございました」
「えーと…参ったね。すまないけど、何に対しての感謝なのか聞いてもいいか?」
最初は少し警戒していた
だったが、狼朔に敵意が完全に無いことを感じ取って警戒を解いた。
「私の息子を弔ってくださった。もう、数ヶ月前の話しになります」
狼朔は語り出した。
数ヶ月前、降り続いていた雨がやっと止んだ日の事だった。
は偶然通りかかった場所でそれを見つけた。山にほど近い、山肌に面した舗装もされていない細い道の上だった。
降り続いた雨のせいで小規模ながら土砂が崩れ落ち、その下に子犬が埋もれていた。
土の中からか細く鳴く声に
が気づいたものの、既に雨で弱っていたのか息は小さく、土砂を掘って助け出した時には事切れていた。
は息をしていない小さな身体を綺麗に拭いてやり、白い布に包んでその側に埋めた。その場所には土を盛って墓石代わりに小ぶりの岩を置き、近くで探して来た小さな花を一輪、供えた。
「あの子犬の親御さんだったのか…」
子犬と思っていたが、目の前の狼朔が親ということは妖だったのだろう。
それでも、突如として牙を向いた自然の力に小さな妖の子どもは為す術もなく命を奪われた。
「そっか…残念だったな。もっと早く見つけてあげられれば良かったんだけど」
「いえ。弔って頂けた、その事だけで十分です。ありがとう、ございました」
獣の表情は
が見たところで分からないが、それは気落ちしたような顔だった気がする。
に向かって頭を垂れる狼朔に、
は頭を一つ撫でてやった。
狼朔の耳がひくひくと、か弱く揺れた。
「おはようございます」
「うわっ…!お、はよう……」
翌朝、
が自宅玄関の扉を開けて外へ出ると、それを待ちぶせていた狼朔が挨拶と共に出迎えた。
昨日、あの後「いい」と断る
を押し切って、狼朔は恩を返すまではお側に、と
の後を付いてきた。
流石に
の家の中に入るには大きすぎるし、狼朔も遠慮したので、もう住処に帰るように昨晩は十分に言い含めて
は家に入った。
ちゃんと帰ったか2階の窓から下を見た時には姿が無かったので、てっきりちゃんと住処に帰ったものだと思っていたのだが。
「…何、まだ残った用事でも?」
「はい。昨日申しました通り、ご恩をお返しするまでは
様のお側にお仕えさせてください」
その堅実な物言いに、随分と真面目な妖も居たもんだ、と
は半ば感心した。けれど、その内容には些か困ってしまう。
「仕えるって言ってもねぇ…。あたし、別に戦争に出てったりとか実はすんごい密命帯びてたりとかしてないから、一緒に居てもあんた、すること無いと思うんだけど」
「ただ、お側に」
「…暇だよー、多分」
「構いません」
「なら、まあ、いいけど…」
邪魔はしないでねと釘を刺そうかとも思ったが、このどこまでも誠意のこもった真摯な対応に、流石にそれは止めておいた。
歩き出した
に、狼朔は静かにあとを付いてきた。
授業中、校庭の植木の側で待機している狼朔に、初めは周りの人間に見られたりしないかと少し冷や冷やしたが、別段、以前のように悲鳴を上げたり姿を見る生徒が居たりといった何かの弊害が出る事はないようだった。
いや、ただの一人を除いて。
「…田沼?どうかしたか?」
「ああ、いや…。なんか、頭が痛くて」
「(しまった、こいつが居た)」
田沼が少し青い顔をしていることに気がついて声を掛けると、何とも申し訳ない答えが返ってきた。周りには狼朔以外の妖も見当たらないし、田沼は朝は何とも無かったと言っているので、十中八九、狼朔のせいだろう。
は内心でこっそりと田沼に謝っておいた。
教室で説明する気にもなれず、
は昼休みになると購買で買った昼ご飯を持って、田沼から遠ざかろうと狼朔を伴って学校敷地内の端まで来ていた。
以前、鞘葉やヒサギが居た時は特に頭が痛いとかは言っていなかった気がするが、狼朔が強い妖なのか、その日の環境や田沼の状態に左右されるのか、それは分からない。
田沼には説明せずにとりあえず一人での昼食になったが、隣には文句一つ言わず付き従っている狼朔が居て、なんだか一人の昼食という感じにはならなかった。
