ほら、また。
彼女は決まって、そう言う。
まぶしい程の青空が広がるときも。
どんよりとした厚い曇が空を支配したとしても。
いつ止むとも知れぬ雨が、延々と降り続く日でも。
どこを見ているのか分からぬ瞳は、変に揺れて、そして、ぽつり、と。
「不思議だ」
雨降り続き
その日はひどい土砂降りだった。
傘を持っていた生徒ですら、靴の中はもちろんのこと、
シャツやズボンやスカートの裾をびしょ濡れにしているというのに。
傘を持たずに校門を走り抜けた彼女は、靴箱で身震いをすれば池が出来るほどの濡れ鼠だった。
真っ黒な髪から雫を滴らせながら、透明なゴミ袋の中から無事だったかばんを取り出す。
一応、と思って持ってきたお気に入りの柄のタオルはすぐに重たく湿って、何度か絞ってようやく彼女は冷え切った素足に冷たい上靴を突っかけた。
それぞれがある程度濡れているのは当然で、生徒は未だ降り続く雨に悪態を余すことなくぶつけている。
朝から雨が降り続いていたのにも関わらず傘も持たず、さらにはびしょびしょになった服のまま無造作に席に着いている彼女に、周囲は奇異の目を向けた。
いつものそれに気を留めることもなく、彼女は朝のHRが終わってから、担任の教師に言われた通り体操服に着替えて教室に戻る。
しかし自分の席にはなぜか水溜りが出来ていた。
「…」
確かに、自分は学校に来たときはずぶ濡れで。
でも、タオルでおおよその水分を取ってから席についたのだから、まあ席が濡れる程度は致し方ないにしても、水溜りが出来る、とはいかがなものか。
すぐに原因は見つかった。
「
さま。
さま。かさを、私めのためにありがとうございました」
三つ目で、少し小柄、というよりは小さいサイズの、薄い水色をした髪をずるずると引きづった少女のような様相の“それ”が、
の傘を自身の前に置いて、三つ指揃えて頭を下げていた。鼻から下は、和紙のような紙が吊ってあって見えないが、四枚の花弁から成るいくつもの小さな花が一つの房になっている華のように見える、薄い線が入っているのを見ると、“それ”がどこから来たのか分かるような気がする、と、ついさっき、家を出てすぐのところで思ったばかりだった。
“それ”は教室の後ろに鎮座しているロッカーの上に座っていて、確かに他の人間にはそこに一本の傘が横たわっているだけに見えるのかもしれない。
けれどもどうして、“それ”は何事もないようにそこにいるのか。
に向く目は、彼女の意思如何に関係なく、自然と“奇異”な色を帯びるというのに。
“それ”は明らかにこの空間には相応しくないものなのに、さも当たり前のようにそこにあるのか。
「不思議だ」
窓の外を見てつぶやく。
誰かに疑問をぶつけることが無意味であると、随分前から身を以って知っていた。
だから抱えきれないもやもやとした疑問とか不満とか不安とかが胸の中で渦巻くと決まってこう言う、不思議だ、と。
「傘、貸したのに。なんで濡れてるわけ」
“それ”の前に置かれた傘をベランダに持って行きながら、ぽつりと言った。
案の定付いて来る“それ”は、
が言葉を返したのが余程嬉しかったのか、若干の怒りと不満を含めてつぶやいた言葉に嬉々として答える。
「一度話してみたいと期を伺っておったのですが、傘を貸して頂いて非常に嬉しく、けれどあなた様の妖力はいささか私には強うございまして、あなたの妖力を纏った傘を開くことが叶いませなんだ」
あほか。
言ってやろうと思ったけど止めた。そもそも妖に傘なんぞ貸そうと思った自分がおかしいのだ。
さしずめ、
の席のあたりでうろうろしている“それ”のおかげで、席は
に追随して濡れねずみになってしまったのだろう。
「で、何の用」
ちらりと始業のベルが鳴らないかどうかを確認しながら、
はベランダで傘をさした。せっかく体操服に着替えたのに、また濡れるのは遠慮したかった。
変なものを見るような目がこちらに向くのはもう慣れっこだ。教室の中で一人、ぶつぶつ言っているように見えるよりは、ベランダで傘を差している奇特の方がまだマシな気がした。
「傘を返しに参りました!」
「…」
ひどく嬉しそうに微笑む三つ目の“それ”は、けれど、あまりに人間に似ているような気がした。
「…ども」
“それ”らは、とても不思議。
妙に丁寧な奴もいるのに、理不尽な制約を架して人間を苦しめる奴らもいる。
ああでも、それは自分達人間と変わらないのかもしれないと、
は思った。
始業のベルを合図に傘を閉じて教室に入る。
席がびしょ濡れなののいいわけをどう繕うかを考えながら、雑巾を手にした。
「まだいたの」
高校指定のかばんを脇にはさんで、靴箱から出して今しがた投げるように地面に落とした靴を目で追っていると、裾の長い和服と草履が目に飛び込んできた。
視線を上げると、今朝見た三つ目の少女がちょこんと立っていた。
「
さま。家までお供させていただいてよろしいでしょうか」
「なんで」
「濡れてしまいますので」
飄々と言ってのける“それ”に
は溜息を付きたい気分になった。
「…まあ、風邪でもひいたら困るからな」
「妖は風邪を引きません、
さま」
「…………あっそ」
それ以上何も言う気が起こらず、黙って傘を差す。すると、すすすと少女が寄ってきて
の歩調に合わせるように横を歩く。
はそれについては悪態も何も言わずに、ただ歩いた。
“それ”らは、不思議だ。
妖と呼ばれる“それ”らは、人間に酷く似ている。
別にそれらが好きなわけでもない自分が、どうしてかそれらに構ってしまう。
不思議、だ。
相変わらず雨は降り続く。
2008/08/28