狼朔からは話しかけて来ることもなく、全くの沈黙というのも少し居心地が悪いように思われて、
は気になっていた事を聞いてみた。
「なあ、何であたしって分かったの?君の子供の墓を作ったのが」
「墓の周りで妖どもに聞いて回りましたら、それをしてくださったのが人間の娘だと聞いたのです」
人間で妖を見ることが出来る者が稀だというのは、狼朔も知っていた。だから、この辺りで有名な夏目とやらに聞けば何か分かるかと思ったのだと言う。
夏目を探すのは簡単だった。見つけた夏目に聞いてみると、案の定、彼には心当たりがあった。
「微かに貴女の匂いも墓に残っておりましたので、夏目殿に連れられて貴女を見た時、確信しました。この方だ、と」
「ふーん、なるほど…」
人間には到底出来ない芸当だな、と
は思った。
狼朔は、子供を見つけた時の事も少し話してくれた。
一瞬目を離した隙に居なくなってしまったこと、探したけれども中々見つからなかった事、数ヶ月掛けてやっと匂いを見つけたと思ったら、それが土の下からだったということ。
「私は後悔しておりました。我が子が死んでいるだろうことを、既に感じ取っていたからです。この厳しい自然の中において、あの子が一人寂しく死んでしまったのではと、とても後悔しておりました」
狼朔はとても沈んだ声で、けれど気丈に話してくれた。
子どもは道に迷って帰れなくなってしまったのか、棲家とする山ではなく、隣の山から見つかった。さぞたくさん歩いて、棲家を探したことだろう。それでも棲家に帰れずに命を落とした子どもの気持ちを思うと、
ですら顔が曇った。
「けれど、墓に供えられた白い花を見た時に、どこか心が軽くなった気がしたのです」
「そっか……。少しでも役に立ったなら良かったよ」
「本当に、ありがとうございました」
「……うん」
頭を垂れる狼朔を見て、「不思議だ、」と
は思った。
妖と言っても、母が子を思う気持ちは同じ。それに、墓に供えられた花を見て心が軽くなるという気持ちも、
にはとても人間に似ているように思えて、とても不思議だった。
いや、それは別段不思議なことでも何でもないのかもしれない。
ただ、人間がそれを知らないだけで。
「おーい、田沼。今日あんた体調どうよ?」
「……、……どしたの
」
翌朝、席に着いて早々に
にそう尋ねられて、田沼は少々面食らった。
その顔は“
が他人の体調を気にするなんて槍でも降るんじゃないか”と思っているような気持ちがありありと見えて、
は一瞬むっとしたが、今日は何も言い返さないでおいた。
「いや、うん、ちょっとこっち来い」
田沼は机にかばんを置いて、二人して廊下まで出る。
窓際まで来ると、一応周りに人が居ないことを確認してから田沼が口を開いた。
「で、どうしたの?」
「いや、ちょっとな。今、妖が学校の敷地内に居るんだ。昨日、あんたが頭痛いって言ってたから」
「――あぁ、そういうこと」
田沼も少し話しが分かって来たようで、うーんと考えた素振りをした後に、首を横に振った。
「いや、別に今日はなんともないな」
「そ、か。うん、いや、今日は学校の敷地でも端っこに居てもらうようにしたから。一応、確認をさ」
「気を使ってくれたんだ?」
「…別に、そういうわけじゃない。自分が関わってる件で田沼が倒れたりしたら迷惑だからな」
「へえ、なるほど?」
全く素直じゃないんだから、と田沼は苦笑いをしながら心の中でひとりごちた。
「何か手伝おうか?」
「いや、今回はホント別に問題があるわけじゃないから大丈夫。つかあんた、どこまでお人好しなんだ」
「困ったときはお互い様だろ」
「見上げた根性だね」
「それに助けられたのはどこの誰だ?」
「それを言うな」
「ははは」
さすがにそれについては
も助かったと思っているのか、
は少し眉尻を下げた。
「ま、なんかあったら言えよ」
「必要な時は遠慮なく言わせてもらうんでご心配なく」
それは何より、と田沼は軽く返しながら、本当に今は特に問題は無さそうだな、と今日は大人しく引き下がった。
チャイムが鳴りすぐそこまで担任が来ているのが見えて、二人は伴って教室に入って行った。
それから2週間ほど経った、土曜日。
朝から
は出かける支度をしていた。
「狼朔。ちょっと今日出掛けるんだけど、付き合ってくれるか?」
「無論です」
休日で家には父が居るので、
は玄関先で待機していた狼朔に声を小さくしてこそこそと耳打ちをした。
狼朔は座っている状態でも、顔が
の顔の高さにあるので腰をかがめる必要もない。
が口に手を当ててこしょこしょと話す度に、狼朔の耳がぴくぴくと動く。
「そか。もうちょっとで出るから」
「はい」
パタパタと家の中に入っていき、準備が終わるとあまり時を掛けずに再び
は玄関から外へ出て来た。
「お待たせ。行こうか」
が歩き出すと、いつものように狼朔は
の少し後ろの方を付かず離れずに付いてくる。
女子高生の後ろに大きな体の狼のようなものが付き従っているのは傍から見れば異様だが、幸いにも狼朔を視認出来る人間はほとんど居ない。
はまず、近くの花屋に寄ってから小さな花束を買った。
それから町から離れ、山の方へ進路を向ける。
が歩みを進めるにつれて、周りの民家は段々と数を減らし、代わりに藪が増えていく。そうしてとうとう、
は山へと差し掛かる小道に辿り着いた。
見えて来たのは、最近出来たばかりと思われる土砂崩れの跡と、そこから少し離れた所にある小ぶりの岩が乗った、小さな盛土。
狼朔の子供の墓だった。
「
様…」
「…うん。墓参りをね、折角だから」
は仏壇から持ってきた線香に火を付けてから墓に置き、買ってきた白い花で出来た小さな花束を側へと置いて、手を合わせた。
「おし、と。狼朔も墓参り、するだろ」
「……」
狼朔は何も言わなかったが、代わりに墓へ向って少し頭を垂れて、黙祷した。
しばらく、辺りには風が木々を揺らす音だけが響いていた。
目を開けた狼朔は少しの間墓を見つめていたが、
へと体を向けるともう一度頭を下げた。
「ありがとうございます、
様」
「礼は十分受け取ったよ。あんた、2週間以上もあたしと居るけど、家族とか仲間はいないのか?」
「…おります」
「――そか、安心した」
は少し表情を和らげた。
もう狼朔は十分
の側に居てくれたし、帰る場所があるのにいつまでも一緒に居させるワケにもいかない。
は出来れば狼朔にはもう山に帰ってもらおうと思っていた。
子どもを亡くして気落ちしている風だったから、もしこのまま山に帰っても狼朔一匹なら少し可哀想だと思ったが、家族や仲間が居るなら安心出来る。
「隣山って言ってたけど、こっから一人で帰れる距離か?」
「はい、大丈夫です」
「そっか。じゃあ折角仲間が居るんだ、その人らのためにももう戻りなよ。あたしの方は大丈夫だから」
「いえ、ですが…ご恩をお返しするまでは」
「そんなに難しく考えなくってもいいって。困ったときはこっちから声掛けるしさ」
「……、ですが…」
中々納得しない狼朔に、
は苦笑しながら、じゃあ、と一つ狼朔に提案をした。
「じゃあ、さ。いっこ、お願い聞いてもらっていいか?」
「はい、何なりと」
「この辺の森か山に、ヒサギっていう白髪に赤目をした子が住んでるんだ。ユリの化生?みたいな妖の子なんだけど、さ」
「はい」
「見かけたらでいいから、気にかけてやってもらえると、嬉しい。なんていうか…まぁ、あたしの妹分みたいな子でさ」
「――心得ました」
「うん、ありがとう。それをしてくれれば十分、あたしは助かるんだよね。だからもう仲間のトコ、戻りなよ」
狼朔はだいぶ考えているような素振りを見せていたが、でしたら、と結局最後は納得してくれたようで、再び散々
に礼を言って頭を下げた。
「また、いづれどこかで」
「うん、またな」
狼朔は少し名残惜しそうにしながらも、ひょいと1段高い場所へ飛び乗ると一度振り返り、軽く頭を下げる。
そのまま今度こそ振り返らずに、山の中へと消えて行った。
2014/09/06